第24話 突然の終わり

 母さんの体調は優れることが無いまま遂に梅雨に入った。俺も未だにずるずると織葉の家に居候している。

 てか、もう居候を超えて家族の一員みたいになっている。


「ほらっ。今日雨が降るらしいからさ、傘もっていきなよー」


 織葉の母さんに言われる。最近毎日聞いている言葉だ。

 今日は6月10日。少し早めの梅雨入りを果たした今年は蒸し蒸しとしていてかなり暑い。

 あまり聞きたくもないカエルの大合唱や窓を打つ雨音。空に太陽はなく、分厚い灰色の雲がはびこっている。

 この時期、唯一良いなと思えるのは紫陽花あじさいくらいだ。薄暗い通りに華やかな色の花を咲かせる紫陽花は心までも彩ってくれる。

 俺と織葉はいつものように雨の中並んで学校へと向かっていた。

 広げた傘に雨が降る。ポツポツという音がやけに大きく感じ、耳に届く。

 そしてこんな日に限って赤信号ばかり。

 ついてない……。


「車多いね」


 行き交う車の多さに織葉が呟く。


「そだな。雨降りだからな」

「そだね。雨降ってたら歩くのやだし、自転車も漕ぎにくいもんね」


 いつものありふれた会話。こんな日々に俺は幸せを感じる事はなかった。本当はこんな毎日がとても幸せであるのに……。

 学校に着いてからもその雨は止むことはなかった。

 止まない雨はない。だれが言い始めたか知らないがその通りだと俺は思う。永遠に思える梅雨もいつしか明けて、高温多湿の夏が来る。その尋常でない暑さも三か月も経てば涼しさを感じられるものになり、次第に寒くなり、冬が来る。

 そうやって決まったように日々は流れる。冷から涼。涼から湿。湿から暑。暑から涼。涼から冷。そうやって回る。いつもと変わらない。


「おーい、今日の四時間目の体育、雨で中止だってよ」


 誰かが言う。それに対して、あちらこちらで「えぇー」だの「やったー」だのといった声が上がっている。

 俺はそんなことなど全く気にせずに窓を流れる雨粒を眺めていた。

 流れる雨粒はゆっくりとほかの雨粒と交錯しながらダラダラと汗のように流れていく。


「ねぇ、体育無くなっちゃったね」

「そだな」

「将ちゃん」

「なんだ?」


 今にもとろけてしまいそうなような声音で織葉が呼びかける。


「そんなに怖いの?」


 織葉が震え混じりに訊く。その言葉に俺は両の目を強く見開き、折れるような勢いで奥歯を噛み締めた。

 刹那に時が止まったように感じ、聞こえるはずのない指針の音が耳をかすめた。

 俺は短くため息をついた。自分自身を落ち着かせるため、今にも泣き出しそうになる感情を吐き出すために……。


「……怖いよ。怖くないはずがない」


 バチバチと窓を打つ雨音がより一層強くなる。

 そして遥か遠くで雷鳴がしたような気がした。


「そっか。そうだよね。私も怖いもの」


 織葉は弱々しく、歪な笑顔を俺に向けた。その笑顔が更に俺の胸を締め付け、放課後への恐怖を強めた。


「2人でこそこそ何やってんだよ」


 そんな俺たちの神妙な様子を感じ取ったのか中尾くんが訊いた。

 俺は一瞬の迷いを経てから口を開いた。


「今日さ、母さんの健診結果聞きに行く日なんだよ」

「健診結果?」

「そう。将ちゃんのお母さん、ガン……だから」


 ガン。その単語が耳に入るだけで周りの雑踏がかき消され、沈黙の深淵に叩き落とされる。世界がフリーズし、俺一人取り残されたようになり、恐怖という圧が今にも俺をペシャンコにしようとしてくる。


「そう……だったのか?」


 中尾くんが厳つい顔に似合わない驚嘆の色を見せる。


「あぁ、ほんとだ。まぁ、多分大丈夫だからさ」


 こう見えて心配症な中尾くんに心配をかけたくなくて俺は頑張って笑顔を作って答えた。

 どれほど上手く笑顔が作れたか分からない。もしかするとホンモノの笑顔より笑顔っぽかったかもしれないし、見るからに作りモノだと分かるものだったかもしれない。中尾くんは、「そうか」と俯き加減で答えてから「トイレ行ってくるわ」と残して立ち去った。


 憂鬱な午後からの授業を乗り越え、ようやく放課後となった。意を決して、母さんの担当医に何を言われても大丈夫なように色々なシチュエーションを頭の中でこなして、病院へと向かった。

