第一章 -邂逅- ④

 言うや否や、僕はヒロの制止から先回りで逃げた。電気も点いていない暗闇の廊下を全力疾走で駆け抜ける。


 明るい時には気付きにくいものだけれど、一般家庭の廊下というのは、結構狭い。灯りがないだけで、途端に手探りでないと進めないほど、不安な空間になってしまう。


 一種のアトラクションが出来上がるわけだ。


 いくらヒロが僕の家に何度も遊びに来ているとはいえ、この条件下でヒロが僕に追い付くことはできない。


 文字通り──ではないにしろ、ここは僕の庭だ。


 一呼吸遅れた制止の声が背中を叩いたけれど、目もくれずに廊下を抜け、玄関を開け放った。


 鼓膜を打つ雨音が、より強くなる。

 風に煽られた雨が、僕の身体をほんの少しだけ濡らした。


「………………」


 一瞬、言葉を失った。


 ほんの、で済んだのは、僕が玄関を開けるのを待っていたかのように──暗闇と分厚い雲を背景に──スーツ姿の男が、そこに立っていたからだった。


 細身で長身、歳は五十前後に見えるけれど、弱々しい印象はなく、服の上からでも分かる程度には鍛えられた体躯をしていた。身なりが整っていて、どこかの大きなお屋敷で働く執事かと思うほどだ。



「お待ちしておりました」



 その男は、ある意味これ以上ないくらい、見事に状況に即した台詞を吐いた。


 僕は、この人を知っていた。


 父さんと母さんの秘書であると小さい頃に紹介された、前村さんだ。それ以降も数回だけれど面識がある。


「ご用件は、先ほどお電話にてお伝えした通りでございます」


 前村さんが、胸に手を当て、浅く頭を下げる。ますます執事みたいだった。


「お迎えにあがりました」


 その言葉だけで、僕は理解した。


 本当に親が死んだんだという事実も、僕に電話をかけてきた目的も、僕がこれからどこに迎えられるのかも。


 子供の頃──両親が枕元で語ってくれた話を思い出す。



「おい!」


 ようやく追い付いたヒロが、前村さんに向けて荒げた声を上げた。


 雨の夜。玄関先に佇むスーツ姿の男。


 どう見ても不審者。これだけの要素と状況がそろっていて、怪しむなという方が無茶だ。


 ヒロは前村さんに掴みかからんとする勢いで距離を詰めた。


 ヒロは激昂していた。僕のことを思ってくれてのことだと思うが、止められそうもない。


 僕は前村さんに危険が及ぶと思った。ここで彼の前に立ちふさがることができれば、それは格好いいのだけれど、経験も実力も胆力もない僕にできたことは、自明の危険を伝えるべく前村さんの顔を見上げるだけだった。


 しかし、



「失礼」



 声は、背中側から聞こえた。


 一瞬だった。


 僕の目には、前村さんが消えたようにしか見えなかった。動きを捕らえるどころか、追うことも、許されなかった。


 気付いたときには、前村さんは声の聞こえた背中側にいて、彼の足元にはうつ伏せに倒れているヒロがいた。


 ……出る言葉なんて、あるはずもなかった。


「ご安心を。気絶しているだけです」


「あなたは、いったい……」


 正直、僕は恐怖を感じていた。


 今のは、武道だとか体術だとか、そんなレベルの単語で片付けて良いものなのか──人間なんて、この人にかかれば簡単に殺されてしまうんじゃないか。

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