第48話 俺、鼻が痛い

 ナンパハプニングを乗り越え、俺たちは今ウォータースライダーの長蛇に並んでいた。あれから少しの間は浮き輪に乗ったりして流れるプールで遊んでいたが、やはり歓声のような悲鳴のような声の誘惑に勝てず強い日差しを受けながら待っていた。

 ソワソワとした感じを諌めない夏穂と優梨。

 その後ろに俺と伊田くんだ。

 なんかこの場に伊田くんがいること自体が違和感しかないな。

「将大、楽しみだねっ!」

 夏穂が後ろを向いてそう告げてくる。

「そうだな」

 そんな夏穂に俺は適当な相づちで答えた。別に怖いということは無いのだが、こういったことをしないタチで少々ビビっているのだ。

「お前、ビビってるのか?」

 それを見透かしてか伊田くんが悪戯的な笑みを浮かべ訊いてくる。

「べ、ベ別に?」

 声が上擦ってしまった。これじゃあ、ビビってるって言ってるみたいなものじゃないか。

 そんな俺をよそに順番は回ってきた。

「はい、つぎ」

 やる気のないウォータースライダーの監視官の声が妙に大きく感じる。

 2本あるウォータースライダーの右側に夏穂、左側に俺だ。

 エヘヘ、と笑いながら夏穂はこっちを向いてくる。

 ──笛が鳴った。

 滑り出せという合図のものだ。それと同時に夏穂は「きゃあー」と歓声とも悲鳴とも取れる声を上げてみるみる下へと落ちていく。

 俺はまだ滑れて無かった。ビビってるんじゃ無いのだが、怖かった。

「兄ちゃん、早く」

 監視官から促しの声がした。俺は目を瞑り、奥歯を軋むほど強く噛み締め、体を倒して投げ出した。

 刹那、瞬間にして全身に反逆する水圧が押し寄せる。体が水を斬り、斬った水が投げ出された腕や脚に強く当たる。

 そして方向転換時におこる一瞬の浮遊感。恐怖から始まったウォータースライダーだったが、真ん中を超えた辺りでそれは喜色に変わっていた。

 真夏の太陽にされながら水の中を行く体は背中に冷涼な水が感じられ、前面部には飛沫がかかり心地よいものだった。

 ──なんだ、怖くねぇじゃん。てか、気持ちいいし……。

 瞑っていた瞳を広げ、天上に見える景色を仰いだ。

 鋭い紫外線を放つ、ギラギラと輝く太陽とその輪光。蒼穹の空に映える真っ白の入道雲が広がり、偶に視界を横切るオニヤンマ。

 夏だな、そう思った瞬間──視界がぐにゃと歪み目の前には淡青色ライトブルーに世界の中に気泡が幾個も生まれる。それと同時に鼻の奥に塩酸入りの水が侵入してくる。ツーンという痛みが鼻に広がり、水中での息苦しさが相まって悶える。そして気泡が消えた世界にはそびえる立つように何本もの脚があった。病的に白いものから黒く日焼けしたもの、毛むくじゃらなものまで様々である。俺はそれを一瞥してから底に足をつけて水中から顔を出した。

