第59話 俺、寝間着を買いに行く
練習の日々は続いた。俺とイリーナは毎日くたくたになって帰宅し、ろくに会話を交わすこともなく、ただスーパーの総菜品などを口にして、各々に風呂に入り、寝る。
ルーチンワークのごとくそれが続いていた。
そして、ようやく金曜日になる。
「将兄、最近寒くない?」
イリーナが冬服セーラー姿でほんのりと白い息を吐きながら訊く。
「まぁ、寒いっちゃ寒いな」
学ランを羽織り、冬服姿になった俺は曇天の空模様を仰ぎながら答える。
「でしょ?」
イリーナが妙に積極的に話してくる。これは、恐らく何かを頼みたいのだろう。
「本件は?」
両手をズボンのポケットに突っ込み、視線だけをイリーナに向ける。
イリーナは悪びれもなく、ふふっと笑う。
「あったかいパジャマが欲しい」
何言ってんだ、こいつ。
「お前、ロシアから来たんだろ? 生地の厚いパジャマくらい持ってんだろ」
思いもよらぬ要件に俺は、思わず声を大きくしてしまう。
「無いから言ってんでしょ。馬鹿なの?」
イリーナは俺の返答に途端に冷たくなり、蔑むような視線をぶつけてくる。
「何でだよ」
負けじと言い返す。
「
思い切りため息をつく。
「な、何なの? ふざけてるの?」
顔を紅潮させながら、イリーナは言葉を荒らげる。
「別に。ただ、クソ親父に腹立つだけだよ」
そりゃあ、ロシアと比べれば日本は暖かいに分類されるかもしれねぇーけど、寒いもんは寒いだろうが。ふざけんなよ。
脳内でありったけの悪口を言い放ち、俺は後頭部を掻いた。
「はぁー。分かったよ、今日学校終わったら買いに行くか」
イリーナはそれを聞くや表情を明るくする。
「それでいいのよ、バカ将兄」
罵倒こそされているが、口調は言葉とは逆に穏やかなモノ。これはイリーナが照れ隠しで言っているだけで、本心は喜んでる。はずだ……。
時刻はまだ7時48分。学校が始まるには少々早い、俺たち兄妹の登校中の出来事だ。
***
毎日下校時間ギリギリまで続くリレーの練習は、主にバトンの受け渡しだ。
ちょっと走っては、バトンを渡して休憩、という何とも楽しくない練習だ。
ましてや今日は、優梨が借り物競争の練習の日だ。3人での練習はほとんどが、ダベって終わった。
下校時間は11月も近くなり、日が短くなってきていることより17時30分である。しかし、その時間には日は完全に落ち、辺りは闇色に覆われたいた。
「じゃあ、今日はこの辺にしとこっか」
志々目さんが冬用体操服──紺色の長袖長ズボン──を着込み、1番星の出た空を見上げながら言う。
汗一つ掻いてないところから推測される通り、練習と呼べる練習はしていない。
「そうだね」
夏穂もそれに
「んじゃ、お先に」
それを聞き届けた俺は、2人に背を向けて右手を上げる。
「えっ、あっ……うん」
ソクサと帰る俺を不思議に思ったのか、志々目さんは動揺を隠せない口調で告げる。
「何か用事でもあるの?」
夏穂が声を張って、不思議そうな声音で訊く。
俺はイリーナとの待ち合わせ場所である昇降口へ向かう足を止め、振り返る。
「ちょっとパジャマ買いに行くんだよ」
面倒くさそうな表情でそう述べ、俺は駆け足で昇降口へと向かった。
***
「待たせたか?」
荒ぶる息を整えることなくそう訊く。
「別に──」
そう答えるが、実際はそこそこ待っただろう。
イリーナは薄赤色の長袖長ズボンの冬用体操服姿、体を丸めて座り込んでおり、鼻先なんて真っ赤だ。
「行くか?」
立ち上がるイリーナにそう投げかけると、イリーナは小さくかぶりを振った。
はぁ? 何でだよ。
「着替えたい」
俺の心情を読んだのかイリーナは、かぶりを振った理由を言う。
「別にそのままでいいじゃん」
俺は、思ったことをそのまま口にするとイリーナから、犯罪者でも背筋を凍らすほどの冷たい視線が浴びせられる。
