第63話 俺、手料理を食べる

「えっ……」

 夏穂の言葉が頭をめぐる。しかし、その意味を理解するところまで追いつけない。

 いま……なんて? 俺ん家で料理作るって言ったよな。

 俺ん家にはイリーナだっているんだぞ? 何考えてんだよ。

 夏穂の真意を解こうにも、ほんの1部、欠片だって分からない。


 ただ優しく、夏のように熱く湿ってなく、冬のように凍える乾いた空気でなく、程よい湿度の程よい冷涼さの風がバスの停車と共に流れ込んでくる。

 何人かがバスから降りる。入れ替わりに何人かが乗ってくる。

 しかし、俺の頭の中にはそんなものはいらない情報だ。流れる紅葉の景色、見慣れた街の景色、どれも視界に捉えてはいるも、脳が理解しようとしない。

「──家、来るのか?」

 一駅おきの返事だ。その声は自分のものとは思えない、嗄れて頼りないものだった。


「うん。そのつもりなんだけど、ダメ……かな?」

 夏穂の返事は早かった。一駅分あいたことを咎めるとこもなく、平然と上目遣いで訊いてくる。

 その事がまた、俺の胸を痛めさせる。

「ダメじゃないけど、イリーナが……」

 その自然な仕草に俺は、そっぽを向く以外視線を逸らす方法を知らなかった。

 傍から見れば、彼女の言葉1つ1つで表情をコロコロと変える、立場の弱い彼氏に見えているかもしれない。


「いいよ。ホントは2人がいいけど……仕方がないよね!」

 さらに胸が痛い。ホントは2人がいい、なんて言われて嬉しくない奴がいるものか。

 いやまぁ、嫌いな奴に言われたら……それはまた違ってくるけど……。って、そうじゃなくて好きな人、或いは好意を抱いてる人に言われたら、嬉しい……はずだ。

「な、なら……うん」

 何がなら、だよ。そう思うが、俺には今の夏穂の気持ちを汲み取る言葉も語彙も無い。

 国語勉強しよ。心底そう思った。


***

「た、ただいま」

 張り切って家を出た分、太陽がまだ南の空に存在している間に家に戻るのは少々気が引けた。

「あ、将兄。おかえり」

 しかしイリーナからは、妙に自然体のそれが返ってきた。

 それが不思議でたまらず、顔を顰める。

「おじゃましまーす」

 ガサガサとナイロン袋が音を立てながら、夏穂が声を上げる。

 俺の家に両親はいない。故にこの言葉はイリーナにかけられたものになるのだが、イリーナは無視する。

「あれ? 私、嫌われてるのかな」

 夏穂は頼りない表情で弱々しく訊いた。

「わ、わかんねぇ」

 その場でうんと言えるはずもない。てか、イリーナの夏穂に対する評価など俺が知る由もない。

「まぁ、上がれよ」

 引き攣った笑みでそう告げる。夏穂は「う、うん」と答え、靴を脱ぎ床へと足を下ろした。


 リビングは俺が出る前より汚くなっている。

 ズルズルーっとラーメンを啜る音が食卓テーブルの方から聞こえる。

 指示した通りに朝食を食べ、今は昼食を取っているようだ。しかし、朝食は食べたまま、パンのカスが残ったプレートはそのまま──。服はパジャマから着替えてはいるが、パジャマは脱ぎっぱなし──。