 学校から最寄りのバス停まで徒歩で行き、そこから2つ先のバス停が病院前だ。

 先月の診断結果は良好ではあったが、決して安心はできない、と言われた。


「次は美里病院前。美里病院前」


 車内アナウンスが流れた。俺は座席の前にあるボタンを押して、降りるということを運転手に伝えた。


「不安だね」


 掠れ気味の織葉の声が耳に届く。その声が俺の胸中をかき混ぜ、不安を色濃く滲ませる。


「でも、この前は大丈夫だったし……、今回も……ね!」


 無理に元気に振る舞っているのは一目瞭然だった。


「そうだな」


 それに答えるべく、俺もできる限りの元気を表に出して答えた。

 バスが停車した。完全停止したのを確認してから立ち上がり、運賃150円を支払ってから降りた。美里病院。ここに来たのはもう両手では数え切れないほどだ。

 車内に冷房が効いていたので外に出た瞬間、蒸し暑さを感じざるを得ない。

 昼間より弱くなった雨足がバスから降りたばかりの俺たちに注ぐ。


「行こうか」


 俺は織葉にそう声をかけた。織葉は黙ってこくり、と頷いた。俺は自分の不安を少しでも消し去りたくて、織葉の手を握った。ギュッと握った織葉の手は、小刻みに震えていた。

 俺だけが怖いんじゃない。織葉だって……、こんなに……。こんなに震えてるんだ。

 病院入口前まで移動し、雨に濡れない場所まで行くと俺は、深く、これでもかというほど深く空気を吸い込んだ。蒸し蒸しとした重さを感じる空気を鼻から肺へと送り込む。肺は湿気を含んだ重たい空気で満たされる。それから口を少し尖らせてから全てを吐き出した。

