第2話
阪急電車に乗って市内へ向かう。珍しく座席が空いていたので座ってみた。少し幸せな気持ちになったが、よく考えれば通勤ラッシュはとっくに終わっているのだ。まぁ、そんなことはこの際どうでもいい。遅刻は遅刻、今からどう慌ててもそれは変わらない。
昨晩はあまり寝ていなかったので目を瞑る。眠りの奴はすぐにやってきた。暗闇から奴の足音がする。
「よう、また昨日も朝方まで原稿を書いてたんだな」
小僧のような格好をした眠りが俺に問いかける。
「うん、昨日のうちに何とかやっておきたかったから」
俺と眠りは並んでベンチに腰掛けた。
「そうか。それは結構なことだ。しかしお前もいつまでもうだつの上がらない物書きとサラリーマンの二足草鞋じゃ辛かろう」
「別に今の生活に不満はないよ」
「いーや、それは嘘だ」
「嘘なんてつかないよ」
「本当は自分でも分かってるんだろ? 今のお前は中途半端だよ。
作家として自分の書いたものはイマイチぱっとしない。自分では本当はもっと世間に認められるべきだと思っているのだろう?」
俺が黙っていると眠りの奴が更に続けた。
「それがお前の中で大きなブラストレーションになっている。最近のお前の書いたものはそんな思いで溢れているよ。あれじゃあ駄目だな」
眠りの奴はいつもこんな感じで横柄な物言いをする。
「そして食べていくためのサラリーマンとしての仕事、とっくにやる気なんてなくなっているんだろ?
お前が少なからず頑張っているのは最低限社内でのポジションを確保したいからだ。そんな体裁なんて何にも意味ないぜ。どうせ金の為なんて思ってるんだろう? 真面目にやっている人達に失礼なだけだ」
「お前に何が分かる」
ここまで言われたら流石に俺もカチンとくる。でも残念なことに全て眠りの言う通りだった。
「何が分かるって? 俺は全部知ってるぞ。お前の悩みも葛藤も。結局お前は何も選べてないんだ」
「選べてない?」
「そうだ。捨てるのが怖くていろんなものをどんどん抱え込んでしまっているんだ。それじゃ身体だけが重くなってどんどん身動きが取れなくなっていくだけだ。
家族のことだってそうだろ? 本気でもう嫌になったんならこんな中途半端な家出じゃなくてキッパリ捨ててしまえばいいじゃないか。それができないのは結局お前が弱いからだ。
お前は家族を捨てる気なんてハナからないんだよ。また熱りが冷めたらふらっと帰るんだろ? 情けない奴だ。みんながお前に振り回されて迷惑してる」
「……手厳しいな」
「お前が甘いだけだ」
俺はとっくの昔に止めたはずの煙草を眠りの奴から勧められて吸った。少し折れ曲がったキャスターだった。バニラの香りが甘い。
「なぁ、2人はああ言ってくれてるけど、コンのところにだっていつまでもいれる訳じゃないんだぜ」
「うん、分かってるよ」
「選べよ」
そう言って眠りの奴はキャスターの煙を斜め上に吐き出した。小僧のくせに慣れた手つきだ。
「一つ一つ選んで行け。一つ一つな」
次の瞬間、眠りの奴は龍に姿を変え天に昇って行った。すっかり禍々しくなったその口にキャスターを咥えたまま、奴は雲の向こうに姿を消した。
俺は灰皿を持っていなかったので地面で煙草を踏み消した。
「選べよ」
眠りの奴の声がまだ消えない。俺が今まで聞いてきたどの声にも少しずつ似ている声。それは優しくも怖ろしくもあった。
「選べよ」
目が冷めたらちょうど乗り換えの駅だった。ふらふらと外にでる。市内へ向かう電車を待っていると観光客らしき外国人に声を掛けられた。
「エクスキューズミー」
「あっ、はい」
不意打ちだったので日本語で応えてしまった。
まだ春だというのに彼は半袖半パンと真夏のような格好だった。きっとどこか遠い暖かい国から来たのだろう。
「アラシヤマ」と言って彼は手持ちの地図の嵐山を指差す。おそらく嵐山へ行きたいのだろう。
嵐山へ行くには反対のホームから河原町行きの電車に乗って桂で乗り換えねばならない。分かってはいたのだが英語が全く出てこない。俺はしばらく黙り込む。
「……ザット、プラットフォーム」
俺は情けなく反対のホームを指差した。
「オー、サンキュー」
彼は嬉しそうに反対のホームへ消えていった。本当に嬉しそうだった。
まったく俺は何のために義務教育に加えて7年も高校大学へ通ったのだ。更に情けない気持ちになる。
彼が上手く嵐山に辿り着けることをただただ願う。