「ぷはっ!」

 熱気のこもった空気を胸いっぱいに吸い飲む。

 どれほどに熱い空気であろうと呼吸は出来る。俺はそんな安心感にとらわれながら呼吸を整えていた。その瞬間──

 盛大な水飛沫が上がり、宙には小さな虹ができる。そしてその飛沫は呼吸を整えていた俺の口の中へとダイブしてきた。

「げほっ──おえっ……ごほっごほっ」

 思わずむせ返る。大量の水の侵入を感知した体が排出しようと試みているのだろう。

「ふぅー、気持ちいい」

 俺が噎せている間に水中から顔を出したのは伊田くんだった。伊田くんがウォータースライダーから投げ出され、入水したのだろう。

「俺は気持ちよくねぇーよ!」

「嘘つけ、気持ちよさそうな顔してるぞ?」

 ニタニタとからかうように伊田くんは言ってくる。

「気持ちいいんじゃねぇ、息苦しいんだよっ!」

 そう言い返すと隣から囁かな飛沫が上がった。


***


 マジで鼻が痛い──。

 俺は露天としてプール内に立つ焼きそばの前に並びながらそんなことを思っていた。

 原因はもちろん間違いなくウォータースライダーだ。

 着水と共に鼻に侵入してきた水の感覚がいまだに抜けずに残っている。

 何度かふんっ、と荒々しく鼻息を吐いてみても同じだった。

 鼻に違和感を感じながら小銭片手に待っている。

「ねぇ。熱くない?」

 長く綺麗な黒髪に雫が滴っており、なんとも妖艶さを醸し出す夏穂が右手で影を作りながらぼそっと言う。

「そりゃあ熱いだろ、夏なんだから」

 俺は何を今更と言わんばかりに答えると夏穂はそうだけど……と答える。

 言わんとしていることはわかる。熱いのは空から注ぐ陽光だけでなく、人の目もなのだ。

 夏穂のその美しさと豊かな胸が人々の視線を呼びつけているのだろう。

「あれ何カップある?」

「D……いや、Eはあるかな?」

 何とも卑猥な会話まで聞こえてくる。その事に全く気づいていない夏穂の鈍感さもそこそこだと思うが、その事が幸を成していることは諌めない。

 そんなことを考えているうちに俺たちの番が来た。

「へいらっしゃい」

 小麦色に日焼けした白いシャツ姿の男性が爽やかな笑顔でお決まりの台詞を言う。

「焼きそば4つ、お願いします」

 俺は親指以外を立てて手で4を作りながら注文すると男性はその笑顔を崩さず、紙パックに焼きそばを詰め始めた。

「にしても兄ちゃん男前だね」

 男性は焼きそばを詰めながら俺の方をちらりと見て言う。

「そんなことないですよ」

 2年になってからめっきり告白も無くなったし──は心の中で留める。

「またまた。そんな可愛い彼女さんまで連れちゃってよく言うよ」

 男性は次に夏穂を一瞥して軽い憎まれ口のように告げる。

「夏穂は──そんなんじゃ」

 俺はまだ認めることが出来なかった。自分で言うと言っておきながらまだ告白できていない自分が情けなくて、周りからどう言われようともそれを認めることが出来なかった。

「そうかいそうかい」

 男性は全てを悟ったかのようにそう打つと「4つで800円ね」と事務的に加えた。


***


 激しい動悸、何なのこれは──。ウチは盛岡くんのことが好き、だったはずなのに……。

 盛岡くんと品川さんが焼きそばを買いに行っている間にウチらはたこ焼きを買いに行っている。

 本当は品川さんを盛岡くんと2人にさせたくないんだけど、さっきのように絡まれても困るし──。さっきはちょっと品川さんに守られた感も諌めないし、今回だけはと盛岡くんの隣を譲ったは良いけど……、何かウチおかしい。

 盛岡くんといる時より今の方がドキドキするし、顔が赤くなる気がする。盛岡くんのときのようにグイグイいけないし、恥ずかしく手声すらでないよぉ。

 炎天下にカラフルなパラソルの下に構えられた簡易的なたこ焼きの屋台の前には少しの列が出来ていた。

 ちょうどお昼時ということもあってだろう。それにしても──。

「何キョロキョロしてんだよ」

 隣で立つ金髪の伊田くんがボソッと吐く。

「えっ、……あっ、ごめん」

 咄嗟に謝罪が口から出る。自分でもびっくりするほど声が上擦っていた。

「どしたんだよ?」

 やっぱりその事に気づいていたらしく伊田くんは目を丸くして返した。

「え、な、何でもないよぉ?」

 じわーっと額に汗が滲み出てきているのが手に取るようにわかる。あぁ、バレないかな……。

「なんだ、その。オレで悪かったな」

「えっ?」

 思いもよらない伊田くんの言葉にウチは素っ頓狂な声を上げてしまう。

「竹島さんって将大が好きだろ? だからペア将大のが良かっただろうなって思ってよ」

 バツが悪そうに頭部を掻きながら言う伊田くんの姿は盛岡くんのことなんか頭から消されるほど魅力的に見えた。

 そして気がついてしまった──

 ウチが好きなのは伊田智也くんだってことに。

 それに気づいてからはもうドキドキが止まらない。それからしばらくしてすぐにウチらの番は来たけど、それが腹立たしくも思えた。

 もっとゆっくりしてもいいのにっ!

