第4話
それからしばらくはずっと忙しかった。
俺は短い期間で短編小説を4作書き、一方で営業としても新しい仕事を受注してその立ち上げにバタバタしていた。
コンの家の様子は相変わらずで、夜な夜な3人で酒を飲んでは騒いでいた。配偶者からの連絡は未だになく、当然こちらからも何も連絡していない。
要するに俺はまだ立ち止まったままだと言うことになる。
しかし別に何も考えず日々を送っていた訳ではない。眠りの言葉は生活の端々で物陰から俺を見つめていた。
そいつらの視線は痛々しく、刺すようで、目が合う度に俺は少し立ち止まって自分の持ち物を確認したりした。
相変わらず俺は狂ったように他人の小説を読み漁っていた。
そしてその中で俺は自分の考え方、趣味趣向が変わりつつあることに気付いた。
20代初頭の頃から、俺の中での不動の1位は村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」であった。しかし先日、長らく居座ったその座を中島らもの「バンド・オブ・ザ・ナイト」に明け渡すことになった。
少しずつ自分が変わり始めていることを認めざるを得なかった。
過去、俺はハードボイルド・ワンダーランド(世界の終りも好きだが、どちらかと言えば俺はハードボイルド・ワンダーランド派なのだ。世界の終りを読み飛ばしてハードボイルド・ワンダーランドだけを読んだことも何度もある)の主人公のように無機質に生きたいと本気で思っていた。
ハードボイルド・ワンダーランド、この無機質さこそが以前の俺が求めていたカッコ良さだった(まさにハードボイルドとでも言うのだろうか)
羽海野チカの「ハチミツとクローバー」の野宮匠もカッコ良かった。とにかくそういったある種の潔さに物凄く惹かれていたのだ(「北斗の拳」のサウザーにも似通ったものを感じる。いや、これはちょっと違うか……)
しかし最近、どう考えてもここまで無機質にはなれないことに気づいている自分がいた。
いつの間にか俺の部屋の中は大事なものだらけになっていたのだ。家族、お気に入りの本、去年買った黒のコート、集めに集めたCDのコレクション、ふかふかの布団、ミニ四駆、壊されては困るものがたくさんある。
携帯を海に捨てるなんて以ての外である。毎日ログインボーナスを粛々と貯めているあのゲームはどうなってしまう。要するに自分にはそんな器も度胸もないことにようやく気づいたのだ。
中島らもの小説の一番の魅力はその極端なまでの「暴力性」と「優しさ」のバランスにあると思う。中島らもの小説では酒やドラック等、暴力性を中心に描かれた作品が多い(本人も破天荒なお人だった)
しかしその間、間で信じられないような「優しさ」が入るのだ。そのバランスがたまらなく良い。このようなバランスを小説の中で取ることは難しいことだと思う。
バランスを取り損ねてしまうと小説自体の方向性が中途半端なものになってしまう(村上龍の作品はものにもよるが「暴力性」一編という気がする。それはそれで好きなのだが。「コインロッカー・ベイビーズ」なんて何度読んだことだろう)
氏の小説はそこを自身の持つユーモアセンスで絶妙なバランスを取り持っている。いろいろ読んだが、「バンド・オブ・ザ・ナイト」はその完成形に思えた。
銀杏BOYZの音楽にも同様に「暴力性」と「優しさ」が共存していると思う。最初の2枚のアルバムからは特にそういった印象を感じた。だから最近、銀杏BOYZもよく聴く。
改めて聴くとものすごくロマンチックなバンドだ。
つまりは「より無機質に」と在るのではなく「より何かに尖り、一方でより何かを受け入れる」べきではないのかと最近思うのだ。
俺には壊されたくないもの、失いたくないものがたくさんある。きっとこの先、それを本気で守ったり、失くしたりするだろう。そしてもし失くしてしまったら失くしてしまったことを受け入れられるようにならないといけないとも思う。
これは眠りの奴の言う「取捨選択」にも似ているかもしれない。
話を戻すが「バンド・オブ・ザ・ナイト」には男の強さ(暴力性)と弱さ(優しさ)が上手に描かれている。俺もそろそろそれらを受け入れなければならない年齢に差し掛かっているようだ。
それを最近強く感じる。
桜はあっという間に散ってしまった。そうなることは分かっていたからあまり悲しくはなかった。
