第62話 俺、ぶどう狩りに行く

 秋とは言えど、天高くに昇った太陽の陽射しをまともに受けると、やはり暑い。

 ましてや標高500メートルほどの山だと、気温が下がることもない上に太陽への距離は近くなる。

 そうなれば普段より暑いと思ってしまうのも、無理ないだろう。


 行く手を阻むような大きな岩などはないが、またがなければならないほどの岩は点在している。

 薄茶色の登山道は、微風が吹く度に砂塵を巻き上げる。

 両サイドを彩る赤、黄の葉を持つ木々に、登山道を離れた所にある倒木に生えるキノコ類、それから所々に落ちているコロコロとした鹿のフン。

 どれもが普段あまり目にしないもので、俺は内心昂っている。


「お、もうちょいじゃん」

 だがやはり、体の疲れには勝てない。連日の体育祭の練習の疲労に、頂上まで100メートルという看板を見つけた俺は、安堵のこもった言葉を洩らす。

「そうだね!」

 えへへ、と笑いながら元気よく返す夏穂。

 そんな俺らの後ろから、同じくぶどう狩りが目的と思しき、老人夫婦と老人グループがついてきているのがわかる。


「こんな時期なのにまだ結構人来るんだな」

 後ろから歩いてくる人たちを、視界の隅に捉えながら呟く。

 ぶどう狩りは基本的に初夏から10月末日が期間である。そして、今日は10月29日。

 時期的には、旬とは言えず、少し時期外れと言っても過言ではないだろう。

「まぁ、最後の日曜日だしね」

 俺の言葉の意味をくみ取ったのか、夏穂は少し考える様子を見せ、苦笑して言う。

「そう……かな」

 どこか腑に落ちないような気がしなくもないが、一応の納得を見せて歩みを取る。


***


 頂上に広がる景色は俺の想像を遥かに越えていた。

 まず第一に俺はぶどうがどんな風になっているのかを知らなかった。

 知っているのは、スーパーに陳列されている房に水々しい珠のそれをつけている姿だけだ。

 だが、眼前に広がるのは広大な平地──パンフレットによると20haでおよそ甲子園球場5つ分がある。

 人間が取りやすい高さで成長を固定するために支えの棒を立て、その支えの棒と棒の間に更に棒を重ね、そこへ伸びてきた茎を巻き付かせている。

 それにより、高さをほぼ一定に固定することができ、中学生くらいから誰でも取れるような高さになっているのだ。

 ぶどう1つ1つには白く薄い、和紙のような紙で覆われており、鳥やその他虫に食い荒らされないような工夫がなされている。


 見渡す限り、頭上からぶら下がる白い紙に覆われたぶどうがある。

 従って、その空間にはぶどうの甘く、口内を刺激する香りがひしめいている。

「この香り、いいね」

 鼻で大きく息を吸いこんだ夏穂が、屈託のない笑顔で告げる。つられて俺も大きく息を吸い込む。

「だな」

 鼻腔を満たすぶどうの香りが、自然と笑顔を引き出させてくれる。

「でも、久しぶりだな〜。ぶどう狩りなんて来るの」

「前にも来たことあるのか?」

 大きく伸びをしながら呟いた夏穂の台詞に、俺はしきりに瞬きをする。

「う、うん……。保育園の時に……」

 あまりの剣幕に夏穂は気圧されたのか、ポツリとポツリと答える。

「へ、へぇ……」

 俺が始めてだからてっきり夏穂も始めてかと思ってたぜ。

 つい最近だったらどうしよう、という不安が解消されたことに胸を撫で下ろしながら続ける。

「その時のこと、記憶にあるのか?」

「うんん。行ったって記憶だけであんまり覚えてない」

 申し訳なさそうに微笑む夏穂。俺は更に安心を覚え、

「そっか」

 と呟きながら、ぶどう狩りの受付をしている物置のような小屋に歩を進めた。


「はーい、じゃあ高校生2人で1400円ねー」

 優しい朗らかな笑みを顔に刻みながら、件の小屋で受付をしている60代のお婆さんにそう告げられる。

 俺はさっと財布を取り出し、夏穂に有無言わさず代金を支払う。

 何かと奢られるのを嫌う夏穂には、強引でもこうしないとダメなのだ。

「もぅ、自分の分は出すのにー」

 カバンの中に手を入れた格好で告げる夏穂に、俺は不敵な笑みを浮かべる。

「たいしたことねぇーよ」

 そう言うも、途中で恥ずかしさが増し、顔を背けるようにして言葉を紡いだ。

「じゃあ、これね」

 受付をしている割烹着のような服装のお婆さんは俺と夏穂にハサミを手渡す。

 これで切るのだろう。

「できるだけそれは使わないようにして欲しいんだけどね……」

 そう思った刹那に言われたので、俺は面を喰らってしまう。

「じゃあ、どうやって取るんですか?」

 訊いたのは夏穂だ。

「やっぱり今の若い子は知らないのね」

 お婆さんは少し残念そうな表情を浮かべる。

 それから少し考えるような仕草を見せて口を開く。

「まずね、ぶどうが上になっているのは知ってるわよね?」

「はい、さっき白い紙に包まれてるのが見えたんで」

