第58話 俺、練習する

 次の日の放課後。

 俺は志々目さんと夏穂との3人でグラウンドの一番端──陸上部の走り幅跳びの砂場がある辺り──にいた。


 西に傾きかけた陽光は茜色で、その色が空を蔓延っている。

 10月だと言うだけあって、天は高く感じ、うろこ雲があちらこちらで見受けられる。

 猫じゃらしやら薄黄金色に色づき始めた草々、その間から仄かに聞こえる秋の虫の安らかなる合奏。

 奏でられるのは流行りの音楽や、クラシックでない。単なる鈴とした響きだけだが、響いてるだけだ。だが、どこか居心地が良いのは何故なのだろうか。


「おーい、盛岡くーん! 行くよー!!」

 体側姿の甲高く、元気の良い志々目さんの声が響く。それに驚いた虫たちが、鳴くのをやめる。

 刹那、ぐっと大地を踏みしめた志々目さんが少しの土煙を上げて走り始めた。距離にして、およそ50メートル離れたところ。俺に向かって駆け出した志々目さんはガチ走りで距離を詰めてくる。

 距離が15メートルを切ったころ。俺は、右手を後ろに伸ばしたままちょんちょんと小走りを始める。

 いわゆるリードだ。

 そして志々目さんとの距離が6メートルをきったところで俺は、脚に力を入れる。筋肉が強ばり、一瞬にして固くなるのが分かった。

 瞬間、志々目のそれと比べるとはるかに多い土煙が薄オレンジ色の空に舞う。俺は一気に加速し、縮まりかけていた距離が少し広がる。

 そこで声が響いた。

「ちょっ、ちょっとーー!!」


 悲鳴に近い疲れの色をにじませた声が後方から聞こえて、足を止める。

「なんだよ」

 気持ちよくスタートを切りかけていた俺は怪訝そうな表情で返す。

 そこには両手を膝について息を荒げている、ショートボブの茶色の髪をボサボサにした志々目さんがいた。

「わ、悪い。速かったか?」

 俺は表情に悪い、を刻みながら手を顔の前までもっていく。

 志々目は苦笑を浮かべながら、小さく頷いた。

「ちょっと速いかな」

 そして、申し訳なそうに加えた。

「将大、50メートル走何秒だったの?」

 外から傍観者を貫いていた夏穂が、ようやく口を開く。

 ——50メートル走とは入学してすぐに行われた体力測定の一つだ。この時も……まぁいろいろあったのだが、それは機会があれば追々話そう。

「えっと、たぶん6秒23だったような気がする」

 俺は過去を思い返すように眼球を上に向けながら、ぽつりと吐く。

 ──返事がない。

 俺はあれ? と思いながら上向きになっていた視線を志々目さんと夏穂に向ける。

「どった?」

 何となしにそう訊く。

「は、はやくない?」

 目を丸くしてそう言ったのは志々目さんだった。


 俺は、別に自分が走るのを速いと思ったことは無い。平凡だと自負している。

「そんなことないと思うが?」

 刹那、ブンブンブンという効果音がぴったり合うほど勢いをつけて、志々目さんはかぶりを振る。

「そんなことありありよ! だって高1男子の50メートル走の平均タイムって7秒4か5でしょ?」

「嘘っ!? 平均より1秒以上早いってこと!?」

 志々目さんがそう告げると、合わせて夏穂も驚きを露わにした。

「そ、そんなに速いのか?」

 自分でも認知していなかった事実なので、思わず声を裏返してしまう。

 志々目さんは無言で首肯することによって、その凄さを語った。

「だからね、リード、もうちょっと遅くして貰えないかな?」

 バツが悪そうにそう加えた。それもそのはず、志々目さんはこの練習を始める前にこう言ったのだ。

『リードは距離が縮まってきたら本気で走っていいよ』


「穴があったら入りたいよ」

 志々目さんはほんのり赤く蒸気した顔を両手で覆いながら、その場にしゃがみ込む。

「まぁまぁ……」

 夏穂は曖昧な笑みを浮かべながら、丸くなった志々目さんの背中を摩る。

 俺は視線を逸らし、何故かいたたまれない気持ちになり、頬を掻く。

「もうちょい緩く走るよ」

 そしてこう加えた。

 志々目さんは、苦虫をかみ潰したような顔で小さく頷いた。


***


「じゃあ、行くよ!」

 少しの休憩を取ってから再度、志々目さんは大地を蹴った。

 先ほどより少し多い砂煙が上がり、駆け出す。表情は真剣そのもので、俺に向かってくる。

 空気が顔に触り、圧に押され表情が歪んでいるも凛々しさは残っている。

 俺は先ほどと同じく15メートルをきった辺りから右手を後ろへ伸ばしながら、ちょんちょんと小刻みにステップを取り、スタートをきる。

「いいよっ!」

 志々目さんとの距離が5メートルをきった辺りだ。

 少し手を伸ばせば筒状のバトンに触れれそうな距離だ。

 俺はその声を聞いて、大地を踏みしめる。足の裏から大地の反発を感じながら、かかとから順に宙へと浮かせていく。そして、最後につま先を残し力の限りで蹴り出した。

 伸ばしている右腕に刺さるようにして、10月初めの冷涼な空気が襲いくる。


「ハイッ!」

 刹那、そんな俺の思考を断ち切るに足りる、志々目さんの咆哮とも取れる叫びが放たれた。

 同時に志々目さんが左手に持っていたバトンが、俺に向かって差し出される。

