第25話 俺の新たなる一歩

 視界が霞み、ボヤけていた景色がゆっくりとはっきりとしてくる。天に架かる大きな虹が歪みなく視界に飛び込む。触れられそうなほど大きな虹だ。

 あぁ、俺はこれを見て……。

 虹、それは俺が母親と織葉を亡くしてから初めて上を向いて歩こうと、決心した日の空に架かっていたもの。だからなのか、虹を見るとあの日のことを思い出してしまう。

 鼻の奥がツーンとなり、涙が零れだす。

 やっぱり、このことは一生忘れられねぇ。でも……、先に行くことは出来るはずだ。

 胸に抱いた強い意志の下、俺は深呼吸をした。それからすぐに信号は青になった。

 雨上がり特有のアスファルトの匂いを感じながら濡れた横断歩道を歩く。

 止まっている車のワイパーはストップしており、ワイパーで届かない部分だけが水滴まみれとなっている。

 6月の梅雨の時期。雨上がりであっても蒸し暑さは変わらない。少し歩くだけでジトっと汗をかく。

 帰ったらシャワーあびないと、傘を片手に歩きながらそんな事を思った。


 家に着いた俺は、一番にシャワーを浴びた。竹中家から我が家までは歩いていけばそこそこ距離がある。背中にジトっとかいた汗は脱衣するのを難しくするほどの量だった。


「あっちーな」


 表情を険しくしながら、脱ぎにくくなった衣服を強引に脱ぎさり、洗濯かごに放り投げる。

 そのまま温度を低めに設定したシャワーを浴びた。程よくぬるい水が体にあたる。体に当たり跳ねる水たちが飛沫となり、宙を舞う。

 それらは地へ落ちると一目散に排水口へと流れていく。

 頭からぬるいお湯をかぶる。額にベチャッとはりつく前髪。そこから滴り落ちる水滴は頬を伝い、そのまま落ちる。

 全身をくまなく洗い終えると脱衣場に用意していたバスタオルを手に取り、体に付いている水滴を懇切丁寧に拭く。そして、新品のまだビニール袋に入ったまま置いてあったパンツを穿いた。新しい気持ちで次のステップに行くために……。

 それから二階にあるタンスのところまで移動し、しまってある服を取った。白のTシャツに緑の綿パンを着る。

 再度下に降り、玄関まで移動する。玄関に備え付けてある戸棚を開ける。その中からキャップ帽を手に取り、かぶる。

 夏じゃなくても夏直前。日差しが弱いはずがない。

 玄関を出て、一歩外に出たならば騒々しいほどのセミの鳴き声が轟いていた。

 これはもう夏直前とかではない。夏本番だ。

 浅くかぶっていた帽子を目深にかぶり直し、鍵をかける。

 俺は自転車にまたがり、ペダルをこぎ始めた。

 雨上がり特有のアスファルトの匂いが自転車に乗り風を切る俺の鼻をくすぐる。道路にできた水たまりが差し込む日差しを反射してキラキラと輝いて見える。

 タイヤが水たまりに入る。強い水しぶきをあげて通り過ぎる。

 俺はそんなこと微塵も気に留めずに強くペダルをこぎ、目的地へと急いだ。


 途中、花屋に寄り地味過ぎず派手すぎない花束を購入して、その場所へと到着した。時間にしておよそ十五分ってところだろう。

 ふぅー。これで本当に最後だ。

 強い意志を持ち、自転車から降りる。

 少しぬかるんだ地に両足をつけ、きっちりとスタンドを立てる。そして前かごに入れていた花束を手に取り、墓石ぼいしが並ぶほうへと足を進めた。

 そう、ここは墓地だ。俺の母さんのお墓がある墓地なのだ。

 重たい足取りで墓石の間を迷いなくすり抜けていく。

 一つ二つ、三つ四つと抜けていき、奥へと進む。

 そして何個か通り過ぎ足を止めた。

 大きく『盛岡家』と書かれた墓石が目の前にある。

 それが目に入った瞬間、俺の視界はいびつゆがんだ。

 それは何故なのか。俺は一瞬ではわからなかった。が、少ししてそれが涙だ、ということが分かった。

 頬を伝う生暖かい涙がゆっくりと顎へと流れ、地へと落ちる。

 俺はそれを腕で拭い去り、暮石へと近づく。しおれかけているお供えの花を買ってきたばかりの新鮮な花と取り換える。

 抜いた花を自分の隣に置き、自分自身はしゃがみ込み、暮石に向かって手を合わせた。

 うっすらと濡れたまつ毛が陽光を反射する。

 しっかりと瞳を閉じ心の中で天国にいるであろう母さんに語り掛ける。


『母さん。久しぶり。俺さ、やっと母さんと織葉のこと乗り越えられた気がするよ。完璧にってほどじゃないけど、そんな気がする。忘れるわけじゃないよ、心に刻んで次のステップへと進んだ。それもこれもあいつの……、夏穂のおかげだ。最初はめんどくせーって思ってたやつだけど、いつの間にか俺の隣にいていつの間にか俺の支えになってたよ。また母さんにも紹介するからさ。だから……さ、今日はそれを伝えに来たんだ。母さん、今まで本当にありがとう。面と向かって言えなかったことすげー後悔してる。それでさ、これからもまた余計なこととかするかもしれねぇーけど、見守ってください。俺、ちゃんと生きるからさ。お願いします』