情けない気持ちの中、電車を乗り継ぎ天王寺からまだ南に下る。ちょうど約束していた時間に俺は取引先のビルの前に着いた。今日は見積仕様の話を聞くために呼ばれている。
担当の黒田さんとはもう長い付き合いだ。受付に用件を伝えると応接室へ通された。
そこから20分、待てど暮らせど黒田さんは現れない。忘れられてるんじゃないか? とも思ったが面倒くさかったのでそのまま待つことにした。それに黒田がズボラな性格なことは重々承知していた。
応接室のソファはなかなかの上物だった。俺はそれに深く腰掛けて力を抜いた。
脱力。脱力するとフィッシュマンズの音楽が頭の中に流れ出す。
俺の中でフィッシュマンズは脱力の象徴なのだ。
いいメロディー、そしていい詩だ。ぼんやりと風景だけを見せる技術、俺は佐藤伸治のセンスに心底憧れる。
20代中盤の頃、本当によくフィッシュマンズを聴いた。「ネオヤンキース ホリデー」「オレンジ」「空中キャンプ」「キングマスタージョージ」「宇宙 日本 世田谷」「ロングシーズン」「チャッピー、ドント・クライ」擦り切れるくらい聴いた。中でも「空中キャンプ」は一番のお気に入りだった。ただ、ジャケットはダサかったな。他のアルバムのジャケットはオシャレな感じなのに、何故。
ふと、昨夜のサヨちゃんとのライブアルバムの話で「男達の別れ」を入れ忘れてたなと思った。
そんなことを考えていたら応接室の扉が開いて黒田さんが現れた。人を何分も待たせているくせになんだかニヤニヤしてやがる。
「お金儲けがしたいかー!」
そう言って片手を突き上げた。ちょうどエイエイオーみたいな感じだ。
「……したいですよ」
この人はいつもテンションが高い。基本的にテンションの低い俺はたまについて行けなくなる。
「なんやなんや、辛気臭いの。元気しとったか」
「まぁ、元気と言えば元気でしたけど、あれから大変だったんですよ? 社内でもだいぶ揉めて……」
そうなのだ。俺は黒田さんの所為でここ一月社内でも辛い立場に立たされていた。
元はと言えば黒田さんが発注しなければならない広報物を忘れていたところから始まる。
ある日の午後、俺の携帯に黒田さんから着信が入った。
「あんなぁ……ちょっとシンドイことになってもうて。助けてくれへんか?」
電話口の黒田さんは珍しくテンションが低かった。
「はぁ……どうしたんですか?」
「至急でお願いしたい案件があんねん。広報物で簡単な冊子やねんけど、緊急で1万冊、今週中になんとか納めて欲しい」
「今週中? えらいまた急ですね。確認してみますけど、ちょっと厳しいかもしれないですよ」
「頼む! あんたしかこんなん頼める人おらんねん。これが今週中に納まらんと俺の立場も危うい」
危険な匂いがプンプンしやがる。
「ちなみに予算は幾らくらいなんですか?」
「……実はな予算も取り忘れてて、かき集めても¥◯◯しか出せんねん」
「ちょっと待ってください。それじゃ完全に赤字ですよ。そんなの絶対無理です」
提示された価格では試算するまでもなく大赤字だ。
「頼む。今回だけ、何とか頼む」
「いやいや黒田さん、うちも商売ですから……」俺だって困る。
「じゃ、じゃ、こうしよう。来月、十万通のDMを打つ予定がある。それを御社に発注する。値段は言い値でいいから。な? だから今回は何とかしてくれ」
十万通のDM。悪い話じゃなかった。いやむしろ本当ならなかなか良い話だ。
「本当にですね?」
「もちろん、もちろん」
「絶対ですね?」
「あぁ、絶対や。絶対」
「本当に本当ですね?」
「あぁ、本当や。だから頼む」
「……分かりました。今回だけですよ」
それから俺は大急ぎで黒田さんの冊子の手配をした。
スケジュール、価格面の調整で俺はずいぶんいろいろなところで頭を下げた。かなりのお叱りも受けた。あれから一月経った今でもこの冊子の一件はことある度にチマチマと突かれる。
そして今日が件の「十万通のDM」の見積仕様を受け取る日だったのだ。
「この間の件はありがとうな。ほんま助かったわ。やっぱ御社が一番信用できますわ」
なんて言って笑いやがる。この前は泣きそうだったくせに。
「この前の件はもういいですけどね、早速今回の話を聞かせてください。十万通のDMでしたよね?」
「おう、おう。セッカチやなぁ。せや、十万通のDMで、こんな感じでA4の案内文を三枚印刷して、定型封筒に封入するつもりやねん」
