第43話 俺、泊まる

 それからお昼ご飯を外に食べに行き、帰ってきてから勉強再開。

 そうしている内に日は暮れ、辺りは黄昏色へと染まりつつあった。

 そして次々と帰宅してくる品川家の人たち。まあ、そりゃそうなんだけど……。

「おじゃましてます」

 そのたびに立ち上がり頭を垂れる。

 ようやく英語、地理、国語、化学を終えてラスボスでもある数II・Bに取り掛かったところだ。

「終わりそうにないね……」

 夏穂が申し訳無さそうな表情を浮かべる。

「そうだな。でもまぁ、俺がアホだからな。ここまでやれたのは夏穂のお陰だよ」

 学校指定の数学のワーク県版問題集に目を落としながら言葉を返す。

「うんん。私がついていながら……面目ないです」

 夏穂は軽く頭を下げた。

「そんな……、夏穂が頭下げる道理なんてどこにもないよ」

 お別れモードに入りつつある2人に1階から大きな夏穂に似た声が投げかけられた。

「将大くーん。夜、食べて行くでしょ?」

 えっ……。しかも行くでしょって断定疑問文?

 どう答えるべきなのか分からず、俺は言い淀んでいた。

「おかあさーん、将大。食べるって〜」

 それを見兼ねたのか夏穂が声を張って下にいる夏穂の母親に答えた。

 えぇー!? なんで答えちゃってんの?

 おれ何も言ってないよね?

「じゃあ、ご飯まで頑張ろっか」

 夏穂の屈託のない笑顔に俺はただ頷くしかなかった。

 部屋のカーテンは閉められ、電気もつけられる。昔だったらロウソクとか立ててやったんだろうな。

 そんな風に考えているとやけに強い視線を感じた。

「え、なに?」

 視線の先には夏穂がいた。

「ペン、止まってるよ?」

 冷ややかな視線が俺の心にささる。

「あ、いや……。その電気って素晴らしいなっておもってな」

「え、何でそんなこと思ったの?」

 夏穂は動かしていたシャーペンを止めて苦笑気味に訊いた。

「ふと電気を見たらさ、電気無かったら勉強するのも大変だったんだろうなって思ったんだよ」

 俺は思ったことを物思いにふけるように話すと県版に目を落とし、解説文を黙読した。

「そうだね。そう思うと凄いよね」

 夏穂は電気を見上げて呟き、再度ペンを取った。

***

 13ページの問2。

 次の割り算をして、商と余りを求めなさい。

 (1)(4a^3+5a−15)÷(2a−3)

