第二章 -堕天- ③

 ルーシーを見やると、ルーシーも僕を見ていた。


「どうだい。まぁ、男であるタカヤがこいつを裏切るってのは難しいかもしれないけど、ここで手を打ちゃ、また普通の日常に戻れるんだぜ?」


「日常……」


「ああ、日常だ。あたしは人間界で暮らそうなんて思ったことはないが、アンタらの日常は魔界に比べりゃ尊いもんだと思うよ。大切にしな」


 日常──睡魔と格闘しながら授業を受けて、放課後はヒロやヤスと好きな本や漫画やアニメの話で盛り上がる──退屈で間延びした、僕の日常。


 けれど、僕は。



「──もし扉守の役目を気にしているなら、安心しな。さっきも言った通り、あたしらは人間に干渉しない。もう扉守なんてもんは必要ないんだ」


 見透かしたように、リーシャは言った。


「扉守の上層部にそいつを伝えるくらい、あたしの責任でやってやる」


「それは干渉にあたらないんですか?」


「人間の世界にあたしらの痕跡さえ残さなきゃいいのさ。それくらいなら余裕だ。魔族の力を舐めちゃいけない」


 ……なんてご都合主義だ。僕の懸念を的確にあっけなく取り除いていってしまう。



「さあ。そいつをあたしに引き渡してくれ」



 僕には、何一つルーシーに着いていかなければならない理由はなかった。そもそも契約を結ぶことになったのだって、ルーシーに脅されていたからだ。


 クーリングオフがきくというのであれば、願ってもない申し出なんだ。


 だからここで日常に帰る選択をすることが何よりも正しいはずだと、そう思った。その判断が正しいという確信もあった。

 自分の結論に迷いはなかったし、応答しろと脳は命令を発していた。


「………………」


 それなのに、僕は答えに窮していた。そして無意識のうちに、僕はルーシーの方に視線を送っていた。



 彼女は静かに、僕を見ていた。


 紅色の瞳が、僕を映していた。



「………………」


 僕は、ただの人間だ。


 剣も魔法も使えない、素手でモンスターを倒す武術も当然ない、正真正銘ただの高校生だ。

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