第一章 -邂逅- ⑩
前村さんの説教は、そのまま五分ほど続いた。相変わらず背筋がピンと伸びていて慎ましいけれど、口調や表情はうって変わってひょうきんだ。
てか、ジジイって。
仕事を抜きにした前村さんはたしかに初めて見るけれど、案外普通の人なんだと思った。
「──と、説教はこれくらいで良いでしょう」
前村さんはこほんと咳払いを一つ。
「それでは、私はここで失礼致します。また明日、手続きのためお伺い致しますが、それまであまりこの家の中を歩き回らないようにしてください」
扉がありますので、と。
そう告げて、前村さんは立ち上がり、
「それと、旦那様方に関する警察等との連絡はわたくしにお任せください。まずはしっかり休むことです。睡眠とは、肉体的にも精神的にも最良の薬でございますから」
言って、にっこりと笑い(!)一礼、無駄のない動きで家から出て行った。
静まり返った、馴染みのない家。畳張りの床に寝転がる。まだ知らないどこかの部屋から、ボーンボーンと、柱時計の鐘の音が重く響いてきた。
一人になった。
起き上がりもせずに、僕は寝転んだまま体勢を変えた。
ひどく落ち着かなかった。井戸の底を覗き見たときのような、真っ暗な空間が僕の中に再び生まれた。
いや、違う。一人になって、あらためてその存在を──心に空いた穴を再認識しただけだ。
不安で、怖かった。
暗闇に対する衝動は恐怖だと、どこかで聞いた話を思い出した。
胸に空いた穴。真っ暗な穴。
この正体に、いまさら気付いた。はっきりと気付いた。
寂しくて、苦しくて、泣きたいほど哀しい気持ち。
言葉だけは識っていて、けれど本質的な部分を生まれてこのかた知ることのなかった気持ち──そう、僕の心にぽっかりと空いた穴は、孤独だった。
孤独。
ヒロやヤスがいて、前村さんがいて──それでも満たされない食いしん坊が、僕の中に存在していた。
満たされないとわかっていて、それでも満たしてくれる何かを求めて、食いしん坊は泣いていた。涙を、笑顔を食べてなお満足出来ずに泣いていた。
一人でいると、狂いそうだった。
いや、狂ってしまいたくなるくらい、異常なほど頭が思考を拒否していた。
誰かと話がしたかった。少なくとも前村さんと話していた間は穴の存在を意識せずにいられたから。
「………………」
けれど、そこで携帯電話も持ってきていなかった自分に、呆れた。
「寝よう」
時計は、まだ早朝の時間帯を差していた。外は白んできているとはいえ、まだだいぶ暗い。前村さんは明日になればまた来ると言っていたけれど、具体的な時間が分からない以上、起きて待つ必要はないだろう。休めとも言われたし。
ただ、肌寒さだけが気になった。
前村さんには家の中を歩き回らないように忠告されたけれど、布団を取りに行くことまで禁止されたわけではない。
僕は居間を出た。
窓がなく、外の光が差し込んでこない廊下。湿気がすごそうだ、とのんきな感想を抱いた。
と、いきなり問題発生。電気のスイッチがどこにあるのかわからない。仕方なく、ギシギシと鳴る床を踏みながら、暗い廊下を歩いた。
暗闇の中、勝手がわからない家。一種のアトラクションを、今度は僕が体験する番だった。
手探りで壁を伝って、一つ一つの部屋を確認しながら、目的の部屋を目指す。
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