第44話 俺、いざ出陣
夏穂の部屋で目を覚ましたのは時としては午前11時過ぎだった。
「おはよ、昨日はありがとね」
目覚めたばかりの俺に夏穂は俺がかぶっていたタオルケットを指さして微笑みを浮かべる。
「あ、いや……」
寝起き特有の口の中の乾きを感じながら吃るようにして呟く。
そんな俺に夏穂は下に降りるように促した。
俺は言わるがままに1階のリビングへと入った。
中にいたのは母親だけだった。洗い物をしていた。
「あら、将大くん。おはよう」
「おはようございます」
夏穂とよく似た微笑みを浮かべる。
「朝ごはんどうする?」
夏穂母は流し台で流れ出ている水音に負けない声で訊く。
「あ、別に大丈夫です」
「ダメよ。朝は食べないと!」
遠慮して言ったのだが夏穂母はそれを聞き入れる様子はなく朝ごはんの重要性を熱弁し始めた。
「じゃ、じゃあ……、皆さんと同じ物で」
夏穂母はそれを聞くと嬉しそうに頷き、座っててと食卓テーブルの椅子に俺を座らせた。
「こうしていると私たち夫婦みたいね」
夏穂母が茶化すように言ってくる。
「は、はぁ……」
何て答えるべきか分からず適当な相槌を打つ。
「もぅ、釣れないんだから」
夏穂母は顔に笑顔を刻みながら慣れた手つきで何かを作っていた。俺はそこから黙ってその精錬された動きを見つめていた。
しばらくして甘くて芳ばしい香りが俺の鼻腔を刺激し、お腹の虫に元気を与えた。
ぐぅー、と盛大な音を鳴らしたのだ。
「やっぱりお腹すいてたんだね」
夏穂母は俺の眼前にフレンチトーストを置き、小悪魔的な笑みを浮かべた。
「す、すみません」
照れくさくなり俺は頬をかいた。
「いいのよ、別に」
笑顔でそう言うと更に俺の前にコーヒーを置いた。
フレンチトーストとコーヒーの芳しい香りが刺激しあって朝食という雰囲気を作り出す。
手を合わせ、呟く。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
洗い物を再開させた夏穂母は優しくそう告げた。
***
朝食を食べ終え、2階に戻ると夏穂が笑顔で出迎えてくれた。
「おかえり。ご飯どうだった?」
「ただいま、すっげー美味かったよ」
俺は空いた座布団の上に腰を下ろしながら答える。
「そっか……」
夏穂はどこか嬉しそうに呟き、勉強を再開した。
それから思い出したかのように1枚の紙を俺に手渡した。
「プレテストだと思って」
……はっ? ふざけんなよ、急すぎだろ。
「まぁ、がんば」
夏穂は小さくガッツポーズを作りながら俺を応援する。
そんな応援するくらいならプレテストなんかするなよ。
まずは英語だった。所要時間は30分らしい。
翻訳やら英作やら多種多様に問題を解かされる。一言で表すならばむずい。
そして次は化学だ。化学記号だのなんだのと訳の分からない英字の羅列。
更には燃やした時の炎の色まで──分かるはずがないだろっ!
それから国語と続いた。
古典分野と現代文分野。古典分野は源氏物語で現代文分野は山月記。
光源氏って……、昔のジャニーズかよ。てか、古典作品、恋愛要素ばっかじゃん。
山月記は余裕だぜ。中島敦のトラになるやつ!
