第20話 俺と織葉と母さんと

 家へ帰った俺はその場で崩れ落ちた。何事も無かったかのようにドアを引く。ガチャンという音が耳に届き、鍵がかかっていることを知らせる。それは何度引いても同じだった。

 家からはこれっぽっちの明かりすら漏れてこないことから、家に誰もいないことを教えていた。

 鍵を持ってきてない俺はどうすることもなく立ち竦んでいた。

「将大くん……かな?」

 そんな時不意に後ろから声をかけられた。

「誰……ですか?」

 俺はできる限り防御膜を張って聞き返す。

「わしじゃよ。斜向はすかいの遠藤じゃ」

 少し薄くなった頭に手をあてながら柔和な笑顔を浮かべて答える。

「あ、あぁ」

 近所付き合いをほとんどしない俺は曖昧な返事をしてから少し防御膜を弱める。

「そ、それで。何か用ですか?」

「あぁ。お前さんのお母さん。ちょっと前、救急車で運ばれよったぞ」

 家の前を縦横無尽に歩き回っていた俺を心配して声をかけてくれたようだ。

 しかし、俺は母さんが倒れたと聞いた状況でまともな思考ができるわけがなく、遠藤さんの胸ぐらを掴んで叫んでいた。

「母さんはどこだ!」

 自分でも驚くほどしゃがれた声で詰め寄った。

「さぁな。でも、病院一つ一つを虱潰しに探していけばわかるかもしれぬがな」

 遠藤さんは引き気味にそう告げた。

 俺は掴んでいた胸ぐらを投げ捨てるようにして駆け出す。

 刹那、携帯の着信音が鳴り響いた。

 くっそ、何だよ。こんなときに。

 そう思いながらディスプレイに目を落とす。知らない番号だ。

 一瞬の躊躇いの後、通話ボタンを押す。

「品川将大さんの携帯ですか?」

 聞いたことのない渋い男性の声。

「……はい」

 少し間を置いてからポツリと答える。

「そうですか。私は消防署の高倉と申します。お母さんの件ですが……、美里病院に運ばれました。ただ今腫瘍の摘出手術が施されています」

 高倉は淡々と語る。

「わかりました」

 それだけ返すと俺は電話を切り、自宅より約5キロ離れた美里病院向けて走り出した。

「母さん……」

 喘ぐように呟いた。


 三十分近くかけて美里病院に着いた。手術室の手術の文字はまだ点灯していた。

「くっそ……」

 何故かそれが漏れる。

 ただ震える手を握り、簡易の椅子に腰をかける。俯き、下を向く。

 仄かに照らされる蛍光灯の白が不気味に感じられる。

 どれくらい待っただろう。三十分。一時間。いや、実際にはおよそ十分だった。

 手術の文字の点灯が消え、手術室から淡い青の手術服を纏った小さな丸メガネを掛けた男性が出てきた。

 俺は反射的に立ち上がり、先生へと向かった。

「母さんは……。母さんはどうなったんですか?」

 薄暗い廊下に俺の声だけが木霊する。

 先生は少し間を置いてから話す。

「腫瘍の摘出に失敗はしませんでした。ですが、完全に摘出することはできませんでした。深く言うなら――」

 先生は丁寧に腫瘍のどの部分が摘出でき、どの部分が摘出できなかったのかを説明した。

「そうですか。ありがとうございます」

 完全に摘出できていないということは、再発の可能性はかなり高いといえるだろう。でも今は、一命を取り留めことを喜んでいいだろう。

 俺は顔に喜びを刻みながらお礼を言った。先生は会釈程度に頭を下げてそれに応えた。


 結局俺はその後、母さんの病室に泊まった。

 涙で布団を濡らしながら眠った。

 目覚めた瞬間、形容し難い優しいぬくもりに包まれていた。

 何だ……。

「あらっ、起きたの?」

 優しい声音。間違いなく母さんのだ。

「あぁ。母さん、大丈夫なの?」

 ぬくもりの正体は母さんの手が背中を摩ってくれていたのだろう。

「うん。心配かけてごめんね」

 母さんは俺の腫れ上がった目を見て申し訳ないを最大限に表現した様子で告げた。

「いや、いい。母さん、しっかり休んでくれ」

