第2話交差する恋心
剛力の愛する彼女、ハニー=弥生=アーナツメルツは、フランス人の母と日本人の父に生まれた少女で、彼の幼稚園時代からの幼馴染である。
同年代とは思えないほど素直で好奇心旺盛な性格のため、幼い頃から大人びた性格だった剛力は彼女を妹のように可愛がっていたのであるが、中学二年のある日、彼女から愛の告白をされたのである。当初は渋った彼だったが、彼女の一途な心に動かされ、付き合う事を承諾したのである。彼は彼女を「ハニーお嬢さん」と親しみを込めて呼んでおり、これまで一度も些細な喧嘩さえなく、非常に仲良く付き合っている。それができるのは、彼女は幼馴染であるが故に、彼の性格をよく知っており、彼の自尊心を尊重しているからこそだ。
学園では孤高な彼を、プライベートで唯一癒してくれる存在が彼女なのである。この日は、日頃の感謝を込めて彼女が大好きなケーキをご馳走してあげようと、彼女を家まで誘いに来たのだ。幸いな事に、ハニーの両親は彼が娘と付き合う事に好意的であるため、突然彼が訊ねてきても驚く様子も見せず、笑顔で家に招き入れ、ハニーを部屋に呼びに行った。彼女は剛力が来たと知るなり、急いで部屋の階段を駆け下り、一階のリビングに来た。
ウェーブのかかった美しい茶色の髪が特徴で全体的におっとりとした雰囲気の漂う彼女は、愛する彼からの誘いを受け、ものの数分で着替えて一緒に家を出た。
「剛力くん、今日は私を誘ってくれてありがとう。ケーキを一緒に食べてくれるなんて、夢みたいだよ。
あれ……? 確か剛力くんって甘い物嫌いじゃなかったけ?」
「ハニーお嬢さん、それは甘口カレー限定です。ケーキはそこまで苦手じゃありませんので、ご安心ください」
その答えに、彼女はほっと胸をなで下ろし、安堵する。
「よかったぁ。剛力くんが甘い物苦手なのに私に合わせているのかと思ったけど、そうじゃなくて安心したよ」
「お嬢さんに喜んでいただけて、俺も誘い甲斐がありますよ」
ふたりは仲良く並んで歩く。
普通のカップルならばここは手を繋いでいるのだが、剛力はそれをしなかった。なぜならば、彼女のいない男子がその光景を見ると、妬むに決まっているからである。人に嫌な気持ちをさせてまで付き合うのは彼の良心が許さなかったのである。さて、ふたりはしばらく歩いていたが、ここにきてピタリとハニーが足を止めた。
「お嬢さん、どうかしましたか」
彼が彼女の顔を覗きこむと、ハニーの瞳はキラキラ輝き、ある一点の方向を指さして見つめている。
「ねぇ剛力くん、あのお店にしようよ!」
彼女が指さした先にあったものは、『ガブリエルのケーキ屋』と書かれた洒落たケーキ屋と、店前で客寄せをしているアップルの姿であった。
「……お嬢さん、あの店に入るのですか?」
剛力は言葉を選びながら、彼女に訊ねる。
するとハニーは満面の笑みで頷き、
「そうだよ。私、なんとなくわかるんだ。あの店に行くと素敵な出会いが待っているって。だから、入ってみたいの」
大切な彼女の顔を涙に濡らせるわけにはいかない。
けれども、その店はよりによって後輩であるアップルの家なのだ。
剛力は、以前のやりとりで、少なからず彼が自分に対し性別という壁をを超えた恋心を抱いている事に気づいていた。しかしながら、彼とはあれ以来学年が別と言う事もあり、話す機会に恵まれなかったため、その思いを確認するまでに至らなかったのである。
だがもしも本当にアップルが剛力に惚れていた場合、双方にとって最悪のシナリオが待ち受けているのは、日を見るより明らかだった。なぜなら剛力とハニーは、曲がりなりにもデート中なのだから。
彼はアップルの繊細で純真な心と彼女の気持ちを量りにかけ、思案した。剛力にとってひとりは同じ学園に通う後輩にして皆のアイドル、ひとりは大切な彼女であるため、どちらを悲しませる訳にはいかなかった。そこで彼はイチかバチかの賭けに出る事にした。
もしも失敗すれば、確実にアップルは枕を涙で濡らすだろう。
けれども今は、彼が恋愛感情を持っていない可能性に賭けるしかなかったのである。
剛力とハニーの存在に気付いたアップルは、胸を強く締め付けられるような苦しみを覚えた。
『あの女の子は、剛力の彼女なのかな……』
ふたりが仲良く会話をしながら、自分の元に近づいてくる。
その光景を、彼は錯覚だと信じようとした。
けれども、それは事実であり、目を逸らしたくても逸らす事のできない、辛すぎる現実であった。彼は、剛力の性格なら女子に好意を抱かれてもおかしくはないとある程度の覚悟はしていた。だが、面と向かってそれを突きつけられると、いかに聡明である彼でも深い哀しみを覚えずにはいられなかった。