 気持ちを切り替えるべく、体中にある空気を総入れ替えした。


「よしっ!」


 トドメに両手で頬を挟むようして顔を叩いた。

 織葉はそれを見て、小さく微笑んだ。


「行ける?」

「あぁ、行ける」


 俺と織葉はぎっちり手を繋ぎ、気持ちをひとつにして病院内へと入っていった。


 診察室の更に奥。薄暗い部屋に俺と織葉、それに向かい合うようにして担当医が座っていた。

 冷房が効きすぎているのか、少々肌寒く感じる。


「それで……、結果なのですが」


 担当医が重たい口を開け、話し始めた。

 俺たちは黙ってその言葉に耳を傾けていた。救急車に運ばれてからおよそ十ヶ月。当初の余命宣告をもうすぐ超える。


「放射線治療がかなり上手くいっており、10年は大丈夫かもしれません」


 思いもよらない吉報に俺は思わず涙した。不安に思っていた分、嬉しさは倍だった。


「本当ですか!?」

「えぇ、本当です。奇跡的と言っても過言ではありません」


 医師の目にも輝きがあり、ホッとしたような感じが滲み出ていた。


「良かった……」


 織葉も涙をこぼした。



 俺たちが病院をでる頃にはすっかり雨は上がっていた。日は落ちていたが、久しく見てなかった星が瞬いていた。

 月も出ていた。母さんの吉報を喜んでくれるような満月だった。


「満月だね」


 バス停でバスを待っていた織葉が不意に空を見上げ呟いた。


「そうだな。それに星も……。綺麗だ」

「だね。将ちゃん。お母さん、本当に良かったね」

「うん。本当に良かった」


 俺は笑顔で答えた。


「やっと笑ったね」

「えっ?」


 織葉の一言に思わず声が漏れた。


「だって、将ちゃんずっと笑ってなかったもん」

「笑ってたよ」

「笑ってなかったよ。将ちゃんのお母さんが倒れたあの日からずっと心の底からの笑顔が無かったよ」


 織葉は感傷に浸ったように告げた。

 でも、俺は笑ってなかったんだ。笑ってるつもりだった。ずっと、楽しかった。でも、笑えてなかったんだ……。


にがくるしかった。でも、織葉と織葉の両親と過ごした日々。本当に楽しかった。俺の大切な思い出だ」


 俺は自分の思いを言葉にした。思いを言葉にして、相手に告げる。それがどれほど難しいのかやっと分かったような気がした。

 苦しい日々を乗りこえて理解出来た。


「私も楽しかったよ」


 織葉のその言葉と共にバスがやって来た。タイミングを見計らったように到着した。




 次の日、その次の日は梅雨の中休みだった。雨は1滴たりとも降ることなくじめっとした晴れの日が続いた。

 そして土曜日。前日までの天気予報では晴れと言われていたが、起きてみるとびっくり大雨だった。

 同じ屋根の下で生活はしてるのだが、デートはしたい。天気予報を見て今日をデートの日と決めていたのが、生憎の雨。


「今日はやめとくか?」

「やだよー。せっかく早起きしたのに……」


 欲しいものを買ってもらえなかった子どものように織葉が駄々をこねる。


「しゃーねぇーな。んじゃ、行くか?」

「うん!!」


 織葉は大きく何度も頷いた。

 白い長めのワンピースを着込み、その上から黄色のカーディガンのようなものを羽織っている。

 大人っぽい雰囲気漂わせる服装に緊張を隠せずにはいられなかった。

 対して俺は黒の生地に赤文字がプリントされているTシャツに細身のジーパン。それに斜めがけの白のカバン。


「将ちゃん、いつもと変わらないじゃん!」


 織葉は少し口を尖らせ、不満を告げる。


「悪いかよ。服なんてそんなに持ってないんだ」

「何で服買わないの!?」

「高いし、勿体ない」


 俺はそっぽを向いて答える。


「嘘つきー。他のものは何でもポンポン買うくせに!」

「他のものは他のものだろ」

「もー。じゃあ、今度のデートで服買いに行こっ!」


 優しい温もりのある笑顔だ。俺は「あぁ」と短く答えた。


 大雨の中、俺と織葉は2人で相合い傘こと愛愛傘をして家を出た。前もって2人で決めていた予定に従うべく駅前まで歩いていった。

 それから映画館で映画を見て、二人仲良く昼食をとり、カラオケにいった。

 午後4時を回っていた。雨足は弱まること無く、更に強くなっていた。警報出てるんじゃないのか、と思えるほどだ。


「大分雨強いな」

「そうだね」

「そろそろ帰っとくか? これ以上雨強くなったら困るし」


 俺の提案に織葉は少し悩む仕草を見せてから頷いた。


「今度は晴れた日に行こうな」

「うん、絶対だよ!!」


 店から出て、傘をさすまでの間の一瞬に降られた雨で前髪がベチャベチャになった織葉がウインクしながらいった。俺ははにかみながら「おう」と返した。


 駅前から織葉宅まではおよそ10分ほど歩けば着く。織葉が道路側を歩く形で帰路についていた。

 他愛もない会話をしながら歩いていた。傘を打つ雨が激しくバチバチと音を立てている。その音があまりに大きく、すぐ隣にいるはずの織葉の声ですら鮮明に聞き取ることができないほどだ。

 そのため、周りの音は全くと言っていいほど聞こえなかった。




 同時刻、美里病院。異様な空気が病院内を駆け巡っていた。


「盛岡さんの様態が急変しました」


 看護師の甲高い声が響いた。白い蛍光灯に照らされる廊下にパタパタとスリッパで駆ける音が木霊する。


「何だって。昨日の検診では大丈夫ではなかったじゃないか!」


 低い男性の声が盛岡とネームプレートがかかった病室の前で轟く。


「それが……。膵臓のほうに転移しておりまして……」


 看護師の台詞が空気を凍らせる。


「なぜ見てなかったのだ」

「すいません。転移しているとは思ってもみなかったもので……」


 男性医が大きく舌打ちをして、病室の扉を開ける。


「担当医は誰だ?」

鹿ろくさんです」

「鹿か……。確か今日は休みだったよな」

「はい」

「今すぐ連絡して、来させろ」


 男性医は看護師に強くそう言うと、息遣いを荒くしたガン患者。将大の母親の元へと駆け寄った。



 道を曲がり、あと少しで家に着くところまで帰ってきた。

 強い雨に降られ、傘からはみ出た肩はベチャベチャだ。

 残り2つ道を曲がれば家に着く。


「もうすぐだね」

「あぁ。疲れたか?」

「うーん、ちょっと」


 激しい雨音が周囲の音をかき消す。

 それに気をつけることもなく、何の思いも抱かず普通に道を曲がった。

 刹那、真っ直ぐ走ってきていた車が目前に現れた。

 あっ、と言う暇もなく車は俺たちを襲った。いや、正確には道路側を歩いていた織葉を襲った。

 織葉は悲鳴を上げることなく、宙に舞い上げられた。

 俺の世界は時間のスピードを最高まで遅くした。

 宙に上がった織葉がゆっくりと最高点まで舞い、そこからゆっくりと地面にまで落ちた。

 そこで世界は戻った。おびただしい量の鮮血が織葉の額から流れる。それは激しい雨にうたれ、次々と広がり波紋となる。雨で濡れ、黒色に近くなったアスファルト舗装された道路は瞬く間に血の海に染まる。