 俺が答えるとお婆さんは、少し嬉しそうに頷く。

「その紙ごと優しくぶどうを持つの。絶対力入れちゃダメよ」

「実がぶちゅってなっちゃうからですよね」

「そうそう」

 夏穂の擬音語はかなり分かりやすかった。ただ……、ぶちゅって。

「それで優しく持ったまま、ぶどうをゆっくり回すの」

「回す?」

 言葉の意味がよく分からなく、俺は怪訝に聞く。

「そう。時計回りでも反時計回りでもどちらでもいいよ」

 そう言われてもイマイチピンとこない。それが分かったのか、お婆さんは顎に手を当てて、また何かを考え出す。

 しばらくその様子が続き、数秒後にお婆さんは目を見開く。

 何か思いついたのだろうか。

「ちょっと待ってね」

 お婆さんはそう残して、俺たちに背を向けて何かを探し出す。

「あぁ、あったあった」

 お婆さんは、本物のぶどうに模した作り物のぶどうを取り出し俺たちに実演して下さった。


 丁寧な手つきで、包み込むようにぶどうを取る。そして支えるだけのように見える手が時計回りに回転し始めると、穂軸すいじくが捻じれ始める。

「こうやって貰えれば、ハサミを使わず且つぶどう狩りで最も理想とされるちぎり方ができるわ」

 始めてみる技術に俺は、半開きになった口を閉じることができずにいる。

 それは夏穂も同じようで、目を真ん丸にしている。

「でもたまに芯が固くてちぎれないのもあるから、その時には遠慮なくこれ使ってね」

 お婆さんは、小さく微笑みながらハサミを見せる。

「分かりました」

 俺と夏穂は、異口同音に告げてぶどうの木が立ち並ぶ、ぶどう園の中へと入って行った。


「うおぉ」

 ぶどう園に入った俺の第一声はそれだった。

 何を隠そうにも香りがすごい。先程までの匂いなんて比べ物にならない。多少鼻をつまんだところで、僅かな隙間を潜って鼻腔へと届く。

 更に少し上で生え伸びるぶどうの木が、秋のお昼前の陽光を遮り、仄かな薄暗さを与える。

「じゃあ、やるか」

 大きく深呼吸をして、夏穂にそう告げると

「うん!」

 夏穂は元気いっぱいにそう返すのだった。


***


 習った通りにぶどうを捻りちぎる。手にかかるぶどうの重みは、スーパーで買うそれとは比べ物にならない重量であった。

 色も薄い紫色とかではなく存分に濃い紫が皮として覆い、1つ1つの実の大きさも巨峰と銘打っているものより大きいと思う。

「もーらいっ!」

 右手に持ったぶどうをそのままにして、夏穂の手の中にあるぶどうから実を取る。

「あぁ、もうっ!」

 夏穂はぷくっと頬を膨らませるも、本気で怒った様子ではない。


「ううん、うまい!」

 口の入れた瞬間に溢れ出る果汁が、知らず知らずに渇きを覚えだしていた口内を癒す。

 ジューシーであり、まるでジュースを飲んでいるかのように感じる。

「これはマジでうまい!」

 これ程までに美味しいぶどうは食べたことがない!

 そう思いながら俺は、右手の中にあるぶどうから実を剥がし、夏穂の口の中へとねじ込む。

「うぅ、皮皮」

 突然のことに驚きを隠せず、涙目になりながらそう訴える夏穂。

 口内で実をゴロゴロと転がしながら、皮を剥ぎ手の中に収める。

 それからようやく、実を味わっている。

「うん!」

 ごくん、と食してから夏穂は目を大きく見開き、大きく頷く。

 どうやら夏穂の口にもあったらしい。

 しばらくの間、ぶどうを食しながら頭上から垂れ下がっているぶどうを狩り、存分に相宗山でのぶどう狩りを楽しんだ。


***


 そう思える頃には太陽は南の空を通りかかっていた頃だった。

 ハッキリとした時間は分からないが、恐らくお昼過ぎだろう。

 俺たちは帰りのバスに乗っている。

 流れる景色も朝のそれとは、少し違っていた。

 太陽の角度が少し違うだけでこうも変わるものなのか、と新たな発見ができた。

「この後どうする?」

 妙にかしこまって聞いてくる夏穂。

「どうするかな」

 俺はあらゆる考えを巡らす。

「ねぇ、いつも家でどんな物食べてるの?」

 その問いは脈絡もなく、唐突に放たれた。

 俺はどう答えるべきか分からず、戸惑ってしまう。

「え、え、え……?」

「まぁ、そう難しく考えなくてもいいよ」

 夏穂は俺の驚き以外表現の仕様のない表情に、苦笑を浮かべる。

 そして、夏穂は思いもよらない一言を放った。


「次は、砂田さだ高前〜。砂田高校にお越しのお方はこちらでお降りください」

 特徴的なアナウンスをする車掌の声が耳に入る。だが、それは入るだけであって理解はできない。

 それほどまでに夏穂の言葉が衝撃的だった。

「私が夕食作りに行くよ」

 その言葉はその後も永遠に俺の頭の中を駆け巡り、俺の正常なる意識を保させてはくれなかった。

 

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