と言ってサンプルを取り出す。見たところ簡単な仕様だった。
「問題ないです。一度社内で費用を積算してご提示します。確認ですけど、この案件は間違いなく弊社にいただけると考えていていいですね?」
「しつこいのぉ。男に二言はない!」
黒田さんは少しムッとした様子で応える。
「絶対に絶対ですね?」
それでも俺は疑う。本当に信用していないのだ。
「絶対や。嘘やったら日本刀を持ってここに殴り込んできてくれてもええ!」
「日本刀?」
「そう、日本刀や」
「日本刀」
「そう、例えばの話や。とにかく間違いないから大丈夫や」
「分かりました。じゃまた見積を送ります」
「おう、安めで頼むで」と言って黒田さんは笑顔を浮かべる。今すぐ日本刀で叩き斬ってやりたくなるような素敵な笑顔だった。
帰り道、動物園前で途中下車して立ち飲み屋に入った。
「ビール」
「あいよ」
というやり取りの後、直ぐにビールが出てくる。速攻性において新世界の右に出るものはいない。
まだ明るい中で飲むビールは格別だ。まだ少し眠かったがゲソの塩焼きをアテにビール2杯とワンカップ1杯を煽った。
「選べよ」
眠りの奴の声がまだ消えない。酒を飲んでボンヤリしても、その声はシャープにはっきりと輪郭を残していた。俺は心の中で「うるせぇよ」と呟きカウンターに金を置いて立ち飲みを後にした。
夕方、事務所へ戻ると俺は早速黒田さんの見積に取り掛かった。客商売において、反応はクイックレスポンスに越したことはない。これは新世界が俺に教えてくれたことだ。
原価を積算してみたが、だいたい思っていた通りだった。俺は通常の社内規定の利益の3倍をそこに乗せて見積を作成した。
「この見積、こんな高値で取れるのか?」
俺が作った見積を見て課長が少し怪訝な顔をする。
「大丈夫です。お客さん、今回は絶対にうちに出すと言っています」
「ふーん、これ、この前の赤字案件のお客さんだろ?」
「そうです。だから、今回はあの案件のお詫びと言うことで」
「ほぉー、まぁお前がそう言うなら任せる」
お前に任せると言うのが課長の口癖なのだ。素晴らしいことだ。
黒田様
いつもお世話になります。
本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございました。
ご依頼をいただいていたお見積を送付させていただきます。
決済がおりましたらまたご連絡願います。日本刀を研いでお待ちしております。
では、今後ともよろしくお願いいたします。
見積をメールしたところで事務のおばちゃんに名前を呼ばれた。電話の取り次ぎだ。
「工場のコンさんからお電話でーす」
おばちゃんの跳ねるような声がフロアに響く。俺は軽く手を挙げてそれに応えた。
「もしもし」
「よう、まだ仕事してんのか?」
「もちろん。どうしたの? 今日は夜勤明けで休みじゃないの?」
「そーだよ。天満で飲んでんだよ。来ないか? まだ仕事抜けられなさそうか?」
「いや、大丈夫。すぐに行くよ」
「やっぱり暇なんだな」
電話口でコンが笑う。
「うるさいな。ちょうど今仕事が片付いたところだったんだよ」
「はいはい。じゃ待ってるよ」
電話が切れた。コンの奴、全然信じてないな。まぁ仕方ない。確かにどちらかと言えば暇だ。
それにもう既に新世界でひっかけている身なのだ。そんなに偉そうなことは言えない。
扇町の駅から地上に出る。コンの指定した店はこの近くだ。日本一長いと言われるこの天神橋筋商店街もこの時間になると少し落ち着きを見せる。最近では昼間は外国人観光客で溢れており異常に混んでいる。
いったいこんなところで何を見るんだ? と思うが、こういうコテコテの大阪感が意外と外国人にとってはツボなのかもしれない。
「おう、来た来た」
俺が暖簾をくぐるとコンは直ぐに気づいた。
ラフなパーカーを羽織り焼き鳥をあてにビールを飲んでいる。机を挟んでサヨちゃんもビールを飲んでいた。こちらにいたっては全身アディダスのジャージ姿だった。サヨちゃんはあまり服装に気を遣わないのだ。
「どうしたの? 急に。大阪市内まで来るなんて珍しいじゃない」
「暇だったからね。サヨと2人で家で飲んでたんやけど、なんか気分を変えたくて大阪まで出ようって話になったんだよ」
「新世界まで行こうかとも思ったんだけど、面倒くさくなって天満にしといたの」