 強く合わせていた手を解き、ゆっくりと瞼を押し上げ、目を開ける。

 キャップ帽のつばによってできた影で周りからは分かりにくいが、大量の涙が溢れ出ていた。

 俺は垂れかけてきていた鼻水をずぅーと吸い上げてから天を仰いだ。

 照りつける日差しが容赦なく降り注ぐ。

 耳んつんざく喚き声のような蝉の声。夏を感じさせる。

 俺は最後にもう1度だけ母さんの墓石を一瞥してから小さく微笑んでから墓地を後にした。

 夏の香りを肌で感じながら、自転車を漕ぐ。行きよりペダルが軽く感じるのは気持ちの違いだろうか。母さん、織葉、大事なモノを失ったからこそ分かったことを人生の糧として生きる。俺は強く思い、より一層強くペダルを踏みしめた。




 次の日は日曜日だった。とりわけ何かしなければならない事もなくひたすらにぼーっとしていた。

 子どもの頃からなのだが、平日は朝早く起きることに苦労するのに何故か休日だけは朝早くに目が覚める。

 謎でしかないが、俺はテレビをつける。久しく見たスーパー戦隊。幼き頃は毎週喜んで見ていたのに、いつの間にか見なくなっていた。

 こうやって大人になっていくのかな。

 特別な何かを感じることもなく、時間は流れる。しばらくするとお腹が減る。

 体は平常運転だ。残っていた白ご飯に目をやってから、お湯を沸かすことにする。

 お茶漬けを作る。ご飯を丼鉢に盛り、その上にお茶漬けの素をふりかける。

 さらにその上からグツグツ沸騰したてのお湯をぶっかける。白い湯気を上げなから、お茶漬けの素から発せられる唾を呼び起こすほどのお腹を刺激する香りが立ち込める。

 俺はその匂いを鼻いっぱいに吸い込んでからプラスチック製のスプーンでお湯につかったご飯を掬い、口へと運んだ。

 口の中いっぱいに広がるお茶漬けの味が頬を緩ませる。


「朝のお茶漬け。美味いな」


 そんなふうに思いながら食べていると数分で食べきっていた。

 まだ満腹ではない。しかし、胃に食料が入り空腹ではなくなった俺はソファーに横たわったた。

 食べた後すぐ横になったら牛になる。と昔よく言われたっけな。

 昔の思い出が脳裏をかすめる。思わず微笑み、ソファーに座り直す。

 それから携帯をいじった。


「えっ、まじで?」


 思わず声が漏れる。差出人は例のヤンキー伊田くん。


『月曜までの課題。数学県版22ページまで。国語ワーク15ページまで。英語ワーク20ページまで。だってよ』


 慌てて2階へと上がり、自分のワークの進み具合を確認した。


「げっ……」


 思わず表情を崩す。開いたワークの白さに目をひんむく。

 数学県版10ページまで、国語ワーク2ページまで英語ワーク7ページまでしかやってない。

 慌てて伊田くんへと返信メッセージを作成する。


『遅いよ。もっと早く教えてくれよ!』


 目にも止まらぬスピードで打ち、携帯をその場に放置し机へと向かった。

 わけのわからない英字の羅列。英字と数字の入り交じる式形態。今まで生活してきた中で言ったことのない古語に悩まされながら頭を掻きむしる。途中で携帯が震えていたような気がしたが気にとめず必死で手を動かし続けた。



 翌朝。スズメがちゅんちゅんと軽やかな鳴き声を上げている。

 よろける足取りで窓へと近づき、閉めきっていたカーテンを開ける。

 煌めくような陽光が部屋に差し込んで来る。あまりの眩しさに思わず目を細める。

 空には雲一つない。快晴だ。

 群青色の空に小さな微笑みをこぼし、俺は学校へ向かう準備を始めた。

 お決まりの学校指定の制服に身を包み、朝からやって夜遅くまでかかった課題をカバンに詰める。

 朝食をとり、最後に顔を洗う。

 全ての準備を整え、深呼吸をする。

 大丈夫。俺は乗り越えた。

 頬を両手で叩き、気合いを入れる。

 それから家を出た。

 慣れたはずの通学路なのに入学式の日のように緊張する。

 道にできていた水たまりはすっかり無くなっている。干からびたようなアスファルト舗装の道路からは陽炎が立ち上っている。

 そしてあちらこちらから聞こえるセミの大合唱。

 もうすぐ梅雨も明け、夏になる。そうするとみんなお待ちかねの夏休みだ。

 そんなことを考えているうちに学校の前まで着いた。

 眼前にそびえ立つ学校を見上げ、足を止める。そして大きく深呼吸をする。


「よしっ!」


 小声だが、力強い声で気合いを吐き出し、学校の敷地内へと足を踏み入れた。

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