第3話 師匠の家では花と犬耳少女が待っている
ぼけっと空を見上げていたせいで、思わぬ時間がかかってしまった。
とはいうものの、今日のところは日暮れまでに師匠の家までたどり着ければ問題ない。
山を降りたところで、街道からはずれ、山沿いに続く道をたどっていく。
エーテル柱の
畑を後にして、小さな橋を渡ったそのちょっと先に師匠の家はある。
ちょうど橋に差し掛かったところで、日は山の向うへ完全に姿を隠した。
川幅は狭いけれど、その流れは速く、あたりには水の流れる音が満ちていた。日が落ちると、それはひときわ大きくあたりにひびくようだった。
周りをぐるりと常緑樹で囲まれ、建物自体もびっしりと
こう見えてこの建物も、例の継ぎ目のない石とよく似た素材でできており、いったいいつからここにあるのかわからないほど古いものらしい。
かつてこの建物をつくった種族というのは、いったい何を守り、誰を待つためにこれほど強固な建物を作り上げたのだろう。
道を挟んで建物の門のような位置にある樹のところで、立ち止まり、この家に戻ってくるたびに思い出す疑問が浮かんだけれど、答えが出ることはなかった。
その二本の樹に、薄桃色の花が咲きほころぶ時分になっており、かすかに甘くいい匂いがした。
隠れるつもりがあるのかないのか、樹の陰に体だけ隠して、こちらをじっと見つめている一対の黒い眼が気にならなければ、もう少し花の匂いを楽しんでいたのかもしれない。
じっとこちらを注視して、感情の読めない視線とは反対に、肩まで伸びている黒髪と同じ色をした耳は、あたをりうかがうようにせわしなく動きつづけている。
もうわたしの胸のあたりに届くほど背は伸びているようだ。
「なあ、チェリザーロ」
犬耳少女にむかってわたしは呼びかけた。
「この花、なんて名前だったっけ?」
ちょっと後ろを振り返って、視線を戻したら、もう少女はいなくなっていた。
「おかえり、オルタ」
という声に振り返ると、師匠が戸口前に迎えに出てきていた。
樹の幹のかわりに、師匠の後ろで、チェリザーロが先ほどとまったく同じ格好でじいいっとこちらを見つめている。
師匠は、人間であるならば、若い女性、と言ってもいいような外見をしている。
わたしが子供のころからちっとも年を取っているようには見えなかった。
これで、こんなに耳が長くなくて、尻尾があれば、かなりの美人さんだと言ってもいんだろうけれどね。
ただ、わたしにとって師匠とは、そんなことよりも常に笑顔の人だった。
そういう印象しかない。
手も、足も、すらりと長く伸び、
逆光のせいで、
けれど、きっと笑みを浮かべているはずだ。
師匠に再会すると、こんなに細いひとだったっけな、といつも驚かされてしまうのだけれど、それは、子供のころから知っているその性格が、まるっきりの肝っ玉母さんだってことが関係しているんじゃないかと思う。
「遅かったのね、日暮れ前には戻ってくると思っていたんだけど」
「はあ、ちょっと、天使にみとれちゃって」
「あら」
「いや、師匠のことじゃないですよ」
「あら」
そう、師匠は笑顔の人だ。
チェリザーロの尻尾がぴたりと動きを止めてだらんと下がるのが眼の端に留まった。
「じゃあ、そのことは夕飯食べながら聞かせて
「ご飯待ちだったのか」
家の中に入る師匠の後を追い、戸口を占めるとき、もう一度風に流れる花が眼に入ってきたからだろうか、師匠に声をかけた。
「師匠、入り口のとこの桃色の花、あれ、なんて名前でしたっけ?」
師匠は振り返るとにっこり笑っていった。
「チェリザーロよ」
師匠は笑顔の人だ。
わたしの考えるところでたぶん十二種類以上の笑顔がある。
喜、怒、哀、楽。それぞれに三段階くらいまであるんじゃないかと思う。
わたしが思うにいま師匠が浮かべているのは怒、もしくは哀、の第一段階、といったところだ。
「アンタバカジャナイノ」
そう言ってるな、とわたしにはわかった。
うん、師匠はあくまで笑顔の人である。
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