マンガでだってあるもんな、文〇ト。
この前たまたま立ち読みしたのが吉と出たみたいだ。
ここでお昼になり、下から声がかかる。
さっき食べたばかりなのにな……。
少し困りながらも階段を降りていく。匂いはない。なんだろう。
不思議に思うと食卓テーブルの上に鍋がドンっと置いてある。中には白いモノが大量に詰まっている。
「夏だからねっ!」
麺つゆを片手に持った夏穂母は微笑む。
あぁ、そうめんか。
夏穂母のセリフと手に持つもの、それから鍋の中にある白い塊のようなもの全てを鑑みて俺はその答えを出した。
食べれるかな……。
間近で見れば見るほど量の多さが分かり後ずさりしてしまう。
見ただけでお腹いっぱい──。
それでも好意を無駄にすることだけは出来ないと思い、俺は精一杯の作り笑顔を浮かべた。
食卓テーブルの椅子に座ってそうめんの束にムっとする。
何束湯掻いたんだよ……。
「さぁさぁ、食べましょ」
麺つゆの4倍水を入れ、つゆを完成させる。そして、3人で合掌した。
「いただきます」
最初だから少なくいくのも悪いか─―。
自分に食べれる、と言い聞かせそこそこの量をさえばしで取り、つゆの入った受け皿に入れる。
白く細い麺に濃い茶色のつゆが絡みつく。
その上に少量ではあるが刻みネギを浮かべる。
なかなか食欲をそそる見た目となる。
俺は箸でつるつると滑るそうめんを掬い、口の中へと運んだ。
「んんっ、うまい!」
お腹がいっぱいだのなんだの言っていたのが嘘かのようにそうめんは胃の中へと入っていく。
冷涼な食べ物は暑い日にはもってこいだ。それにのどこしがよく食べやすいことも相まってどんどん身体のエネルギー源として吸い込まれていく。
みるみるうちに塊としてあったそうめんが消え去る。
うち半分程を俺が食べたのだが──。
それから勉強の続きをしに夏穂と共に2階へと上がる。
中学時代の織葉との生活を彷彿させるようなそんな時間の流れを俺は無意識下で楽しんでいた。
2階にあがるとプレテストの再開だ。まずは地理だった。
たんまりと気候区分が出るが、2割ほどしか記憶に残っていない。
──うん、まあ。そういうものだよね。
それから地名やその位置が出題された。皆目ダメだと思う。
そして最後に数学だ。これがまた鬼難しい。
こんなの解けるの人間じゃないぜ。何で数学って数を求める教科でxやらyやらが出てくるんだ?
これが未だに謎だ。
そんなことを考えているうちに全てのプレテストを終えた。
空は茜色1色に染まっていることから夕刻なのだろうと予想がつく。
その西陽を顔に受けながら夏穂は俺の解いたプレテストたちを採点していた。
今の夏穂の顔には黒縁のメガネを掛けていた。
先程まで掛けてなかったのだが、答え合わせをする前になると途端にメガネを取り出したのだ。
何故、と聞いたら先生ぽいでしょ?
と屈託のない笑みで返された。
要するに雰囲気と自分の中のイメージに照らし合わせたということだろう。
だが、その伊達メガネは驚くほど夏穂に似合っていて採点の方ではなく、夏穂の方に目がいってしまう。
「もう、あんまり見ないでよ」
夏穂は顔を紅潮させながら採点を続ける。西陽を受けている彼女の顔はより一層に紅く見え、愛おしさを増幅させる。
「見てねぇーし」
俺は慌てて目をそらし、そう
その態度に夏穂ケラケラと笑う。何とも言い難い和やかな空気が流れた。
「終わったわよ」
しばらくしてから夏穂は伸びをしながら呟いた。
たわわに実ったお胸の果実がぷるんと揺れる。
意識的にそこから目をそらし俺は訊く。
「どうだった?」
「まるで他人事ね」
「そうか?」
夏穂は小さく肩を揺らす。そして5枚のプレテストを俺に返却した。
満点はもちろん100点だ。英語47点、化学12点、国語77点、地理23点、数学8点。
