第7話 天の使いの通る道
これまでの経験から学んできたことで、大切なもののひとつに、
「頭を使うよりも、体を動かすことに集中しなければならないときがある」
というものがある。
まずは、走り始めること、そして、走り続けることに全力を傾けなければならないことがあるものだ。
今がその時だった。
だって走るの早いんだよあの犬っ
さっきからずっと全力疾走しているのにまったく追いつけない。
今は、ひたすら走ることに力を集中しなければならない。
麦の
ふわりと尻尾を中に泳がせて、すこし考える様子をみせると、壁際にある籐の
「後は、お洗濯、かな」
籠の中身をのぞいてみたが、それほど溜め込んであるようには見えない。
雨雲というほどではないが、曇り気味の空を指してわたしは言った。
「昼飯まで、様子を見て、晴れてきたら一緒にかたずけよう。わたしはちょっと旅の荷物を整理しているから、チェリザーロはここらで好きに遊んでいな」
そう告げて自分の荷物の元に戻り、背負い
鞄の中から、師匠にもらった砂時計を取り出して、日の明かりで見ると、確かにごくこまかく、ほとんど色のついていない粒子が中に入っているのが見えた。
ちょっと注意してみないと、薄く色の付いた水のようにも見える。
砂を包んでいる透明な材質は、本当に軽く、今にも粉々に壊れてしまいそうな不安に襲われたので、柔らかい布で出来た小物入れの中身を寝床の上にぶちまけて、砂時計をそっと仕舞い込もうとしているとき、チェリザーロがその同じ名前の付いた樹の門を通り抜けていく気配をわたしの鋭い耳が捉え、あわてて小物入れは懐に放り込んで、わたしはチェリザーロを追った。
ふふふ、猫の追跡を
今の季節なら、モントーベリィの茂みにでも行って、つまみ食いでもしてるんだろうな。桃色の花を付ける樹の間を、そっと忍び足で通り抜けるときは、そんなふうに予想していた。
なんなら、わたしが、このあたりで一番甘い実を付ける茂みを教えてやったっていいんだ、と。
師匠がかつて、言っていた。
「オルタ。何ごとも自分の経験だけで判断しては駄目。自分以外のものさしなんて世の中にはいくらでもあるの」と。
そんなわけで、突然走り出したチェリザーロを追いかけ始めたわたしは、まもなく死にものぐるいの全力疾走を強いられることになり、師匠から教わった真理をかみしめることになった。
最初のうちは頭を真っ白にして、ただチェリザーロの後姿を追い続けていたのだが、徐々にその輪郭は小さくなり続けていて、どうもそれ以上大きくなるということはなさそうだ。
びゅうびゅう耳元を通り過ぎていく風の音から、「なあオルタ、猫と犬がかけっこしたら、どっちが勝つと思う?」というささやきが聴こえてきたのは、チェリザーロの姿が丘の向うへと消えてゆく頃だった。
わたしは走るのをやめ、歩きながらぜえぜえ息を整えて考えた。
「走るのはやめ、うん、匂いを
大体の方向はわかっていることだし、どたばた追いかけてゆくよりもずっと気付かれにくい。つまりこれは作戦というものだ。と。
道なりに丘を越えていって、地味にたまった疲れを、下りきったところの別れ道で立ち止まって休めることにした。
チェリザーロの匂いはここで左の方へ向かう道に曲がっているようだ。
「何度も通っている、か?」
と、匂いの残り具合を確かめながら、チェリザーロの行き先を考えてみた。
確かこの先には沼があったかな? 名前も付いてないような、小さな沼で、何度か釣りに出かけたことがある。
道は、すいっとのびて森の中へと続き、少しずつ下り坂になる。
森の中に入ると、空気が少し涼しくなり、午前中の強い光が、まるで大気をごしごしと磨いて光らせているかのように、くっきりと線を描いて枝々の間を突き抜け、いくつもの陽だまりを作っていた。
わたしは、その中を通り抜けながら、なんとなく洗い立てのシーツの手触りを思い出した。
ふかふかの太陽の匂いだ。
沼に出る少し手前で、道をはずれ、森の中にはいり、ゆっくりと音を立てずに花の名前を持つ少女の匂いに近づいて行く。
ーーいた。