けれど彼は溢れ出る涙を手の甲で拭い失恋を受け止め、恐らく客として入るであろう彼らに自分が今できる精一杯のおもてなしをしてあげようと決心した。
それは、並の人間にできる行為ではない。
普通の少年ならば、自分が好意を抱いている人は知らない人間と一緒に仲良く歩いていると、嫉妬の感情をたぎらせるものである。
しかし彼は、まじまじと辛い現実を間近で見せつけられても決して妬みを抱かず、それどころか愛する剛力にとって一番喜ぶ事は何かを考え、身を引いただけでなく、ふたりを歓迎してあげようというのである。
それは、自分の気持ちを犠牲にしてまで愛する人に幸せになってほしいという自己犠牲の精神そのものだ。
アップルの目の前に佇んでいるふたりの男女。
ひとりは、彼が恋慕っている剛力徹。
そしてもうひとりは、その彼女のハニー=弥生=アーナツメルツ。
剛力は平静を装いながら、なるべくいつもの口調を心がけ、彼に言った。
「以前お前の母親のアップルパイを食べたいと言った事があったな。あの時の約束通り、幼馴染の友達と一緒に来てやったぜ」
「友達? 私はかの――むぐっ」
彼はハニーの口を押え、彼女を睨みつける。
普段は間違ってもこんな事をしないと知っている彼女は、すぐに事情を察し、この場は彼に合わせるべく、剛力の掌を口から放し、にこやかな微笑みで手を差し伸べる。
「こんにちは。あなたが剛力くんの仲良しの後輩のアップルくんね。私はハニー=弥生=アーナツメルツ。よろしくね」
「こちらこそよろしくね。アーナツメルツさん」
「気軽に弥生って呼んでいいよ」
「本当に、いいの?」
「いいよ、気にしないで。もし私にできる事があったら、なんでも言ってね」
「ありがとう、弥生」
「どういたしまして」
ここでようやくアップルは彼女の手を握り返した。
そしてふたりを窓側の景色がよく見える席に案内すると、店の外に出て客寄せを再開した。ハニーと剛力は互いに色々訊ねたかったものの、取りあえずここは甘いケーキで空腹を満たす事にした。
アップルは、店の前で複雑な心境で客寄せをしていた。
なぜならば、彼はハニーが剛力の彼女である事に確信を持ったからだ。
ひとつ目は、ハニーが自己紹介をするときに、剛力に止められた事。
ふたつ目は、彼女が彼とアイコンタクトをしていた事だ。
彼は以前、剛力の所属する三年三組を訪れた際、同じようなやりとりを見た。
そしてそれは、彼が何か言いたくない事を相手に悟られないようにする仕草なのは、勘のいい彼には気づかれていたのだ。
勿論、剛力は彼に悪気があってこのような真似をしたのではない。
あくまでアップルの好意に気づいた上で彼に自分達が恋人だとばれないように振る舞う事で、彼の繊細な心を悲しみに暮れさせたくはなかっただけなのである。
「剛力、ありがとう……」
カの鳴くような小さな声で、呟き、涙を流した。
それは哀しみではなく、そこまでしてまで、彼の恋愛に希望の光を残そうとした剛力の優しさに対する感謝の涙であった。
「君、どうして泣いているの?」
声がしたので顔を上げると、そこにはこげ茶の探偵帽子にインバネスコートを羽織り、白手袋をした探偵風の子どもがいた。淡い金髪を腰まで伸ばしているところから察するに、女の子だろうと彼は思った。
「僕、泣いていたんだね……」
「うん。とても悲しそうに泣いていたよ。もし間違っていたら謝るけど、もしかして君、失恋したの?」
アップルは無言でコクリと頷く。
子どもは何を思ったのか、優しく彼を抱きしめ、穏やかな口調で言った。
「そっか……それはとても辛かったね。失恋は誰だって悲しいよね。それは、僕も失恋した事があるから分かるよ。それも――男の子にね」
「えっ?」
彼はその言葉にフッと顔を上げ、探偵服の子供の顔を見た。
子供の顔は、思わずため息が出そうになるほど美しい顔をしていた。
「自己紹介が遅れてごめんね。僕はヨハネス=シュークリーム。
もし、僕でよかったら、話を聞いてあげるよ」
そのセリフは先ほどハニーにも言われた。けれど、ハニーは彼の悲しみの根源であるため内心困惑気味であったが、目の前の子どもは初対面で、学園でも見かけた事がない人物である。したがって、気軽に悩みを打ち明ける事ができると判断した彼は、その申し出に甘える事にした。けれど、ここで解決しなければならない問題がひとつある。それは、客寄せだ。アップルの店は休日が客の出入りが激しいため、どうしても店を手伝わなければならない。
それ故に、遠出をする事ができないのだ。