国語いいじゃん。悪いのから目を逸らし良いのだけを見て喜ぶ俺を見て夏穂は喝を入れる。
「このままじゃ、赤点3つだね」
「うぐっ……。それを言われると──」
「これで今の実力がわかったでしょ? そういうことだから、頑張ってね」
夏穂は口角を釣り上げ、どこか嬉しそうに笑った。
何が嬉しいんだよ……。
口には出さず心の中で毒づくと俺はテストを持ってきたエナメルバッグの中にいれて帰る準備を整えた。
「んじゃ、俺そろそろ帰るわ」
エナメルバッグを肩に下げそう告げる。
「えっ、もう?」
夏穂は目を丸くして驚く。もうって、もう夕方だぞ? そろそろ帰らねぇとまた夕飯とか出てきて帰るタイミング逃しちまうよ。
「あぁ、明日のこともあるし。今日は帰るよ」
「そっ……か」
残念そうに俯き呟く。
「色々と──ありがとな」
蝶番が軋みながら扉が開く。人1人が通れるほどの幅が開いてから俺はポツリと吐いた。
夏穂に届いたか否かは分からない。けど、改めて言うとなると照れくさくて恥ずかしい気分でいっぱいになった。
「──うん」
虚空に溶けだすような甘ったるい声が返ってきた。それを聞き届けてから部屋を出た。
階段を降り、リビングに顔を出す。そこには
「あの──」
俺はその背中に声を投げかけた。夏穂母は一瞬肩をビクンと揺らし驚きを露わにしてから振り返った。
「あぁ、将大くんっ!」
華やかな笑顔を浮かべる夏穂母。
「俺、そろそろ帰ります」
「えっ、もう?」
親子揃って同じこと言うんだな。そう考えると自然と笑みがこぼれた。
「どうしたの?」
突然の笑みに夏穂母は不気味そうに聞き返す。
「いえ、夏穂も同じこと言ったんで。思わず」
「そうなの」
夏穂母も笑みをこぼす。屈託のないその笑みは少年の──いや少女とそう変わらないものだと思った。
「明日はテストだし、今日は家でゆっくりと眠って万全で行きたいと思います」
話を戻し俺は宣告した。夏穂母はそっか、と言わんばかりに頷いた。
「明日、頑張ってね」
そう言って俺の頭を撫でた。柔らかくて弾力のある俺の手は異質の手が頭の上を紆余曲折に移動する。
どことなく心地よい気分になる。
「はい……」
俺は赤くなる顔を見られまいと俯きながら消え入りそうな声で返事をした。
手が頭から離れる。少し惜しい気がしたがそれは心の奥にしまい込む。
「それでは」
丁寧に頭を下げて別れを告げた。
***
時刻は午後10時を少し回った頃だ。空の星々が俺の部屋に明かりをもたらす。
昨日の騒がしい雰囲気は欠片もなく、静寂だけが部屋を支配していた。
「なんか寂しいな」
1人で天井を仰ぎながら呟く。家に帰ってから冷凍ピザを解凍し食べてからひたすらに勉強をしていた。
そんな時、携帯が振動を始めた。音が鳴らないということは電話ではない。というより電話はここ最近なった記憶がない。
「誰だ」
そんな風に思いながらスマホのディスプレイを確認する。
そこには夏穂の名があった。
「おぉ、夏穂からか」
心を昂らせふ自分がいることに驚ながら受信したばかりのメールを開いた。
『勉強は順調?? 私はそろそろ寝るけど、将大も頑張ってね!
あっ、でも頑張り過ぎて遅刻とかナシだからねっ!
おやすみ』
思わず頬を緩ませる。返信をタップする。
「大丈夫だ。俺もそろそろ寝る。
じゃあ、明日な。おやすみ」
簡易的だが、精一杯に心をこめて送った。返事は返ってこなかったが俺の胸は不思議な自信があった。
明日は大丈夫だと。
俺は寝る支度を整え、ベッドに潜り込んだ。
1日ぶりのベッドは妙に柔らかく感じた。寝るのは自分ちが一番だな──。
そう思っているうちに俺の瞼は完全に塞がり、規則正しい寝息をたて始めた。
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