「おいおい、イリーナ。片付けろよ」

 俺はため息混じりに吐き捨て、食卓テーブルに残ったままのパンのカスが残ったプレートを、キッチンへと運ぶ。

 足元に散らかっているパジャマを避けながらキッチンに入り、プレートの中に水をはる。


「ごべん。っ、ごめん」

 1度目は口の中に麺が残ったままだった。その為、言葉がこもり上手く発音出来なかったのが悔しかったのか、表情を歪め口の中の麺を呑み込んでから言い直す。

 イリーナの顔は少し紅潮しており、忘れろ、と言わんばかりに俺を睨んできている。

 俺はわかりやすくため息をつき、床に落ちているイリーナのパジャマをすくい上げる。

 そしてそれをたたみながら、横目でイリーナを見る。

 イリーナはふんっ、と鼻をならしてそっぽを向き、ラーメンを啜る。

 ダメだこりゃ。

「もうなんか、主夫ね」

 そう思ったとき、リビングの入口で買い物袋を持ったまま立ち尽くしている夏穂が、呆れ半分で告げる。

「うるせぇーよ」

 俺は自虐的な笑みで答え、たたみ終えたパジャマをソファーに置き、夏穂に歩み寄る。

「重たいだろ」

 何か言いかける夏穂より先に口を開き、夏穂の言わんとすることを防ぐ。

 歩み寄った俺は、立ち尽くす夏穂の手からぶら下がる買い物袋を取る。それを食卓テーブルの上に置く。

「──っ。あぁ、邪魔なんだけど」

 口の中のものを飲み込んでから、悪態をつく。

「すぐ片付けるから我慢しろ」

 短くそう告げ、先ほどソファーに置いた、たたんだイリーナのパジャマを持ち、脱衣場へと持っていく。

 お風呂から上がってすぐに着れるようにそこに置いているのだ。

 各部屋に置いていても良いのだが、お風呂に入る前は基本的に1階にいる訳で、パジャマを取りに行くためだけに2階へ上がるのは面倒だ。

 故に脱衣場に簡易的なカラーボックスの棚を置き、その中に片付けているのだ。

「あっ、適当に掛けてくれてて良いから」

 リビングから出る寸前、夏穂にそう呼びかけた。


***


 リビングに取り残されたのは夏穂のおじゃましまーす、を明らかに無視したイリーナと嫌われてるのかな、と不安げな夏穂。

 イリーナは無言で、カップラーメンの中に残った汁を啜りながら視界の片隅で夏穂を捉えている。

 夏穂は恐る恐るといった様子で、イリーナの前の椅子に腰をかける。

「ね、ねぇ……」

「なに?」

 夏穂の呼びかけにイリーナは、絶対零度の声音で返す。

 だが夏穂もそこで心が折れるほど弱くない。

「私のこと……嫌い?」

 意を決した、真剣な表情で夏穂は飲み干して空になったカップラーメンの容器を覗き込むイリーナに訊く。

 その声は存外震えることなく、すんなりと発された。

「──別に」

 イリーナは視線を容器から外すことなく、ポツリと呟く。

 感情のこもらない、人形のような台詞だ。

 それでも夏穂は嫌われてない、と本人から聞けたことが嬉しいらしく朗らかな笑顔を浮かべている。

「そっかぁ! それでね、イリーナちゃんはいつもどんな夜ご飯食べてるの?」

 嫌われてないと分かった夏穂は、一気に距離を縮めて訊く。

「な、何なのいきなり」

 イリーナのこの反応は正常と言えるだろう。しかし、こと夏穂に限ってはこれは通用しない。

「いいじゃーん。教えてよ」

「焼き飯。ラーメン。冷凍食品」

 夏穂のハイテンションとは真逆に、無慈悲な食品名がイリーナの口から吐き出された。


***


 あの2人置いてきたけど……大丈夫かな。

 イリーナのパジャマを片手に、俺はそんなことを考える。

 考えて見れば、純粋に夏穂とイリーナの組み合わせって始めてだよな。

 いつも間に俺がいたし……。

 窓から漏れる陽光を頬に受けながら、俺は軋む音すらしない床を歩き続ける。

 それにしても静かだ。

 あの夏穂が会話しないはずが無い。でも、開口一番で無視されてる。それらを鑑みて……

「そっかぁ!」

 突如として明るい声が耳に届いた。

 やっぱり夏穂だわ。

 そんなことを考えながら、脱衣場に入り3段あるカラーボックスの青色の2段目──俺とイリーナのパジャマを入れる段を開ける。

 開いたそこには綺麗にたたんでしまった俺のパジャマが置かれている。

 この間もイリーナの声は聞こえないも、夏穂の声は聞こえる。何かしらの会話をしているのだろう。

 イリーナのパジャマを俺のパジャマに重ねておき、脱衣場を出る。

 妹がいなかったから分からないが、パジャマとか重ねたら怒るものなのか?