 医者からは1週間入院するように言われている。母さんに、その旨を告げた。

「そう。じゃあ、パジャマとか持ってきてもらわないとね」

 歳に合わない若々しい笑顔を浮かべてそう言う。

「わかった。んじゃ、鍵くれ」

 母さんは思い出したかのようにポケットの中から鍵を取り出し渡した。

「お願いね……」

「うん」

 短く背中越しにそう告げ、病室から出た。


 三十分近く走ってやってきた道のりを歩くのはかなり怠い。

 猛暑日に町中を三十分はキツすぎる。

 十分ほど歩いたころだった。

 汗でびっしょりになった俺はもはや風呂上がり同然だった。そこに聞きなれた声がしたのだった。

 青の軽自動車の窓が開き、織葉によく似た顔が現れた。

「あら。どこ行くの?」

 柔和な声が俺の耳を掠める。

「家。帰ってる途中です」

「そっか。じゃあ、ほらっ。乗って!」

 せかせかと織葉似の織葉の母さんは後ろのドアを開けた。

「いえ、大丈夫ですよ」

 顔の前で手をパタパタとはためかせながらそう答えるも織葉の母さんは耳を貸す様子も見せなかった。

「熱中症にでもなったら困るんだから」

 半ば強引に乗せられた車の中はひんやりとした空気が漂って気持ちよかった。そして、織葉の姿もあった。

「昨日と同じ服じゃん。どしたの?」

 ジト目でそう訊いて来る。

 嘘で答えようかと思ったがいい嘘が思い浮かばず、結局真実を告げた。

 車の中は凍りついた。ただでさえ冷えていた車内がさらに温度を低くする。

「大丈夫……なの?」

 織葉はどうにか言葉を紡ぎ、そう訊く。

「多分。まだ腫瘍は残ってるらしいけど……」

 再発の可能性の高さは口にしなかった。だが、俺の表情から概ねは理解されたらしい。

 良かった、などの言葉は無かった。早く治ればいいね、これが竹田家の限界の励ましだった。

「着いたわよ」

 車での移動は早かった。あっ、という間に着いたように思った。

「今からどうするの?」

「母さんのパジャマとか諸々準備して病院に持って行きます」

 重たい口ぶりで答える。

「じゃあ、私たちも手伝いましょうか」

 織葉の母さんがそう提案する。

「そうね」

 織葉もそれに同意する。

「そんな……。俺1人でもなんとかなりますよ」

 とても嬉しい申し出ではあったが、そこまで迷惑をかけるわけにもいかない。

「迷惑かけるとか思ってるなら大間違いだよ。私たちはやりたいようにやってるだけ。それにそんな大荷物持って歩いて病院まで行くのは大変だよ」

 織葉の母さんは悪戯な笑みを浮かべ、そう告げた。


 結局、手伝って貰い三十分後ほどに病院に戻れた。

 病室に戻った時、母さんは眠っていた。

 すやすやと規則正しい寝息を立てながら眠っていた。

「母さん……」

 俺はベッドの横に置いてある椅子に腰をかけ、眠っている母さんの手を握った。

 どこか冷たく感じる。でも、ドクドクと脈を打っているところから生きているのがわかる。

「ここ置いてるね」

 織葉の母さんがベッドの横に持ってきた衣類を置いた。

「ありがとうございます」

「それでこれからどうするの?」

 俺の礼をサラリと流して織葉の母さんは訊いた。

「どうするって?」

 質問の意図を理解できなかった俺は反射的にそう聞き返した。

「生活のことよ。ずっとここで泊まるわけにといかないでしょう。それに明後日からは学校始まるわよ」

 織葉がそう続けた。

 俺は黙り込むしかなかった。そんなことを考えている余裕すら無かった。

「わかんねぇ」

 情けないほど弱い声でそう答えた。

 待ってました、と言わんばかりに織葉の母さんはニコッと笑い告げた。

「じゃあ、私たちの家においでよ。少しの間の居候ってことで!」

 その瞬間、俺の世界が止まった。

 居候……。織葉の家で……か?

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