 俺はこの問題に取り掛かろうとした。その時だ。

「ご飯できたわよー」

 階段の下から声が響いた。何度聞いてもよく似てるよな、夏穂の声に……。

「はーい」

 大きな声で返事をしてから

「行こっか」

 夏穂はウインクをしてそう告げた。

 リビングに入るや強烈に空腹を誘う匂いが俺の鼻腔をくすぐった。

 部屋にエアコンがついており、程よい冷気とガスコンロにかけてぶくぶくと音を立てて煮えているおでんがミスマッチのようでマッチしている。

 そして部屋には賑やかなバラエティ番組がテレビから流れている。

 ほんと、この家族は賑やかだな……。羨ましい──。

 俺の家は毎日……。止めよう暗くなる。

「久しぶりだな」

 恰幅のいい男性──悟さんが食卓に真ん中に置かれているおでんの中身を覗きながら声だけを投げかけてくる。

「はい、お久しぶりです」

「もう、将大くん。硬くならなくていいわよっ」

 せっせと白米をよそったお茶碗を運ぶ夏穂母は俺に優しく微笑みかける。

「って、悟! 将大くん来てるのに、そんなみっともないことしないで!」

 お茶碗をテーブルの上に置いた夏穂母が悟さんの背中をビシビシと叩く。

 その前振りのない攻撃に悟さんは咳き込む。

「悟、汚いぞ」

 スーツ姿の父親が蔑みの目で息子である悟を見る。

 悟さん、家でもこんな扱いなんだな。

 しばらくして俺を含めた5人が食卓を囲んでいた。

 ぐつぐつと煮え立っているおでんの中にお玉とさいばしが指してある。

 これで取れってことなんだろう。

 そこへ悟さんが何も考えていないのか自分のお箸でおでんを鍋の中から取ろうとした。

「こらっ!」

 夏穂母の罵声が飛ぶ。

「な、なんだよ──」

 怪訝そうに悟さんが夏穂母を見る。夏穂母は小さく息を吐いてから告げる。

「今日は家族だけじゃないの。何のためのお玉とさえばしだと思ってるの?」

「俺は大丈夫ですよ」

 あまりに悟さんばかり責められて可哀想だと思った俺はやんわりと告げた。

「ほらっ、気遣わせちゃったじゃない!」

 しかし、それが逆効果となったらしく悟さんはより一層責られる。

「なんか良いですね。こうやって家族で食べるって」

 取り皿の中に大根と豆腐を入れた俺はポツリと落とした。

 別に言うつもりは毛頭なかった。でも、自然と口からこぼれ落ちたのだ。

「そっか。1人暮しなんだもんね」

 夏穂母がしみじみと呟く。

「いえ、その……。俺の母親死んじゃったんです」

 皆の手が一様に止まるのが感じられた。楽しげな雰囲気から一気にどんよりムードになる。

「あ、あの。ごめんなさい、急に」

 俺は慌てて謝り、大根を頬張った。

「美味しいです」

 精一杯の笑顔を作り言うも無理矢理感が否めない。

「父親は──?」

 夏穂父が厳かにそう訊いた。

「海外にいます。ずっと……。母さんが死んだ時も帰ってすら来ませんでした」

 俺はそう告げると昔の悲しみをお茶と一緒に流し込んだ。


「ねえ、将大くん」

 しばらくして元の団欒モードが戻りつつあった時。夏穂母が俺の名を呼んだ。

「何ですか?」

「今日泊まっていく?」

「──えっ!?」

 夏穂母による爆弾発言に俺は声を裏返す。

 何言ってんだよ、この人。

「帰って1人で勉強するよりなっちゃんと一緒にした方がはかどるでしょ」

 柔和な笑みで俺に語りかけるように話す。

「そうかもしれませんけど」

 どうにも異性のクラスメイトと一緒に過ごすとなると織葉のことが思い起こされて悲しくなる。

「ならお父さん、いいよね?」

 夏穂母は夏穂父に訊ねる。夏穂父は一瞬考える様子を見せてから頷いた。

「ただ、そういった行為はするなよ。まだ高校生なんだからな」

 真剣そのもので告げる夏穂父。

 何言ってんだよ、この人。親いるの分かっててヤるやつがいるかよ。

「それは分かってますよ。てか、しませんよ」

 俺は苦笑気味で答えるや隣から異議が飛ぶ。

「私に魅力が無いって言いたいのー!?」

 夏穂だ。めんどくせぇー。この場でそれはどうでしょうなんて答えたらそれこそアウトだろ。

「あ、え、えっと……」

「夏穂」

 俺が困惑していると夏穂父が助け舟を出してくれた。ありがたや。

***

 あれから2時間が経った。一時はどうなるやらと思ったが結局あの後父親が夏穂を宥めてくれて本気で助かった。

 夏におでん。異色ではあるが美味しかった。

 そして今、俺はお風呂から上がり悟さんの昔の服を借り夏穂の部屋にいた。

 窓の外には満点の星が瞬いている。月はもう無くなって消えてしまいそうなほど薄い三日月になっている。

 時折、どこかの犬が吠える声が聞こえる。

 そんな中俺は必死に数学を解いていた。

 (4x^3+5x−15)÷(2x−3)

 解けるはずがない。

「なぁ、夏穂」

 俺はヒントを貰うべく夏穂に声をかけた。

「どしたの?」

 同じく県版を解きなおしている夏穂はちらりと視線を向ける。

「ここ分かんねぇ」

 問題の数式に指を指す。夏穂はうーん、と唸りをあげてからパッと表情を明るくする。

「ここは普通にしたら大丈夫だよ」

「普通……?」

「そう。割り算の筆算したら解けるよ」

 そう言って夏穂は自分のノートに丁寧な字で筆算を書き上げた。

「それでねまず4x^3を消したいから上に2x^2を立てるの。すると4x^3が消えるでしょ?」

 ふむふむ……。俺はただただ黙って聞いた。

「──だからこうなるの」

「おぉ!!」

 鮮やか! 艶やか!