意味がわからねぇーよ。
「将兄のは紺だからね」
立ち上がり、カバンを肩にかけたイリーナはため息混じりにそう告げ歩き始めた。
俺は小さく首を傾げ、その後を追った。
──目賀高校の体操服は学年によってカラーが違う。イリーナたち1年生は薄赤色、俺や夏穂たち2年生は紺色、そして3年生は深緑色だ。これらの色は3年生が卒業すれば新1年生に回され、無限ループなのだ。
その中で唯一当たり、と言われている色が俺たち2年生の紺色。だが、俺的には体操服なんだし何色でもいいと思っている。
「だから将兄は……」
イリーナが俺の思考に横入りして、呆れ顔を作る。
何なんだよ。服なんてどうでもいいだろうが。
「ほんと、なんで品川さんみたいな美少女と付き合えてるのだか」
イリーナはすたすたと俺の先を歩きながら、そんなことを吐いた。
「ほっとけ」
ちょうど街灯のある場所に差し掛かる。空には分厚い雲がかかっており、月も星も見ることは出来ない。
故に明かりはなく、街灯のある場所でしか互いの表情を見ることは出来ない。
そして、その街灯で覗いたイリーナの顔は唇を真っ青にして、肩も小刻みに震えていた。
俺は、イリーナに聞こえない程度にため息をつき、寒いなら言えよ、と思いつつカバンの中に強引に押し込んである学ランを取り出す。
「ほらよ」
俺は早足でイリーナに近寄り、それを掛けてやる。
「何なの、マジキモイんだけど」
イリーナは学ランの襟をきゅーっと握り、離さないと言わんばかりの態度を取りながら上目遣いでそう放つ。
「言ってることとやってることが真逆だぞ」
街灯の下を抜け、互いの顔は見えなくなる。俺は含み笑いでそう返した。
***
家に着いてすぐにイリーナは俺の貸した学ランを投げるように返してきた。
「臭かったけどありがと!」
礼くらい素直に言えねぇーのかよ。
俺は学ランを受け取りながら、そう思うもへそを曲げられでもしたら困るので、ぐっとその言葉を呑み込む。
「早く着替えてこいよ」
「うっさい!」
階段をあがるイリーナに普通に声を掛けてもこの返事だ。
完全に仲良くなれるまではまだまだ遠そうだな。
俺は靴を脱ぎ、ジャンバーを取りに家に上がる。
長い間靴を履いている状態に馴れていたため、急に脱ぐと何となく寒い。
白色の学校指定のソックスで廊下を歩く。1つ目の扉はリビングへと繋がる部屋で、その次にあるのはトイレだ。
そしてリビングとトイレの間に存在する段々となり、2階へ繋がっているのが階段。
1階最奥にひっそりと存在しているのが、洗面脱衣場。
俺はそこにジャンバーを引っ掛けている。
すり足でそこまで移動し、ナイロン製のジャンバーを手に取り、腕を通す。
シャーっとナイロン同士が擦れる音が妙に耳につく。
不気味だな。
何となくそう感じ、俺は洗面脱衣場の電気を付ける。
何度か付いたり消えたりした後に、しっかりと電気が灯る。
仄かに青白い蛍光灯の電気の下、ジャンバーに体操ズボン姿の自分が映る鏡に目をやる。
「うわぁ」
思わず声が出てしまう。そして、タイミングを計ったかのように現れたイリーナがプッと笑う。
「だっさ」
「知ってるよ!」
人に言われると無性に腹が立つ……。
「ジーパンでも穿いて、ジャンバーのチャック閉めてたら大丈夫でしょ」
白色のタートルネックに黒のショートパンツ。そこから伸びる足には黒タイツを穿いているイリーナが、めんどくさげな表情で告げる。
「──、そうか?」
思いもよらないイリーナからの救いの言葉に、目を丸くする。
「何? 早くしてくれる」
奇異の目を向けていることに気づいたのか、イリーナは怪訝そうな表情を浮かべる。
「お、おう」
俺がそう答えるのを聞くとイリーナは、奥にあるカーキ色のジャンバーを手に取り、玄関の方へと向かった。