「たこ焼き4つで」

 伊田くんはガタイのいい男性にそう言うと男性は「へいっ!」と言い、たこ焼き器のたこ焼きを焼く部分に油を塗り始める。

「悪いね、一つ前で作っておいたの無くなったから今から作るから」

 申し訳無さそうに告げながら慣れた手つきで油を塗り終えるとそこにたこ焼きの素となる液体を流し込む。そしてその中に一つずつタコを入れていく。

「にしても兄ちゃん、その娘可愛いじゃん」

 男性は伊田くんを手招きしてから囁くようにして言ったのがウチにも微かに聞こえた。ウチはその伊田くんの答えが気になって仕方がなく、周りのキャッキャ言っている声など一瞬にして遮断され、伊田くん声だけに耳が傾く。

「べ、別に……。そんなんじゃないっすよ」

 伊田くんの答えはそれだったが、表情には明らかな違いが生まれていた。いつものようなクールなものではなく、動揺が色濃く出て僅かに赤く染まっているようにも見えた。

 それがたこ焼き器から発される熱からなのかどうかは分からないが、ウチはウチが彼女らと思われて照れたからだと良いように解釈しておく。

 男性は爪楊枝みたいなものを取り出し、たこ焼きをクルクルと回し焼き具合を確認している。

 しばらく唸りを上げてから頷くと男性はそれらをプラスチック製のパックに入れ始めた。

 その上にソースとマヨネーズを掛け、青のりとかつお節をまぶしてフタが開かないように輪ゴムで止める。

「お待ちどうさま、焼きたてだ。4個で1200円だ」

 伊田くんは男性にお金を支払い、たこ焼きを受け取る。

 それからウチらは並んで歩き、集合場所とした入り口付近の簡易テーブルに場所取りを済ませた場所へと戻って行った。


***


 客入りはほとんど無くなり、出ていく方が多くなり始める。空には茜色が広がり、セミのうるさい合唱も止んでいる。

 水温も昼間よりは下がり、1度出て再度入ると冷たいと感じるほどまでになっている。

 そして俺たちはいま帰る準備の真っ只中だった。空気を入れた浮き輪とビーチボールの空気を抜いているところだ。

 どう考えてもバスの中で空気の入った浮き輪などを持っているのはおかしいからな。

「なかなか抜けねぇーな」

 何度押しても出てくる空気に嫌気がさしてきて遂にそう吐いた。

「それ言っちゃダメだよ」

 俺とは反対側から手で押して空気を出している夏穂がそう言う。手で押しているつもりなのだろうが……大きく実った胸の方が浮き輪に密着していて押せているように思えるのは俺だけだろうか──。

 なんて下世話な思考にとらわれるもかぶりを振ってそれを思考の隅に追いやり、浮き輪に入れる力を強める。

 かれこれ10分くらいしてようやく空気を出し切った。

 それから俺たちは更衣室へと向かった。


***


 またもや女子組は遅かった。まぁ、髪の毛とか乾かす時間もあるだろし、長くなるのは分かってたけど──。何かよそよそしいのは伊田くんだった。

「伊田くん何かあったの?」

 俺は率直に訊いた。しかし、伊田くんは要領を得ない曖昧な「おお」とだけ告げてそこから何も答えようとしなかった。

 それから数分間、俺たちの間に沈黙が流れていた。

「おっまたせー」

 そしてそれを破るかのようにはっちゃけたような元気な夏穂の声が遠くから届いてきた。

 それを機として伊田くんは俺に微笑み掛けて「帰るか」と告げた。

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