話は変わるが、得意先への謝罪というのは何年経っても嫌なものだ。
印刷にはミスが付き物だ。一般の方には理解され難いのだが、印刷物を作るということは簡単そうに見えてものすごく難しい。
あなたが今日通勤中に見かけたフリーペーパー、はたまたポストを埋め尽くすダイレクトメール、これらには職人に技術と営業の細かな指示が詰まっているのだ。
マゼンタのパーセンテージを少し間違うだけで色は大きく変わる。紙厚をちょっと変えるだけで触ってみた感触は全然違う。それに気候や湿度によって同じ紙でもまったく違った顔を見せるのだ。
しかしそれに対して「いやぁ、紙は生き物ですからネ」なんて言い訳してみても一般の方はなかなか納得してくださらない。
だから謝る。印刷会社の営業マンは謝る。なけなしの事故対策で自分の首を絞め、それでも頭を下げる。側から見て決してカッコいいものではない。内から見たってカッコ悪い。そしてそれが俺の仕事だ。
で、今日は課長と一緒に得意先へ謝りに行く。出掛ける前に事前に用意しておいた報告書に目を通す。
例にもよって痛々しいくらい自分の首を絞めた事故対策だった。しかしそれなりの規模の事故であったためやむおえない。
今日謝りに行く得意先担当者の赤井さんは非常に色にうるさい人なのだ。
刷り上がった会報誌が事前に提出していた色校正(色見本のようなものだ)と少しだけ色が違うと指摘された。確かに言われてみると少しだけ違う気もした。しかしこれを事故と言われてしまうと正直こちらとしても辛い。が、仕方がない。そこが受注産業の弱いところだ。
そして俺は個人的に赤井さんが苦手だ。いつも人を見下した態度で、取引業者をまるで召使いかのように扱うのだ。しかし悔しいことにそれなりに売上のある得意先だった。とりあえず謝るしかなかった。
「課長、今日はとりあえずこの報告書に沿って説明しますよ」
「うん」
俺と課長は桜の花びらの散る公園を通り抜け、得意先へ向かって歩いていた。
「提示する事故対策で納得されなかった場合どうしましょう?」
「うーん」
と言って課長は俺の目を見ない。
「これ以上の改善策はこちらとしても難しいと現場からは言われています。僕もそう思います。最悪、この仕事はもう断る線も考えておいた方がいいかもしれないです」
「あぁ、うん、そうだね」
ちょっと欠伸をしかけている。
「売上は下がりますけど、こうも同様の事故が頻出しては会社としても問題ですし……ねぇ課長聞いてます?」
「ん? あぁ、お前に任せるよ」
……出た。
俺はもう何も言わず役目を終えたピンクたちを踏みしめた。
得意先のビルはいつもより威圧的に俺を迎え入れた。こういうシチュエーションは本当に嫌だ。
そもそも俺が何かを間違えてこんなことになったわけではないのだ。まぁ、そんなことを言っても仕方がないのだが。
会社を代表して謝るのだ。こんな時だけ自分が大人になったことを感じる。ブツクサ言っているが俺だって得意先に対して悪いことをしたなぁ……とは思っている。
あぁ、嫌な緊張感で頭の中がごちゃごちゃしてきた。受付の受話器を取る。
「こんにちは。O印刷です。赤井様宛に13時半のお約束でお伺いいたしました」
「あっ。赤井ですか……」
受付の女の子がちょっと口ごもる。
「ええ、赤井さん」
「申し訳ございませんが、赤井はただ今外出しておりまして……お約束されていたのですか?」
「えっ? 約束させていただいていたのですが……」
間違いなく13時半でアポを取っていたのだ。
「そうですか。失礼いたしました。申し訳ございませんが改めていただけますでしょうか?」
「はぁ……」
とんだ肩透かしだ。
「どうした?」受話器を置いた俺に課長が話しかける。
「いや、赤井さん外出してるみたいで」
「外出? ちゃんとアポ取ったのか?」
「取りましたよ。間違いなく今日の13時半です」
「なんだそりゃ」
仕方ないから俺と課長はトボトボと来た道を引き返した。踏みつけられた桜たちは心なしかさっきよりも汚れて見えた。
その後、課長は次の約束があったため足早に地下鉄の方へ消えていった。俺は今日はもう何も約束がなかったため、近くのコンビニでコーヒーを買い公園のベンチに腰掛けて飲んだ。
まさか外出中とはマイッタ。本当にふざけた野郎だ。しかしこんなことがあっていいのだろうか?