沼は四方をぐるりと森に囲まれていて、道の通じている一方向だけ草の生い茂る広場になっていた。
その先の水辺は石ころが敷きつめられた岸辺が続いている。
森との境の近くに、切り出したばかりに見える丸太を積んだ山が二つ並んでいて、そのうちのひとつのてっぺんにチェリザーロは座り込んでいた。
手近の樹に登り、ちょっと覗き込んでみたけれど、何をやっているのかはよくわからなかった。むしろ何もやっていないというほうがふさわしいのかもしれない。ただ丸太の上に座って、沼の水面を眺めてみているだけのようにも思える。
こんなところで暇をつぶしてないで、モントーベリィのつまみ食いでもしていれば腹も膨れるのにな、俺なんて、この時期は毎年のように腹をこわして師匠に……。
まあ、あれか、お年頃か。
いまひとつ女子の考えていることはわからんし、子供の考えていることなんてもっとわからん。ふたつも合わさっていれば、これはお手上げだ。
わたしは静かに樹から下りると、あとずさりしてその場を離れ、いったん道に舞い戻った。
普通に道から行くか。
「おお、チェリザーロ、お前もこの場所知ってたんか」
沼のほとりに出ると、ちょっとあたりを見回してから、チェリザーロに声を掛け、丸太の方に歩いていった。
彼女の耳ならわたしの姿が見える前からわたしが近づいてきているのがわかっていたはずだった。
チェリザーロが座っている丸太の隣の山によじ登り、腰をすえ、大きく息をつく。
「森を歩くのは、楽しいな、陽だまりはお日様の匂いがするし、空気もきれいだ。俺も子供のころは、よくあたりを歩き回ったもんだ。森はいろんなものをわたしたちにめぐんでくれる」
チェリザーロは無言だったが、こくん、と頷いて、同意を示してくれた。
おお、ちゃんと聞いてはいるんだな。まあ、わたしの森歩きは、果物や、木の実目当てだったし、こんな遠くまではめったに来なかったけどね。
「ここは気持ちがいいね、日当たりが良くて暖かだし、水を渡ってくる風が気持ち良い。沼の水はどこまでも深くて見ててあきない」
もう一度、チェリザーロがこくんと頷いたのを見て、わたしはすこし気まずくなった。
本当はこんなところで、無表情な水たまりなんて見ていたって、面白くもなんともないと思う。腹もふくれないしさ。
そして話しかける話題ももう思いつかない。
気まずくなって、黙って体をぽりぽり掻いていると、指先が柔らかい布に
砂時計を入れた小物入れの袋だった。なんとはなしに、その円柱を取り出して目の前に透かしてみる。
まったく継ぎ目のない、透明な円柱の中に、涙腺形の隙間が二つ空いており、一体どうやってこんなものを作ったのか見当がつかない。
その中では、薄く光る水のような細かい砂が、音をたてずに、こぼれ落ちている。
「それ、なあに」
とチェリザーロの方から声を掛けてきて、ちょっと驚いた。
頸をこっちの方に伸ばして、砂時計をじいいっと見つめている。
「よく見てみたいか?」
なにげなく尋ねると、 はっきり二回うなずいたのがわかった。
「よし、じゃあそっちに飛び移るからちょっとのいてにゃっ」
大丈夫、ちょっと力入れすぎて、樹の皮はがしただけだから、ちょっと滑ったくらいは失敗のうちに入りません。
端に寄ってたチェリザーロが向うを向いて、ありえないくらい尻尾でばんばん丸太をたたいているけどここは気にしない。
「ほれ、持ってみ」
わたしが差し出した砂時計を両手で大事そうに受け取って、じいっと見つめている。
「これ、何で出来ているの?継ぎ目がない」
「ん、ああ、プ、プラスチックっていうんだ。昨日、師匠から譲ってもらった」
「プラスチック」
ちょっと言いよどんでしまったが、他の言い方が思いつかなかったので、思わず昨晩思いつきで付けた名前を教えてしまった。
ところが、チェリザーロが確かめるように反芻した単語の印象は、師匠が口にした時とはまるで違った印象でわたしの耳に届いてきた。
素直に、わたしが話した発音をまったく同じに真似してみせたせいなのかも知れないのだけれど、師匠のときとの印象の差は、それだけでは説明が付かないような気もした。
