第2話 天使は進み続ける


 北の果ての森、そのほとりにある街、ノルクナイ。

 その隅っこにわたしのねぐらがあった。なんだかんだで、五日ほど留守にしていたことになるけれど、懐かしくもやわらかなわが寝床まで、日暮れまで歩き通せばもぐり込むことができる距離まで近づいていた。


 背中の背負いかばんには、師匠から頼まれて、マリカル市の市場で買い入れてきた、塩だとか、香辛料のたぐい(値切りに値切って作りだした余分はごほうび、ってことでいいよね?いいとも)を主体に、その他こまごまとした買出し物品が詰め込んである。


 師匠の家が、市への街道近くにあるものだから、仕事のついでと思ってうっかり顔を出してみたら断りようもなく頼まれてしまった。


 物としては、ノルクナイの中央市場でも手に入るのがほとんどではあるのだけれど、それだと高く付くしなあ。

 弟子の仕事のついでに買い出しもさせるとか、師匠は師匠でちゃっかりしてる。


 まあ、わたしのような出所不明でどころふめいの獣人の子を拾ってくれて仕込んでくれただけでもありがたいことなんだから、これくらいの恩返しはしなくちゃね。


 街まで歩いてだいたい一日、というのは、あくまでただひたすら歩きとおした時の距離のことで、わたしにはギルドから命じられたマリカル市とノルクナイをつなぐ街道の見回りの仕事があった。


 そうは言ってもそれは街道沿いに一定の間隔で据えられている、エーテルちゅうの点検で、折れたり、倒れたりしているものがないか確認して、補強なり、手当てが必要と思われるものを報告するだけの簡単なものだった。

 補修が必要なものがあれば、後で作業者を案内していく。


 点検については実はマリカル市への行きの途中で既にあらかたの調査を済ませていた。だから、帰りの今は、柱から感じるエーテルの濃度に注意をはらいつつ、見落としがなかったか確認しながら、ゆっくりと歩いていけばいいだけのことだった。


 そもそも師匠がわたしを弟子にしてくれた理由というのが、わたしの、この、エーテルを感知できるという能力に師匠が気づいたからというものだった。


 エーテルを感じとれる者というのは、人間や獣人をはじめ、他の亜人を問わず少ないということだそうで、ほとんどの者は、街道沿いの樹木と、エーテル柱の違いを感じ取れないということだった。全てただの街路樹か何かに見えてしまうそうなのだ。


 この仕事は、ひんぱんにあるわけではないけれど、気楽だし、わたしには楽に出来てしまうことの上、結構な収入にもなった。しょっちゅうではなくとも、定期的に依頼が入ってくるので、ありがたい収入源だ。


 師匠はその辺のわたしの仕事の予定もなぜか見越して、わたしに買い物を頼んでいるんだろうな。

 そんなことを考えつつ歩き続けると、街道は山道へと差しかかり、道幅も徐々に狭くなっていった。


 マリカル市街にある道のいくつかは、継ぎ目のないかたい灰色の石でおおわれていて、わたしの歩いて来た街道も、この山道のちょっと手前のあたりまではその石で敷き詰められている。


 いったいいつ、どのような方法でこのような道が造られたのか、誰も知らないということだった。少なくとも、マリカル市やノルクナイが街として生まれる前からそこにあったらしい。


 そんな舗装も、この山のちょっと手前まで来たところで途切れ、ただの石ころを敷き詰めた道にかわり、いま登っている山道は一面しっとりと湿った枯葉で覆われていた。


 わたしはむしろ、こういった山道の方がすきだった。いい匂いがするし、街中みたいにほこりっぽくない。ふかふかして歩きごこちもいいしね。


 日はとうに中天を過ぎ、木々の枝をゆっくりと通り抜けて、眠くなりそうな光をあたりに落としはじめていた。その光の、やわらかな腕にでられるように、道はゆるやかに折れ曲がりながらのびていて、頂上まではもうあと少しのところまで来ていた。それほど大きな山というわけではない。