彼に相談を聞いて欲しいけれどできない悲しみに、また彼の瞳に涙が浮かんできた。と、その時、父親が店から出てきて、彼に言った。
「アップル、今日はこれぐらいにして、遊んできてもいいよ。友達が来たんだろう?」
「お父さん、本当にお店、手伝わなくてもいいの?」
「お店は大丈夫だから、お前は何も気にする事なく遊んで来なさい。お父さんからのお願いだよ」
「ありがとう、お父さん」
「いい子だ、アップル」
彼は息子から店の服を預かり、店に入っていった。
父親の助け舟のおかげで、気兼ねなくヨハネスに相談できるようになった彼は、心の中で父親に「ありがとう」と告げるのだった。
ヨハネスとアップルは、何故か洒落た喫茶店に来ていた。
どうして彼らが喫茶店に入店したのか疑問に思う読者のために解説しておくと、実はヨハネスが「悩みを相談するには喫茶店で話した方が一番すっきりする」と提案したため、そこで話す事にしたのである。彼らはふたり用のテーブル席に向かい合って腰かける。
早速話が始まるかと思いきや、ヨハネスの腹がぐう~っと音を立てた。
その音を聞き、恥ずかしそうに彼は腹を抑えて、
「話の前に、僕お腹空いちゃったから、何か注文してもいいかな?」
「うん、いいよ」
「ありがとう」
彼は可愛らしく微笑んだ後、数分間メニューと睨めっこをしていたが、注文する料理を決めたのか席に備え付けてあるプッシュホンを鳴らす。
すぐさま男性のウェイターが飛んできて、彼に何を注文するのかと訊ねる。アップルは内心、彼がどんな食べ物を注文するのかと興味津々であったが、ヨハネスの口から飛び出したのは驚きべき発言であった。
「このページのメニュー、全部ください」
「ぜ、全部ですか!?」
店員は彼の答えに目を丸くし、思わず会計表を落としそうになる。
けれど何とか平静を保ち冷や汗を流しながらも、諭すような口調で告げた。
「これだけ注文すると相当な額がかかりますが、よろしいのですか」
「お金はたくさん持っていますので、心配しないでください」
彼はニコッと笑ってコートのポケットに収納してある財布を取り出し、中身を見せた。中には万札が二十枚以上入っており、子どもがなぜこれほどの大金を持ち歩いているのかと不思議がりながらも、店が儲かるのであればいいと考えを改め、彼の注文を承諾した。
彼が去ると、そのやりとりを静観していたアップルが小さな声で言う。
「ヨハネスくん、そんなに頼んで大丈夫なの? 食べられる?」
彼の問いかけに、ヨハネスはパチッとウィンクをして答えた。
「それは、メニューが到着してからのお楽しみだよ」
結局、ヨハネスはその発言通りに注文した品をたったひとりで完食してしまった。それもただ食べきったのではなく、実に美味しそうに笑顔で平らげたのである。その食べっぷりにはアップルだけでなく、他の客や従業員達も皆仰天している。
しかし彼は周りの様子などどこ吹く風でマイペースにナプキンで口の周りを拭うと手を合わせて、「ご馳走様」を口にする。彼がこの喫茶店で食べたのは、サンドイッチ三人前、フライドポテト六人前、チキンのから揚げを五皿にワッフルを八皿、ロールパンを三十個、ぜんざいとカキ氷とパフェを合わせて十杯、コーヒーのお替りを十五回に加え最後にドーナツを四十五個であった。
これほどたくさんの料理(しかも高カロリー)を食べたのだからさぞかし腹はパンパンに膨らんでいるのだろうと彼の腹を見てみると、全く膨らんでいる気配はないのである。
もしかすると食べるふりをして下に落としているのではないかとも考え、彼の足元を覗いてみたが、食べ物はロールパンの一かけらでさえこぼれてはいない。
つまりそれは、彼が本当に料理を胃袋の中に収納した事を意味する。
あの華奢な体のどこにそんなに大量の食糧が入るのか彼は考えてみたが、どうなっているのかは本人に訊かない限りわからない。けれどそれを今聞くのはよくないと思い直し、今は本題である剛力に失恋した話を聞いて貰おうと考えた。
ヨハネスは無言で穏やかな笑みを浮かべて、胸の前で腕を組んで話し出すのを待っている。彼の全身から漂う安心感のようなオーラに、彼は重い心が軽くなったような気がした。
「ヨハネス、あのね、実はさっき――」
アップルは涙をぽろぽろ流しながらも、事の一部始終を話した。
彼は黙ってそれを聞いていたが、彼が話終わったのを確認すると、開口一番こう言った。
「まだ、可能性はあるよ。だって、本人から面と向かって振られていないもの」
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