第一章 -邂逅- ⑪

 和室の押し入れや洗面所を確認していく。そこには目的の物はないくせに、行く先々で両親が生活していた痕跡だけが散見される。食いしん坊のお腹が鳴る。僕は首を振って、探索を再開した。


 そして、ようやく見つけた。

 父さんと母さんの寝室だ。


 ドアの付近にある部屋の灯りのスイッチを入れる。


 照らされた室内の光景に、息が詰まった。そこは僕が想像していたよりも遥かに生活感に溢れていた。


 ベッドの上に脱ぎ散らかされた服、中身が満タンに入ったゴミ箱、テレビの側に広げられたままの新聞紙。部屋の隅には冷蔵庫があり、小さなテーブルの上には飲みかけのいろはすのペットボトルが数本置いてあった。


 ──あの人たちがいつも飲んでいたあドリンクのメーカーとか、ずぼらな性格だったこととか、記憶に残る両親の特徴が思い起こされて、ひどくお腹が鳴る。


 お腹が鳴る。

 僕ではない──僕のお腹が、空腹を訴えて泣き止まない。


 一人は嫌だ。

 独りは嫌だ。


 父さん、母さん。どうして……。



「どうして──」



 思考が口から漏れ出た。漏れ出て、そこに続く言葉が出てこない。


 

 そして、代わりと言わんばかりに、返ってきた反応があった。


 いや、返ってきたという表現はおかしい。だって僕は僕以外の誰にも、そもそも反応を求めてなどいなかったのだから。


 それはそうだ。なぜなら僕はいまこの家に一人でいるのだから。僕以外の誰かが、何かしらの反応を返すなど、あり得ないはずなのだから。


 けれど、聴こえた。

 確かな指向性をもって、その声は間違いなく僕に囁いていた。


 辺りを見渡せど、人の姿はおろかAV機器もない。電源の切れたテレビが一台あるだけだ。


 空耳か、幻聴か。現実離れした異世界の話に、何かしら感化されていたのか。



 ──“お前だ”



 そんな声が、突然僕の頭の中に響いたのだ。



 ──“来い、こっちだ”



 また聞こえた。耳元で囁かれているように、脳に響く声。まともな思考が、黒板のチョークを消すように白んでいく。



 ──“さあ、歩こう”



 甘い囁き。脳みそがとろけてしまいそうだった。


 気付けば僕は一歩踏み出していた。


 どこへ、という目的意識はなく、ただ漠然とあそこへ、という目標地点だけが浮かんでいた。その地点が、僕が識っている場所かどうかは、関係なかった。


 声に誘われるまま、惑わされるまま、思考を止め、心の穴の存在も忘れてふらふらと歩みを進める。進めてしまう。


 僕は声に誘惑されていた。


 ──“こっちだ、こっち”


 この何者かの声に呼ばれるたび、誘われるたびに、脳はとろとろに溶けて無になっていく。


 ……じゃあ、この足を動かしているのは、いったい何なのだろう。脳が身体を動かさないのなら、何が僕の身体を突き動かしているのか。


 すぐにわかった。

 考えるまでもないことだった。


 心だ。心に空いた穴が──食いしん坊が、美味しい匂いにつられるように、求めてさまよっているのだ。空腹を満たすもの──孤独を埋めてくれるものを求めて。


 それが何なのか、そもそもいま僕が置かれた異常な状況が何なのか、それを思考することは、このときの僕には許されていなかった。


 視覚情報はただの映像でしかなく、足音などの聴覚情報は無機質なBGMでしかなかった。下手くそな映画を観ていた方がまだ心が動くというものだ。


 僕の心は僕の意思では動かず、心が──本能が、僕の身体を支配していた。


 どの道をどう通ったかは覚えていない。


 足音が響いている。地下に入った。

 視界が揺れる。階段を下りている。



 ──“開けろ”



 声が聞こえた。目の前に扉がある。

 開けた。暗い。広い。空間。

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