 いまのところ、点在するエーテル柱も寝息を立てているようにエーテルを漂わせていて、ここから感じ取れるかぎり、見た目も濃度にも異常はなかった。

 ひととおり点検してあるものね。その点オルタさんには見落としなんてあるわけはないのさ、あはふにゃぁーん。とあくびをして、伸びをした瞬間。


 何かが変わったような気がした。


 何が、というとうまくいえないのだけれど、辺りの草は何かしら警戒するように、せわしなく風に揺られているようだし、地面も緊張しているかのように硬くちぢこまった感触を伝えてきている。まもなく頂上に差し掛かるので開けてきた視界に降り注いでくる光は、つめたく無表情で、どこまでも透明だった。


 たぶんそれらは全てわたしの側の問題だったのだろう。眠気が飛んでいっただけ、というわけではにゃいはずだ。


 頂上まで続く道を見上げたその向う、ずっとずっと遠く高いところ。

 その場所を、天使が通りすぎていくのが見えた。


 「天使」 


 思わず口から言葉が漏れた。


 少なくとも、わたしと師匠は、何度か見たことのあるそれをそう呼んでいた。


 いつもきまって、嘘みたいに晴れ渡ったみずいろの空にそれはあらわれ、人間の目には、ただの光の粒としか見えないほどの大きさで、かすかに見える程度らしい。


 獣人のわたしの眼で見ても、まっすぐ立っている人が大きく手を広げているようないびつな十文字をしていることがかろうじて見て取れるだけで、天使が、日の光をうけて四方に反射をきらめかせることで、ようやく、そのかたちがわたしに推し量れる程度のものだった。


 今、わたしが見あげている天使は、山の真上に位置したまま、ひっそりと上空にとどまっているように見えている。だが、今まで天使を見かけた経験で、わたしは天使というものが、ひとところにとどまっているようなものではないということを知っていた。


 天使は、いつも一定の速さで、ある方向に向かって常に移動しつづけているものなのだ。


 どれほどの高さにあるのかまったくわからないので、その大きさがどれだけあるのかもわからない。

 少なくとも鳥などが飛んでいるよりも、はるか上空を移動していることだけは確かだった。


 その動きは、地上からはごくゆっくりと移動しているように見えたものの、その軌跡は、鳥などとちがって、空を切りつけるかのように一直線であるのが常だった。


 時にはエーテルから感じるものにも似た、何物かの気配を、長く、とても長く、地平の向うまで引きずっているように感じることがある。


 それは、天使のほうの事情なのか、わたしの感知する力の事情なのかはわからなかったが、そんな時は、はっきりと、今まさにこの時、天使は移動しつつあるということが胸の奥に伝わってくるようで、そこには、なにかしら、ゆるぎない意思のようなものさえもが感じ取れるように思えた。


 とはいうものの、天使に意思があるとして、その中身をわたしが知ることは、けして出来ないのではないかと、確信めいた声がどこかでささやく。


 かつて、師匠に尋ねてみたことがあった。天使とは、何ものなのかと。

 そのとき師匠はしばし黙り込んだ後に、静かに答えた。


 「今のところ天使がいったいどういう存在なのかは確認されていません。生き物なのかもしれないし、あるいはそれ以外のまったくちがう何物かであるのかもしれません。地上からはごく小さい光の点にしか見えませんから、よほど注意深い者か、ある種の感度に優れた者しか実際に見ることはありませんしね。そもそもなぜ天使という呼ばれ方をしているのかも忘れ去られているのです」


 「つまり?」


 わたしがそうたずね返すと、師匠は、何もない空中をあやふやに指差しながらつまらなさそうに答えた。


 「だから、それはつまり、なんだかよくわからないもののことです」


 天使のことはよくわからない。


 それは、今までも、これからも、そして、今天使を頭上に見あげているこの時に、なお一層確かな事実としてそこにあり続けることのようだった。

 むしろ、そう思い込んでいたい。というのが本当のところなのではないだろうか。


 青空のはるか上、その遠いところで、おそろしく注意を傾けなければ、いくら眼をこらしたところで、気付くことの出来ないあるものが、しかし、確かにそこにあり、どこかは知らないけれど、確かに目的地らしきものを目指して、ただしわずかのずれもなく、今もなおしずしずと進みつづけているに違いない。


 わたしたちにそう確信させるために、こうして時おり天使は姿をみせるのだろう。


 髪の毛の先ほどの小さな光の点滅になって、天使が見えなくなるまで、わたしはその姿から目を離すことができなかった。



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