自らの非を認め素直に詫びを入れに来た業者を無視して外出するなんて。しかもちゃんとした手続きも取って約束もしているのだ。社会人としてこんなこと許されるのだろうか?
考え出したらどんどん腹が立ってきた。本当にふざけやがって。赤井、いやバカ井の奴。俺は普段あまり腹を立てたり人を嫌いになったりしないのだが今日はなぜか怒りを抑えられなかった。
そこで俺はフト黒田さんの十万通のDMのことを思い出した。そう言えば見積を提出してから数週間、一向に連絡が来ない。嫌な予感を掻き消すように携帯を開く。
「もしもし、どうもお世話になります。黒田さんはいらっしゃいますか?」
「はい、少々お待ちください」
電話に出たのは綺麗な声のお姉さんだった。しかしそんなことはどうでもよかった。黒田さんが出るまで少し待った。
「はい、黒田です。お世話様!」
相変わらず嫌になるほどテンションが高い。
「お世話になります。黒田さん、この前の十万通のDM、そろそろ決済おりました?」
「あっ、あぁ……あれなぁ……」
「……」
「いや、すまん。連絡しようしよう思っとったんやけどな」
「……」
「うーん、言いにくいんやけどな。他に決まってもうてん。上の判断でな。もう鶴の一声や」
「……」
「俺もどうしようもなかってん。そりゃー、御社には悪いことしたとは思ってるよ。せやからさ、またそのうち他で仕事回すわ。だから今回はすまん」
「……」
「なぁ、何黙ってんの? 商売なんやから明るくいこうや。切り替え、切り替え。って俺が言うことちゃうか」
電話の向こうで黒田さんが少し笑った。
「おーい、なんか言いや」
「……分かりました」
「おう、ほなまた次も頼むな!」
そこで電話が切れた。
俺は携帯をスーツのポケットにしまい、コーヒーを飲み干してため息を一つ吐いた。はぁ。
「よし」
俺は立ち上がって公園の出口の方へ歩き出した。
すっかり日が長くなった。この時期は18時ではまだ日が出ていて明るい。消える前の優しい光が汚れた街を照らす。ちょっと前ではもう真っ暗な時間帯だったのに。
俺は数週間前と同じように黒田さんの会社の受付に来ていた。
「黒田さんはいらっしゃいますか?」
「あっ、はい。あのぅ、失礼ですがお約束はされていますか?」
「していませんけどすぐに出てくるよう伝えてください」
「あっ、はい……」
受付の女の子はただならぬ空気を感じたのか素直に取り次いでくれた。
なかなか可愛らしい子だ。もしかしたらさっき電話に出たのはこの子かもしれない。
案の定、黒田さんはすぐに出て来なかった。本当に人を待たせるのが好きな人だ。俺はまた応接室で1人、黒田さんを待った。
「おーう、お世話んなります。どないしたんやこんな時間に急に」
黒田さんが来たのは10分後だった。でも俺はもう何も感じなかった。
「いや、約束を守ろうと思って」
「約束? なんや? なんの話?」
「黒田さん、俺はね、約束を破りたくないんです。つまりは嘘をつかないで生きていたいんですよ。本当にそれだけなんです」
「だからなんやねん? DMの件はもう決まってもうてるからどうにもならんで。だから……」
その時、黒田さんはソファに立てかけられている獲物に初めて気づいた。
俺は布に包まれたそれを抜き素早く黒田さんへ向けた。見事な業物がその鋭い顔つきを見せる。黒田さんは逃げようとしたが遅かった。冷たい日本刀はすでに黒田さんの首すじを射程距離に捉えていた。
「ひっ、ひぇぇ。殺さんとってくれぇ」
黒田さんが情けない声を出す。
「お前、嘘だったら日本刀持って殴り込んできていいって言ったよな?」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。それはさらに黒田さんを震え上がらせた。
