第48話 前夜



 水晶祭すいしょうまつり前日のその夜、昼間の街めぐりで疲れたのか、夕食が終わるかどうかというあたりから、チェリが早くもうとうとと頭をゆらし始め、ふと気付くと、アルさんの居間の長椅子で寝息を立てていたため、師匠が抱き上げて寝室へ引っ込んでいくのを頃合にして、それぞれの部屋に引っ込んで休むことにした。


 わたしはといえば、チェリとは反対にどうにも寝付けず、じぶんの小屋から出て、「砦の食堂」の屋上から、ノルクナイの北通りを、ぼんやりと見下ろしていた。


 屋上の小屋に戻った時、なんとなく、小屋の中の様子がいつもと違うように感じてしまったからなのかもしれなかった。


 たとえば、どこかほかに帰るべき別の場所が確かにるというのに、わたしがその場所のことのことなど、すっかり忘れ去ってしまっているのだとでも考えることが出来れば、筋は通るのかもしれない。


 こここではないどこか、今のわたしにはまったく想像の及ばないような場所に、しかし、わたしは確かに帰るべき場所を持っていたのかも知れない。

 わたしの部屋は、ふだんと違って、味気あじけなく、よそよそしくわたしを迎え入れているようだった。


 入口でまわれ右をして屋上に立ち、夜空を見上げると、水晶球すいしょうだまのように丸い月が、晴れ渡った夜空にあかるく浮かんでいた。


 月の輝きに照らし出されたノルクナイの街並まちなみは、それ自体がぼんやりと発光しているかのように浮かび上がり、薄暗い部屋で水晶球の中をのぞき込んでいるような気分になった。


 薄くもやのように漂っている雲が、夜空の闇の中で月の光を受けて淡く輝いていたが、その心細こころぼそげな光は、どこにたどり着くということもなく、あまりに深い夜の底の奥に吸い込まれ、うしなわれているようだった。


 まあ、誰だって、一体いったいどこからこの世へとやってきて、どこへとっていくのかなんてこと、絶対に知ることなんて出来やしないのさ。


 そう考えて、視線を通りの石畳へと下ろしたとき、月明かりに照らされた向かいの建物の壁を、一匹の猫の影が通り過ぎるのが見えた。


 そう、影だ。


 月明かりにあかるく照らされた街区の石畳の上を、いやに足が長くひきのばされた輪郭を描き、頭のほうは向かいの建物の二階に届きそうなほどに大きく伸び上がって、一瞬通りを横切るようなそぶりを見せて通りすぎ消えていった。


 わたしは思わずはっとして、影を作った本体を捜そうと振り返ってみたが、どこにもそれらしき姿は見えなかった。


 というよりも、本体がいるのかどうかさえあやしい物だと、我に返ってわたしは思った。


 月明かりが作ったにしては、いやにはっきりとした輪郭だったし、背景も月光とは思えない明るさで照らし出されているように見えた。


 だいたい、影を作った角度が不自然だった。

 月の光で出来た影が、向かいの建物の壁に映るわけがない。


 「これも、まぼろしというわけか」


 わたしは、猫の影が向かって往った方角を伺ってみた。

 まっすぐ、ノルクナイの中央広場に向かっていた。


 月明かりに光るノルクナイの街並みは、水晶球の中に浮かび上がるまぼろしのように頼りなげに見えた。



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