 白の乗用車から出てきた若い男性は血の気を失い、アタフタしながら119に電話した。

 どれくらいの音がしたかは近くにいた俺ですら分からないが、かなり大きな音だったのだろう。かなりの野次馬が集まってきている。

 誰がどんな話をしているのか全く頭に入ってこない。ただ真っ白となった頭。血を流して倒れたままの織葉だけが映る視界。

 嘘だ……。こんなはず……。

 遠くから何かが聞こえる。しかしそれが救急車のサイレンだと気づくことはなかった。



 俺は到着した救急車に乗せられた織葉の同行人として一緒に乗車した。はじめて乗った救急車だが、あたりを見渡す余裕など無くただひたすらに冷たくなった織葉の手を握った。少しでも織葉から離れると発狂してしまいそうになる。


「どこに行く?」

「いま受けれ先を聞いている」

「美里病院だ!」


 そんな会話の後、救急車は動き出した。サイレンを響かせながら道路を暴走気味にスピード全開で美里病院へと向かう。

 そこは奇しくも母さんのいる病院。しかし、この時まだ俺はそのことに気づいてなかった。

 全速力で向かった救急車は事故現場から数分で美里病院に到着した。

 そこからも素早い動作で手術室に運ばれた。手術室に入った瞬間、扉の上に存在している手術中と書かれたプレートが赤色に点灯する。手術が始まった証拠だ。

 俺はその前に並べられた椅子に腰を掛け、前かがみに座り両手で拳を作り、歯を食いしばっていた。

 しばらくして織葉の両親が到着した。慌てて俺の元まで駆け寄ってくる。俺は何も言うことはなく、ただただ俯いていた。


「何があった」


 父親が聞いてくる。俺は流した涙を右腕で拭い顔を上げた。


「道を曲がった瞬間にこちらに向かって走ってきていた車に跳ねられました」


 母親はそれを聞いた瞬間涙を流し始めた。父親も泣き始めた。何も出来ない無力な自分が悔しくなる。

 なんで俺が外側を歩かなかった……。あの時もう少し周りに気を配っていたら……。あの時……、あの時……。

 そんな思いばかりが何度も脳裏を掠める。

 それを責められないことが余計に俺を苦しめた。

 頭がおかしくなりそうになる。そんな時だった。

 ポケットに入ったままだった携帯が音を立てた。

 静まった廊下に轟く。

 俺は垂れかけていた鼻水を吸い、電話に出た。誰からは確認する余裕がなかった。


「盛岡将大くんですか?」

「はい」


 どこかで聞いたことのある声だな、と思いつつ答える。


「いまどこにいますか?」

「美里病院ですが……。あなたは?」

「おぉ、それは良かった。私は将大くんのお母さんの担当医をしている者です」

「えっ……」


 何か分からないがただ嫌な予感だけはした。


「今すぐお母さんの病室に来てください」

「今……ですか?」

「はい、今すぐです」


 ツーツー、と通話終了音だけが耳に入った。


「どうしたの?」


 涙声で織葉の母親が訊いてくる。


「何か今すぐ母さんの病室に来いって」

「そう」

「すいません。行ってきます」


 俺は2人の前で一礼だけして母さんの病室に向かった。

 母さんの病室の前にはかなりの人だかりができていた。次々と人が出入りする。何事か。


「どうかしたんですか?」


 手前に立っていたナース服の人に尋ねた。


「病状が悪化してね。転移してたみたい……。今夜が山らしいわ」


 俺は言葉を無くした。立っていることすらできずに崩れ落ちた。

 そして人目を気にせず大声で泣き喚いた。



 たった1日。たった1日で俺は大事なモノを全て失った。大事で大好きだった織葉も、織葉の家族も、それからこの世でたった1人しかいない母さんも……。全て失った。俺は1人になった。

 事が起きた夜から3日間。俺は寝ることが出来なかった。織葉の家にノコノコと帰ることも出来ず、久しぶりの家にいた。学校も休み、永遠に泣いていた。

 それから隣町に暮らす親戚の家に引き取られた。言ってもまだ中学生。1人で暮らすにはまだ早い。織葉の葬儀に参加し、母さんの葬儀は身内だけのこじんまりとしたものを執り行った。

 そして高校生となり、俺は夏穂と出会った。




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