 不意に頭をよぎる疑問。しかし、イリーナから何の文句もでていないことから気にしていないのだろうと判断し、その疑問を横に置く。

 その間にリビングの前まで辿り着いており、俺はリビングへと入った。

 刹那──

「ええええええええええ」

 耳を劈く夏穂の声がした。

「な、なんだよ……」

 悲鳴に近い叫び声に俺は表情に引き攣らせながら、どうにか言葉を紡ぐ。

「将大!」

 夏穂はイリーナの前の席から立ち上がり、鬼の形相で歩み寄ってくる。

「だから何なんだよ……」

 体を仰け反らしながら弱々しく呟く。

「夜ご飯何って聞いたら」

「聞いたら?」

 何に怒っているのか薄々気づき、心の準備が出来る。

「焼き飯にラーメンに冷凍食品って、ふざけてるの!?」

「ふざけてはない。けど……、イリーナには悪いなっては思ってる」

 後ろへ1歩下がった俺は、頬を掻きながらバツが悪そうに言う。

「私に……悪い?」

 ここで口を挟むのはイリーナだ。イリーナは義兄である俺が、手抜き料理ばかり出していると思っている。だが、俺は料理が出来ないのだ。それを知らないイリーナは、そう勘違いしているらしい。

「俺に料理ができるならお前にいいもん食わしてやりてぇーんだけどよ……」

 まともに目を合わすのもなんとなく気まずいようで、天井を仰ぐ。

「そう……なんだ」

 イリーナは少し頬を紅潮させ、箸を口先でくわえる。


「なら、私にお任せあれ! だねっ!」

 夏穂は俺とイリーナの会話に割り込むようにして、豊かな胸を張る。

「えっ。夏穂、料理できたっけ?」

 記憶をたどっても夏穂がめちゃくちゃ料理がうまいという記憶が出てこない。確かに夏穂にそっくりの夏穂の母親の料理は上手であった。だが、夏穂も上手とは——。

「あったりまえじゃない」

 そう断言されても記憶が曖昧なだけに、マズイ料理が作られるのではと不安がよぎる。

「なに、その疑いの目は」

 夏穂はジト目で俺を見てくる。そう言われてもなー。

「あはは、別に」

 渇いた笑みで夏穂の言葉を交わし、イリーナを見る。

「なんで私をみるわけ——」

 イリーナは救いを差し出すところか、トドメの一撃を加える。

「キモいんだけど」

 なんで? 意味わかんない。てか、女子怖い。

 俺は頭を掻き、深いため息をついた。


***


 ぶどう狩りから帰宅してから数時間が経ち、辺りはすっかり闇に落ちていた。

 冬の近づく秋ということもあり、日が暮れるのは早い。

 窓からこぼれる日はなく、家は電気をつけることで明かりを保っている。

 雨戸を閉め、防犯対策もばっちり。

「はいはーい、できたよー」

 そんな時だ。一人キッチンに立っていた夏穂の軽快な声が家に響く。

 俺は夏穂の補佐という役割のもと、リビングでテレビを見たりしていおり、時折投げかけられる調味料のある場所の問いに答えるくらいだった。

 いつもは質素で、男子大学生の一人暮らしのような食事が並ぶ食卓テーブルに今日は色とりどりの湯気の上がるおいしそうな夕ご飯が並んでいた。

 白いお皿に盛られたポテトサラダに、黒い大きな皿に盛られたもくもくと湯気の上がるハンバーグに色合わせのレタス。そして、それぞれの椅子の前にはみそ汁と白米、取り皿が置いてある。

「す、すげぇ……」

 あまりに豪華な食事に思わず感嘆の声を洩らしてしまう。

「えぇ、ナニコレ!」

 2階にいたイリーナは、思わずカタコトになっている。うん、初対面ぶりだなカタコト。

「どうよっ!」

 夏穂は得意げに胸を張り、どや顔を浮かべている。本当は、どや顔すんなよ、とか言ってやりたいのだが、それがはばれるほどにその料理が煌びやかに輝いているのだ。

「これ、本当に夏穂が……?」

「何が言いたいの? 将大みたいに冷凍食品だって言いたいの?」

「いや、そうじゃないけど」

「本当に私が作ったんだからね!」

 夏穂は満足げに笑いながら告げる。

「将兄じゃないんだから、わざわざ人のそれも……彼氏の家来て冷凍食品使う人いないでしょ」

 イリーナは俺に悪態をつきながら、食卓テーブルに臨む椅子に腰を下ろす。

「まぁ、そういうことよ。冷める前に食べましょ」

 夏穂は俺の肩をちょんと触るように叩き、イリーナの隣の席に腰を下ろす。

 そうだな、という言葉を口の中で転がしてイリーナの前の席に腰を下ろした。


「「「いただきます」」」


 3人でそう合掌して、夏穂の手作り食事に箸を伸ばした。

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