俺は体操ズボンを下ろす。刹那にして、肌に突き刺さるような冷気が触れる。
顔を歪めながら勢いに任せて、パンツ姿のまま2階へと駆け上がる。
衣装箪笥の中からジーパンを引っこ抜き、穿く。
瞬間にして、寒さが消し飛ぶが代わりに、ジーパンが蓄えた冷涼な感触が肌を襲う。
ブルっと身震いをしてから、部屋に戻り机の中から野口英世が印刷された紙幣──千円札を数枚抜き取り、下へと降りた。
***
安価が売りで、主に郊外にチェーン店を展開しており、近年では海外進出まで果たしている衣装品店。
スーパーでもないのに18時を過ぎた時点でも、駐車場に何台もの車が止まっているのは業界2位の売り上げというのは伊達ではない。
外壁はベージュ色、ピンク色、赤色で統一されており、その内の赤色で『しままち』と書かれている。
店内に入るための自動ドアが俺とイリーナを感知し、ウィンと虫の羽音のような音をたてて開く。
刹那、暑いほどの熱気が流れ出てくる。
「うへ、すげー暖房だな」
思わずそう吐いてしまう。
「うん」
イリーナはどこか緊張した顔持ちで、小さく首肯する。
「どった?」
俺はその変化に気づき訊く。だが、何となく察しは付いている。恐らく、しままちに来たのが──というより日本で衣装品店に来るのが初めてなのだろう。
「こんな所来たの、初めてだから。どんな顔したらいいのかなって」
やっぱりだ。そして、こういう時だけイリーナはしおらしくなり、俺の言うことをきっちりと聞く。
「普通にしてりゃいいんだよ 」
視線を交えることなく、俺はそう流すと入ってすぐに置いてある買い物カゴを取る。
御影石の床が天井から伸びてくる薄橙色の明かりを綺麗に反射し、俺たちや他の客の姿をうっすらと映している。
「んっと、パジャマってどこだ」
俺は店内をぐるっと見渡しながら独りごちる。
隣では初めてのしままちにテンションを上げているイリーナの視線は、入口より少し右奥に行ったところにある女性服が並べられている場所に釘付けだ。
「そっちはまた今度だからな」
俺はそう釘を刺し、歩きながら探そうと決める。
「何言ってるの? キモいんだけど」
この店の雰囲気に慣れてきたのか、イリーナはもう普段の調子を取り戻していた。
俺はそれを聞こえないかった振りをして、左方向へと歩き始めた。
「あっ、待ってよ」
イリーナは駆け足気味に俺のあとをついてくる。
まず目に入ったのは、目玉商品であろう特売品だ。1枚580円と黄色の台紙に赤文字で書かれている。
赤や黄色、派手め服が多い。正直、誰が欲しいのだろうと思う。
更に奥へ進むとそこには、毛布やシーツ、タオルケットなど寝具が揃っている。
俺はそこを素通りし、コーナーを曲がる。
左側はズラっと棚が並んでおり、バスタオルやら子ども用の衣服やらが並んでいる。そして右側にはハンガーラックが見渡す限りである。
「うへー、この中から見つけるのかよ」
そのあまりにも膨大な量に、俺は顔をしかめる。
イリーナは期待の色を目に浮かべながら服を見渡している。
「これ、子どもに着せたい!」
「子どもいないだろうが」
イリーナは可愛いくまさんがプリントされたTシャツを片手に、うっとりとした表情で呟く。しかも俺の声は全く届いてない様子だ。
それから先へ進んでも棚ごとにサイズが大きくなっていくだけで、子ども用に変わりなく、ましてやパジャマなど見当たらない。
「この辺りじゃないんだな」
俺は独りでに呟き、ハンガーラックが並ぶ方へと歩みを取る。
服の匂い──実際には繊維の匂いなのかもしれないものがツンと鼻の奥に抜けるようだ。
ハンガーにはサイズが表情されており、MやらSやらが主になっており、多くの数が取り揃えられている。
そしてちょうど店の中央辺りに来た時だ。
目的のそれが目に入った。
「あった……」