サヨちゃんがピアニッシモに火をつけながら言う。いい塩梅で酔っていやがる。
「へー、そうなんだ」
まさか俺が既に新世界で一杯ひっかけて来ているなんて夢にも思わないだろう。やってきた店員さんにビールを注文する。
「天満は良いね。安くて美味い酒、なんだかんだこれが一番なんだよ。
金を出して高値の酒を飲むなんて馬鹿のやることさ。同じ金があるなら俺は安店をたくさんまわって良い店を探すね」
コンはすっかり上機嫌だった。
「分かる。俺も安店大好きだよ。高級店なんて行く意味が分からない」
「2人ともただ単に高級店に行ける経済的余裕が無いからひがんでるだけなんじゃないの?」
サヨちゃんの図星過ぎる発言に笑う。ビールは直ぐに俺の身体に染み込んだ。心地よい酔いが身体を支配する。
「相変わらず家には連絡してないの?」
コンがキャスターの煙を吐き出しながら言う。眠りの奴が吸っていたのと同じやつだ。
「してない」
「もう何カ月になるの?」
「半年以上は経ってるね」
「向こうからも連絡は一度もないの?」
「ない」
配偶者とも長い付き合いだ。こうなったらあいつから連絡してくるなんてことはまず有り得ない。そんなことは分かっていた。基本的に意地っ張りなのだ。まぁ俺もなのだが。
「ねぇ、家庭はその、もともと上手くいってなかったの?」
サヨちゃんがトロンとした目で言う。ちょっとエッチだ。
「そんなことはないよ。そりゃたまに揉めることはあったけど、基本的には上手くいってたと思う」
「仲は悪くなかったの?」
「うん。子供との間にも別に何も問題なかった。土曜日の朝にはフリッパーズが流れるリビングで朝食を食べる。そんな家庭だったよ」
「フリッパーズ? フリッパーズ・ギター?」
「そう」
「土曜日の朝から『ヘッド博士の世界塔』?」
コンが締まりのない顔で笑う。
「俺がよく流してたのは『カメラ・トーク』だったな」
「なんだ、良い家庭やん」
「それが何故」
「俺が聞きたい!」
サヨちゃんがビールのお代わりを頼むタイミングで俺はハイボールを頼む。ついでに焼き鳥の盛り合わせももう一人前追加してもらう。
「でも普段から飲み歩いてほとんど帰ってなかったんでしょ?」
「うん、まぁそれはそうだね」
「奥さん、そういう日常の鬱憤も溜まってたんでしょうね」
「そういうもんかなぁ……」
「そもそもなんで喧嘩したの?」
サヨちゃんがお代わりのビールに口をつけて言う。
「えっ?」
「いや、なんで喧嘩して家を出たの?」
「なんでって、なんでだっけ?」
「忘れたの?」
サヨちゃんが呆れたような顔をした。
「思い出せない。何だったっけな? おかしいなぁ」
酔っている訳でなく本当に思い出せないのだ。
「馬鹿だなぁ。なんで喧嘩したか覚えてないくせに半年も家出してんのか」
コンの奴は腹を抱えて笑っている。
「うーん、駄目だ思い出せない」
その後、すっかり酔いの回った俺達は天満の奥にあるストリップ、東急ショーへ足を運んだ。
東急ショーは大阪では老舗のストリップだ。21時以降はサービスタイムで、たった2000円ポッキリで入ることができる。扉を開けるとムッとする熱気が流れ出てきた。扉の向こうでは難しい顔をしたおっさん達がまだ誰もいないお立ち台を見つめていた。いつもの光景だ。
出てきたストリッパーの女の子は髪の長いスレンダーな娘だった。多分歳は21、22歳というとこだろう。意味深な微笑を浮かべ、くるくる回るお立ち台の上で舞う。
彼女は1枚、1枚とゆっくりと着ているものを脱いでいった。綺麗だった。それにしても彼女はなんであんなに意味深な微笑を浮かべられるんだろう? まるで人形のようだった。
彼女が最後の1枚を脱ぎその足を高く突き上げた時、お立ち台を囲っていたおっさん達が一斉に拍手をした。
陰毛の粒子がキラキラと綺麗で、その中のピンクは妖艶だった。俺達はビールを飲みながら遠目でそれを見ていた。
「馬鹿みたい」
そう言うとサヨちゃんはシートに深く腰掛けて眠ってしまった。
馬鹿みたい。
本当にそうだ。なんだか全部が悪い方向に流れている気がする。人形のような女の子の微笑を見ていると尚更そんな気がしてきた。
その日は早めに家に帰り、3人で「カメラトーク」を聴きながらぐっすりと眠った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます