第6話 師匠の頼みごと
結論から言うと、師匠には、やはりお願いごとがあった。
「ちかごろね、チェリの姿が見えないことが結構あるの、ちょっと眼を離した隙にいなくなっててね」
「ちょっと、というのは」
「んー、本棚の整理をしてるとき、読み差したままにしてあった本を見つけて、つい読み始めた時なんかね」
「そういう時、師匠は最後まで読み通しますよね」
「もちろん」
「それは、師匠が……」
「あなたのためにもなることよ」
「どういうことです」
「ただ外からの仕事を受けて、経験を積むだけじゃあ、その経験は、ほったらかしにしているのとおんなじだわ。いずれは世の中の変化の中で、くずれ、ばらけてちりぢりになってしまうの。そうなると、あなたの手には、何も残らない」
師匠は自分の
「ひどい場合には、その砂粒のような残りかすを、自分の財産だと思い込んで、かき集めて回ることだけでへとへとになってしまう。そういう
掌から眼を上げて、珍しくきっとした視線を師匠は投げかけてくる。
「あの、もうちょっと具体的に」
「なにごとにも、整理の時間は必要なものよ。わたしにとって自分の本棚を整えるのが大事なことのように、あなたが外の仕事で積んできた発見と経験も、分類して、整える時間が必要なの。そうして、必要なものと、忘れてもかまわないもの、大切に守りとおさなければならないものを、あなた自身の手で選ばなければなりません。その手間をかけることを自分じしんで引き受けなければ、けして手に入れられないものもあるのよ」
「あの、なんかもうすこし手っ取り早い方法は」
「ありません」
「ねえ、オルタ」
師匠は少し間を置いて言った。
「ほんとうに自分のもの、そういえるものがない人生なんてつまらないでしょう」
「あの、もうちょっと具体的に」
「チェリがどこへ行っているのか、見ておいてくれない?その上で、あなたが必要と思う範囲でいいから、あの子に助言してあげて」
師匠はすこし息を継ぐ。
「わたしは、あの子が危ないことにならなければ、それでいいのよ、だから、あなたなりの危険の避け方、注意の払いかたをチェリに教えてあげて。ついでに、外で見聞きした面白い話でもあったら、話してあげるといいわ。あの子結構そういう話聞くの好きよ」
「つまり、明日一日はここに残って、子供の面倒を見ろと」
「あなたのためよ」
「師匠は、何を?」
「わたしは、自分の本棚の整理が終わってません」
「大事な仕事ですにゃあ」
師匠は何の迷いもなく、頷いた。
師匠と分かれて、寝床へと向かった。
この家にいたとき、わたしの使ってた部屋がそのままになっているという事だった。
もともとは何の目的のために建てられた建物なのかはよくわからないが、物置のようなこじんまりとした部屋も含めて数えれば、十室は下らない部屋数のある建物なのだ。
師匠の本棚というのはその中でもおおきめな一室をまるまる占領していた。
わたしの部屋も、たんに片付けるのがめんどうだっただけというのが本当の所だろうという予想は簡単についた。二人で使うには、ちょっと広すぎる家だった。
寝床を整えるとき、けっこうほこりを舞い上げてしまったので、窓をいっぱいに開いて外の空気を入れた。
背負い
窓際が、
窓際に寄って、水筒の中に残っている水をゆっくりと飲み干し外の様子を
開かれた窓からは、夜の冷えた空気が、ちょうど盛りとなっている花の、甘くさわやかな香りを、そっと控えめな様子で運んできてくれる。
目の前には地平線をおおいつくすほどの大きさで、目の前にさしせまった月が、空一面にひろがって、あたりに
その距離はとても近く、すこし手を伸ばせば、いかにも
それほどたしかな質感があるにも関わらず、その表面は薄く透きとおっていて、ひんやりとした表面の輝きを透かして、月の内部を風に押される雲がゆっくりと通り抜けて行くのが透けて見えるのだった。
それは、舵を失った船が潮流に流されているようにも見えたし、あるいは魚が流れに逆らって泳いでゆくようにもみえた。
透き通る表面を透かして、雲自体がうっすらと光を放っているかのようだ。
もちろんこの景色は、本物かどうか疑わしい。
あれほど大きなものが、その向う側まで透き通って見えるなどありえない。
すべてはエーテルの薄い空の上、しかもエーテルの踊りが最高潮に達しようかという時刻の眺めのことなのだ。
巨大な月を透かして、それでも星たちはささやかな輝きをそこかしこに集めている。
それは、まぼろしの月の上で、頼りなく身をよせて暮らしている人たちが集まる街の窓の
不思議な懐かしさを思い出しそうな予感があったけれど、少しずつ増してきた眠気の方が
眼がさえて、眠れそうにない予感がしたら、エーテルの踊りを見つめていればいい。じきに眠気が、昔なじみの気安さで訪れてくれる。
それが、わたしが師匠のところで自分でみつけたおまじないのひとつだった。
窓を閉じると、水筒を枕元に置いて、わたしはふにゃあと深い眠りに落ちていくのだった。
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