 伸ばしていた右手の掌にそれが触れる感触がした。プラスチック製のそれは、ひんやりとしていて思わず目を見開いてしまう。

「おうッ!」

 手に触れたバトンを力強く握るや否や俺は、悲鳴にも近い声を上げる。それを合図として、志々目さんはバトンから手を離す。

 それを僅かに視界で捉えると、俺は全力で50メートル先で待っている夏穂に向かって全力疾走を始める。それと同時にバトンを左手へと持ち替える。


 冷涼な風が頬に触れ、切れていく。それにより伸び始めてきている、純黒より薄く灰色よりかは黒い髪が靡く。バサバサっとはためく髪が逆立ち、視界が開ける。

 先にいる夏穂の姿が妙にはっきりと見え、その距離がみるみるうちに狭まっていく。

 俺と夏穂の距離は15メートルを切った。

「夏穂、走れ!」

 乾き始める口を強引に開き、声を上げる。

「う、うん!」

 夏穂が慌てて声を上げ、ちょこちょことリードを取り始める。

 しかし距離が広がることはない。

 そして距離は4メートルをきる。

「ハイッ!」

 俺はバトンをもつ左手を前方へ突き出し、差し出されている夏穂の左手に置くことを心がける。

「はいっ!」

 バトンが夏穂の掌に触れたのだろう。僅かな皮膚の弾力が反発となって返ってくる。

 俺はそれを感じるや否やバトンからゆっくりと手を離した。

 バトンは地へと落ちることはなく、夏穂の手の中にきっちりと収まる。


「こんな感じかな?」

 数歩走り、動きを止めた夏穂が振り向きざまに訊く。

「まぁ、こんなもんじゃね?」

 俺は小さく首をかしげながら、仄かに笑顔を作りながら呟く。

「んー、どうだろう。もうちょっと早く出来るような気がするけどなー」

 俺と夏穂の意見に反したのは志々目さんだった。もっと高みを目指すための意見だ。

「でも、どうすればいいんだよ」

 俺は怪訝そうな表情で、足首をクリっと回しながら訊く。

 志々目さんは暫くじっと考える様子を見せる。


 空は薄く灰色が帯びかけており、恐らくもうすぐで下校時間になるだろう。

 体操服は半袖半パン。もうこの格好じゃ肌寒い。

「盛岡くんと品川さんのところ。盛岡くんが声出さずに品川さんがリードできれば、早くなる様に思うな」

 志々目さんは整った輪郭に、指を当てながら真剣な表情で吐いた。

「ま、それは何度か練習してるうちに何とかなるだろ」

 俺は無責任にそう言いながら、両手をポケットへと突っ込む。

 ちょっと指先が冷えてきた。

「私のところもだけど、結局は竹島さんがどれだけリードを上手くできて、走れるかってところだと思うよ」

 薄暗くなり始めている天を仰ぎながらぼそっと呟く。

「まぁ、結局はそこだよね」

 夏穂の意見に同調し、志々目さんも吐く。


 今日の練習は3人で優梨は参加してないのだ。それはボイコットとかそういうことではない。優梨が2種目に参加するから故に発症してしまう事例なのだ。

 優梨は授業を終えてから俺にこう告げた。

『借り物とリレーの練習、交互に出ようと思ってるんだけど、いいかな?』

 瞳をウルウルとさせながらそう頼まれ、俺は2人に許可なく、それに対して二つ返事をしてしまった。まぁ、それを追求されることは無かったことのだが……。


「じゃあ、続きは明日にするか」

 俺は肩を上げて、寒くなってきたことをアピールしながらそう提案する。

「そうしよっか?」

 夏穂は遠慮気味に志々目さんの目を見ながら言う。

「そうしよっか」

 そんなことを気にした様子もない志々目さんは、満面の笑みを浮かべながら述べた。


***


「遅い」

 昇降口にいた圧倒的存在感を放つ、茶髪の日本人離れした美貌の持ち主である義妹のイリーナがぶすっとした表情を浮かべている。

「悪い悪い」

 俺は顔の前に右手を持ち上げ、軽く謝る。

「将兄、いっつもそれじゃん」

 体操服姿のイリーナは肩をすくめ、ため息混じりに吐く。


 ほっそりとした長く白い脚が紺色の体操ズボンから伸びている。下駄箱に背中を預けている立ち姿は、白いメッシュ素材の体操服に窮屈さを与え、胸の2つの膨らみがやけに強調されて見える。

「しゃーねぇーじゃん。練習してたんだから」

 口先を尖らせ、言い訳を言うとイリーナはそっぽを向く。

「分かってるよ。でも、鍵持ってるの将兄だけなんだからもうちょっと早く行動してよね」

 廊下に置いていたカバンをくいっと持ち上げ、肩に掛けながらイリーナは言う。


「わーったよ。てか、競技何出るの?」

 俺は歩き出すイリーナに向かってそう訊く。

「あれ? 言ってなかった?」

「聞いてねぇーよ」

 並んで歩き、昇降口を出る。この僅かな間だけで空はすっかり暗くなっている。

「そうだっけ。借り物だよ」

 イリーナはそんな空を見上げながら、めんどくさいげに吐く。

「そっか。頑張れよ」

 俺はそんなイリーナと視線を合わせることなく、そう告げる。

「借り物なんだから頑張ることなんてないわよ」

 ツンケンに言いながらもイリーナは視線を逸らす。

「ほら早く帰るわよ」

 そして急に歩みを早くし、偉そなげにそう吐くのだった。

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