それは、無くしてしまったと思っていた手紙が、小物入れの奥底から思いがけず見つかった時にでも感じるような、奇妙に懐かしく、しかしなにかしら確かな手触りであって、例えてみれば、とうの昔に忘れさられてしまった言語の単語を、チェリザーロが、美しく、正確な発音で喋ったとでも言うような、そしてわたしがそのことをなぜか理解しているとでもいうような感触だったのだ。
そんなことはあるはずもないのだけれど。
「これ、エーテルと何か関係がある?」
じっとプラスチック製の砂時計を見つめながらチェリザーロが聞いてきた。
「わたしと師匠はある、と思ってる。お前はもうエーテルを感じる練習をしてるのか?」
「まだ、早いって師匠はいう」
チェリザーロはちょっとむくれてみせる。
「それ、夜になると、中の砂が透けて見えなくなるんだぜ、それも見てみたいか?」
ちょっと思いついたことがあって、聞いてみると、何回も頷いてみせる。
「じゃあ、やるよ、それ。お前の力でそいつのこと調べてみな」
「くれるの?」
チェリザーロがちょっと息を吸い込んで目を見開いた。
「ああ、普段はこの袋に入れておくといい、なくさないようにな」
本日最大の振り幅で尻尾を振っているチェリザーロに袋を渡して、わたしは丸太を飛び降りた。振り返ると、チェリザーロは両手でぎゅっと砂時計を握り、大きく見開いた眼を輝かせてこちらをみつめている。
これは、あれだな、尊敬のまなざしってやつだな。わりと人生初なんじゃないかな。
「そのかわり、出かけるときは、ちゃんと師匠に行き先を言ってからにしなよ。集中すると周り見なくなっちゃう師匠も師匠だけどさ、今日みたいに黙ってこんなとこまで来るのはなしだ」
「はい」
「良い返事。エーテルの感じ取り方の練習については、わたしからも師匠に頼んであげるよ」
「あっ、有難う」
「うん、お前はもう帰りな。わたしはもう少しここで風に当たってから戻る。俺もここはお気に入りで思い出の場所なんだ。昼前には戻るって師匠に伝えといてくれ」
「はいっ」
そう元気よく答えてチェリザーロが走り出したのを見送り、森の道に消えるのを見送りながら、
「これって、ただ単に師匠からのもらい物をチェリに巻き上げられただけって気もするなあ、なにかしら、師匠の差し金で」
という思いが一瞬よぎったのだけれど、確かめる方法はなかった。
それに、もう出発の時間だ。
わたしは、沼のほうは一度も振り返らずに、足早にそこを後にした。
鯰を釣り上げた時に、あせって針を外そうとして、指を深く針で切ってしまい、血をだらだら流してしまった残念な思い出しかない、こんな水たまりにもう用はなかった。
だいいち今からだとちょっと急いで歩くくらいでないと、わたしの足では昼前に師匠の家までたどり着けないのだ。
道すがら、本日発見したかに思える真理、
「女子は贈り物によわい」
の妥当性について、そのあまりの体験的証拠の少なさから、ついに証明を一旦保留せざるをえない事について、しぶしぶ認める決心をつけた頃、わたしは妹弟子と同じ名前の花が咲く場所へと戻ってきた。
そこから、家の入り口のところに並んで座りこみ、チェリの手の上にあるものをふたりで覗き込んでいる様子が見えた。
と、チェリが突然顔を上げ、あたりを不思議そうに見回しはじめた。
ふたりがわたしに気付く様子を見せたが、チェリのほうは、それよりも気になることがあるようで、辺りを不振そうにうかがっている。
カンの良い
わたしはもう先に気付いていた。
なぜなら、辺りの草は何かしら警戒するように、せわしなく風に揺られているようだったし、地面も緊張しているかのように硬くちぢこまった感触を伝えてきているのをとうに感じ取っていたからだ。
「ふたりとも、そっちじゃない」
わたしはふたりに向かって声をかけると、歩きながら、上空を指差して、視線を空の高みにどこまでも伸ばしていく。
「ご覧、天使が通ってゆく」
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