やっと見つけられたことに、思わず感嘆の声が漏れる。
「あ、ホントだ」
イリーナは別段興味が無さそうに、淡々と告げる。
「ホントだって、イリーナが欲しいって言ったから来たんだぞ?」
「いちいち言わなくても分かってますー」
口先を尖らせ、不貞腐れたような表情を浮かべる。
ハンガーにかかっているのは多種多様だ。
青やピンク、紺や緑など単色のスエットから、赤と青と白のチェック柄の前開きのパジャマなどがある。
俺がいつも着ている寝巻きは、正直言って薄い。
「俺も買っとこうかな」
陳新代謝は凄いほうだと自分でも思う。布団に入ってじっとしていれば、脚の辺りからじんわりと汗が滲み出るような感覚に陥るほどだ。
だが、風呂上がりなどは寒い。故に、目の前に暖かさそうな厚手のパジャマが目に入れば、欲しくなるのは当然のことであろう。
「私これー」
そんな思考を働かせているうちに、イリーナは頬を緩ませ、小さな笑顔を浮かべる。
手には、白色のもこもことした如何にも温かそうなパジャマで、そのところどころにはピンクのハートマークが描かれている。
チラッと値段の載ったタグが視界に入った。
一瞬だったからよく見えなかったので、勘違いかもしれない。が、値段は恐らく1458円だろう。
予算は二人合わせて2000円程とみていたので、俺の分は500円ほどの物しか買えないことになる。
瞳を閉じ、ふぅーと息を吐き捨ててから俺は、このエリアで1番安いであろう498円の黒のスエットを手に取り、レジへと向かった。
安いけど、あったかいよな?
そんな不安を胸に抱きながら俺は、商品をレジカウンターを挟んで向こう側にいる店員に渡す。
「1458円が1点。498円が1点。2点で1956円となります」
20代後半と思しき女性店員はハキハキとした声でそう告げる。俺は袋に入れられたそれを受け取り、2000円を出す。
「2000円からで宜しいですか?」
「──はい」
一応小銭を確認するも11円しか入っておらず、俺は微笑を浮かべつつ表情を歪め、そう答えた。
***
「ありがとうございましたっ!」
自動ドアが開くや否や、ガサガサとナイロン袋の音を立てる俺たちを見送る声が轟いた。
一瞬にして肌に触れる空気が、暖かい空気から刺さる様な冷たい空気に変わる。
背筋にから全身の毛という毛が総立ちする。
そして一言「寒っ」と洩らす。
時刻は19時21分。いつの間にか夕食を摂るには最適な時間になっており、イリーナのお腹もそれを告げた。
ぐぅー。
「お腹減ったのか?」
俺は端的にそう訊く。
「別に。さっきの音、将兄じゃないの?」
イリーナは寒さからか恥ずかしさからか、どちらからか分からないが、頬を赤らめながら無理がある返しをする。
「ふっ、んなはずねぇーだろ」
試すような表情で告げると、イリーナはふんっと鼻息を荒げそっぽを向いた。
おならじゃないんだし、認めればいいのに。と思いながら苦笑を顔に刻む。
「なぁ、イリーナ」
ささやくように呼びかける。イリーナはそれに対して、チラッと視線を向けて応える。
「腹減ったか?」
さっと衣擦れの音がする。俺は、その音に釣られるようにして顔を向けると、ちょうどイリーナが首肯していた。
俺は口角を釣り上げ笑うとイリーナの頭の上に手を置いた。
「何すんの!?」
イリーナは声を荒らげて怒る。しかし、それですら可愛いと思えてしまうのは、イリーナを義妹としてではなく、妹として見てしまっているからだろう。
血は半分しか繋がっていない。それでも、俺はイリーナを妹として好きになっていた。
「じゃあ、ご飯食べに行くか」
乗せた手でわしわしと頭を撫でながら、含み笑いで告げた。
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