「い、言いました! ゴメンなさい! ゴメンなさい!」
「あの時何回も念を押したよな? 覚えてるだろ?」
業物の平たい面を少し首すじに当ててやる。
「覚えてます! 覚えてます! だから殺さないで……」
「許さない。殺す」
まるでハードボイルド・ワンダーランドの主人公みたいなセリフじゃないか。
「絶対に許さない」
「わ、分かった。じゃあこうしよう。代わりの仕事を融通する。それで手を打ってくれ」
「お前な……二度も同じ手に乗ると思ってるのか!」
俺は声を荒げた。こんなこと何年ぶりだろう。黒田さんはビクッと身体を震わせ泣き出した。
「今度こそ本当です! 東京にうちの関連会社がある。そこでも同じくらいの量のDMを近々打つことになっている。その分を御社に必ず発注する! だから許してくれ……頼む!」
黒田さんは今にも失神してしまいそうだった。
ちなみにこの日本刀は知り合いの小谷さんから借りた。小谷さんはもともとはうちの会社の専属ドライバーだったのだが、会社を辞めて今はヤクザの下っ端をしている。このご時世になかなか珍しい転職である。
ドライバー時代に風俗の裏事情に深く首を突っ込んで揉め事に巻き込まれてしまい、その時お世話になったヤクザの事務所にそのまま入ったのだ。もともとヤクザの下っ端のような風貌だった男が本物のヤクザの下っ端になったのだ。
「はい、これ。約束の日本刀」
「ありがとうございます。助かりました」
「おう、気にするな。好きに使ってくれや。また風俗行こな」
「ええ、是非」
なんて感じで昼過ぎに連絡したら夕方には何に使うかも聞かず快く業物を提供してくれた。それも大小揃えて。素晴らしい対応力だ。俺も見習いたい。
さて、黒田さんは意識を保っているのがやっとなような状況だ。さすがにこの状況で嘘はつかないかもしれない。
「今度こそ本当なんだな?」
「本当です……」
消え入りそうな声だ。
「証拠は?」
「今すぐ証拠は出せないが、明日には関連会社の担当者から必ず連絡させる。一度東京に行って打ち合わせをしてもらうことにはなるが、今度は間違いなく御社に発注する。だから信用してくれ」
嘘を言っているようには見えなかった。それに東京か。長らく行っていなかったし悪くない。俺は黒田さんの首すじから業物を引いてやった。腰が抜けたのか黒田さんはそのままソファへ崩れ落ちた。
「悪かった……」
「業者だって人間なんだ」
「はい……」
「怒るときは怒るんだよ。あんまりナメるな。覚えとけ」
「はい……」
俺は布から残った脇差を取り出して抜いた。また黒田さんの表情が強張る。
「次はないぞ!」
そう言って俺は応接室に机に思いっきり脇差を突き立てた。せっかく借りたのだこっちも使わないと勿体無い。
「分かりました! 分かりました! もうしません!」
黒田さんの顔は涙でぐしょぐしょだった。もうそろそろなんだか不憫になってきた。
「じゃ、また今後ともよろしくお願いいたします」
家に帰るとコンが1人でギターを弾いていた。
「聴いたことあるフレーズだね」
俺はギターを弾いているコンの前に腰掛けた。
「うん、ビーチボーイズのサーフィン・U.S.A.」
「あぁ、そうかそうか。いっさいがっさいUSA……」
「遅かったね。飲んできたの?」
「ちょっとだけね」
「そうか、飲み直す?」
「うん、そうしようか」
「よし」
と言ってコンは冷蔵庫からビールを取り出してきた。とりあえず乾杯する。
「音楽は? なんかかける?」
コンは本当に気がきくのだ。
「そうだなぁ……」
「何にしようか?」
「じゃウルフルズのサムライソウルで」
「いいね」
業物は玄関の傘立てに立てかけられている。春は行ってしまった。足早に行ってしまった。
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