「なんかすげぇ賢くなれた気分」

 俺はケラケラと笑い夏穂に告げる。

「気分じゃなくて賢くなってよ。それと声が大きいよ。もう22時なんだから」

 夏穂はジト目でそう告げる。22時俺の中では早い時間帯だが、品川家にとっては遅い時間らしい。

 皆の就寝時間が22時。俺は絶対寝れない。

 コンコン。と扉がノックされる。

「お母さん寝るからね」

 お風呂上がりですっぴんの夏穂母が顔だけ覗かせてそう言う。

「うん」

 夏穂は小さな声でそれに答える。

「おやすみ、勉強頑張ってね」

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 夏穂母はニコッと笑ってから扉を閉めた。

 すっぴんだとますます似てるよな、夏穂と夏穂母。

 一瞥しただけで親子だって分かるもん。

「さぁ、後10ページ頑張ろうか」

 ぐぅーっと伸びをしてから俺はシャーペンを握り、県版へと向かった。


 それからたった1問に20分かけて夏穂に教わった通りに順を追って解いていった。

 今回の問題は最初に展開をしてから解かなければならなかったので時間がかかった。それから筆算をたてる。中に入れる式と外に書く式を1度間違えたって言うのは秘密──。

 それから文字を消去していくと20分かかったのだ。

 中学校の数学をイメージしてやると全く違う。だから20分かかったって仕方がない!

 むしろ早い方かもしれない……。

「おい夏穂でき──」

 俺は言葉を止めた。

 理由は夏穂が机に突っ伏してすやすやと眠っていたからだ。

 その無防備で可愛らしい寝顔に思わず笑をこぼす。

 俺は立ち上がりベッドの上にあるタオルケットを手に取る。

「風邪ひくぞ」

 ボソッとそう告げて、夏穂に手に取ったタオルケットをかけた。

 そして定位置へと戻り腰を下ろす。

「これなら家帰って1人でやるのと変わらねぇぞ」

 俺は嘲笑を浮かべ、次の問題へと取り組む。


***


 ごわごわとしたものが背中に感じられる。

 あれ? もしかして寝落ちしてた?

 ごわごわとしたものが昨日夏穂に掛けてやったタオルケットの素材と似ていて、口の中のパサつき感からそう予想を付けて閉じたままで真っ暗な視界を開かせるためにそっと瞼を持ち上げる。

 シャーペンを落とし、前に手を突き出すようにしている。

 そして右横から寝息が聞こえる。

 ん? 寝息が聞こえる?

 おかしいぞと思い俺は顔を寝息のする右横に向けた。

 そこには端整な顔つきの女の子がいた。

 長いまつげに艶のある黒髪。間違いない、夏穂だ。

 まさか俺が自分で夏穂の隣まで行って眠ったのか?

 そんなはずは──。

 俺は眼前に広げてあるノートに目をやる。丁寧とは程遠い乱雑な字が書かれたノートがある。

 うん、俺のノートだ。ってことは、夏穂が俺が眠った後に起きて、俺の隣で眠ったって訳か?

 意味わかんねぇよ、その行動!

「んっ」

 色っぽい声が少し空いた口の間から零れる。

 このままじゃ精神がもたねぇよ。それにこれを夏穂の母親や父親に見られたら──。

 人知れず苦悩していると不意に部屋の出入口である扉が2度ノックされた。

 一定のリズムで叩かれ、蝶番ちょうつがいが軋みをあげる。

 俺はやばいと思い、慌てて机に突っ伏した。

 寝た振りをしたのだ。

「起きてる……?」

 その声は夏穂とよく似ており、同一人物かとすら思わせる。

 母親だな。

 瞼を閉じたまま背中と肌が感じる僅かな空気の流れを読んで動きを察知する。

 やばい──入ってきた。

 奥歯をぎゅっと噛み締め、母親の動きを予測する。

「1枚しかなかったのかしら。こんなに引っ付いて──」

 どうやら都合のいい解釈をしてくれたらしい。母親は夏穂よりにかぶさっていたタオルケットを2人が均等になるように掛け直す。

「おやすみ」

 柔和にそう呟くと母親は蝶番を軋ませ、部屋の外へと出ていった。

 安堵の息を零す。ほんと、助かった。

 外からは和やかに鳴く鳥の声がする。カーテンの隙間からはギラギラの陽光が零れ出している。そして時折、車が走る轟音が僅かに聞こえる。

 部屋の中には刻刻と時を刻む時計の指針の音とエアコンの起動音がよく響いて聞こえる。

 静かだとこんなにいろんな音がするんだな。

 あまり気づかないありふれた音に妙な思いを抱きながら俺は気づくとまた眠りに落ちていた。

 そして次に目が覚めた時には夏穂はもう目の前で勉強を始めていた。

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