第18話 俺

 あの日とほとんど変化は無かった。見馴れた木製のテーブル。38型の薄型テレビ。その前に設置された茶色のソファー。壁には1人の少女があどけなさの残る顔に笑みを浮かべ、ピースをしている写真や賞状などが立て掛けられている。全体的にモノクロに近い色でまとめられたリビングはあの時よりずっと重たく感じる。

「久しぶりね」

 焦げ茶色の髪をアップした40代過ぎの女性がぎこちない笑顔を浮かべる。

「はい、お久しぶりです」

 顔が強ばるのがわかる。

「2年振りかしら」

「そ……ですね」

 女性の背中は懐かしくもあるが、罪悪感も込み上げてくる。

「あの……、手合わせて頂いてもよろしいですか?」

 キッチンで何かをしている女性に対して俺は少し声を震わせて言う。

 女性は何も言わず巻いていたエプロンで手を拭き、歩き出す。その背中に付いてこいと言われているような気がした。

 おれはそんな背中に頭を垂れてからついていく。

 そこは和室だった。六畳の和室にびっしり詰められた畳から香る独特の匂いが鼻腔をくすぐる。

 その部屋に堂々と置いてある金色こんじきの仏壇。

 女性は手で「どうぞ」と合図をする。俺は会釈程度に頭を下げて「ありがとうございます」を表す。

 仏壇の前に敷かれた一枚の紫色の座布団の上に静かに座る。

 それから金色の棒、鈴棒リンボウを手にして、金色の器、りんを軽く叩く。

 チーンという音が外の雨音に呼応するかのように気高く鳴り響く。静かな部屋に幾回かその音が反射する。

 俺はその音が鳴り響く間、ひたすらにごめんと心底でつぶやきながら目をつぶり手を合わせ続けた。


 リビングに戻った俺は勧められるままに木製のテーブルに合わせて置いてある木製の椅子に腰をかけた。そこに女性がコーヒーを出す。

「砂糖2本とミルク2個だったよね」

 女性はスティック型の砂糖を2本と使い捨てのカップ式のミルクを2個手に持ってくる。

「はい、ありがとうございます」

「いいのよ。将大くん、あの子の命日覚えてくれていたのね」

 重たい空気が流れる。女性の声がその空気の中に深く沈み込むように俺に伝わってくる。

 なんて答えればいいのか分からず黙ってしまう。

「それよりお母さんはどうだったの?」

 女性は母のことを訊いてくる。

「母は……」

 そこまで言って言葉が出てこない。そして漸く紡げた言葉は飾り気も何も無い殺伐とした単語だった。

「亡くなりました」

「えっ……」

 女性の顔にやってしまったといった色が滲み出る。

「大丈夫ですよ」

「なんかごめんね……。いつ、なんて聞いたらダメだよね?」

「2年前の今日です」

 俺は悲しみをぎゅっと押し殺し淡々とした風に答える。

「えっ、織葉おりはと同じ日ってことは、あの後すぐに?」

 女性は目を丸くして問う。

「はい、2年前の今日。僕は織葉を死なせてしまいました。そして時を同じくして……母も。あのあとすぐに、母さんは……」

 心配をかけまいと必死に悲しみを、感情を殺しながら話すも、人間である俺に感情を殺しきり、悲しみを悟らせないなどといった芸当ができるわけもなく、涙をこぼしてしまった。

「そうだったんだ……」

 女性はうつむき呟く。俺は流した涙の分の水分を取り戻すかのように出されたコーヒーを口に含む。

 2年前、よく来て淹れてもらっていた味だ。ほんのり甘く、でも少し大人を感じられるような僅かな苦味。当時の映像が頭の中でフラッシュバックする。


『おばちゃーん』

 俺の声だ。まだどこか幼さが残っている。制服も白と青といった清楚な感じなものだ。公立森中中学校の指定制服だ。

『あら、また来たのね』

 今よりも少し若さの残る女性がにこやかな笑顔で俺にそう言う。

『せっかくだから織葉のおばちゃんの綺麗な顔でも拝んでおこうかなって思って!』

 俺はその女性を織葉のおばちゃんと呼び悪戯な笑顔を浮かべる。

『将ちゃん、私にはそんなこと言ってくれないくせに! 母さんにはそんなこと言うのね』

 綺麗に手入れされた長い黒髪を優雅になびかせている少女はそう言う。誰もがうっとりするような容姿だ。綺麗な黒目は取り込む光を反射するほど潤っている。筋の通った鼻に桜色のふっくらとした唇。白と青のセーラー服から伸びる細く、病的なまでに白い腕。群青色のスカートから伸びる細く白い脚に特徴的な黒のハイソックス。そんな少女、織葉の彼氏が俺だ。

『ふんっ。一番はお前に決まってんだろ、織葉』

『えへへ』

『こらっ。親の前でそんなこそばゆいことやめてよね』

 織葉のおばちゃんは困ったような顔を浮かべながらアイスコーヒーを淹れてくれる。

『あっ。砂糖2本とミルク2個ねー』

『はいはい。わかってるわよ』

 おばちゃんの声がすぐ間近から聞こえる。

『もしかして準備できてた?』

『何度も淹れてるからね』


 とめどなく溢れ出る涙が視界を歪める。

「ごめんね、辛いことあれこれ聞いちゃって」

 織葉のおばちゃんは困ったような顔を浮かべている。当時を思い出した今では視界が歪んでいたってかなり老けて見える。

「いえ……」

 涙声で答える。

「いま付き合ってる彼女さんは?」

 話題を変えるためなのか織葉のおばちゃんは早口で訊く。

 どう答えるか少し悩んでから「いません」と答えた。

「そっか」

 おばちゃんは残念そうな顔をして呟く。

「もし、もしね。織葉のことで彼女作らない、なんて思ってるならそれはやめてね。私も織葉だって辛いと思うから」

 2人の間に短い沈黙が訪れる。俺はケリをつけに来たつもりでいた。でも。それは全然的外れだった。おばさんはもう乗り越えていた。俺だけがまだ過去に生きていた。

 それが分かり、また涙がこみ上げる。

「おばさんは強いですね……。僕にはそんな強さ……ありません」

 ポタ、ポタ、と木製のテーブルの上に涙の雫が落ちる。落ちたところから色が濃くなる。

 織葉を思い、織葉を失ったおばさんを思う。どう考えたっておばさんが一番辛いに決まってる。それなのに……。

「泣かなくてもいいのよ。将大くんは、将大くんの思うまま強く、元気に生きてくれれば」

 おばさんの声にも涙が滲み始めた。

「はい……。僕、悩んでました。織葉のことは忘れられない。だから、他の人を好きになってはいけないって思ってた。でも、何故か気になる人ができてしまった。どうしたらいいのか、わかりません」

 おばさんは少しの沈黙を置いてから優しい口調で語った。

「それはね、だと思うわ。遠い昔からそんな気持ちになってないから、もう忘れちゃってるけど、でもそれは恋だと思うわ。いい、将大くん。恋は男を大きくするわ。織葉のことだって将大くんのせいじゃないんだから、ね」

 何も言えなかった。言うべき言葉が見当たらなかった。


 淹れてもらったコーヒーを飲み終えた俺は席を立った。いつの間にか雨は止んでいた。

 玄関に立った俺は深々と頭を下げ、お礼を言った。

「突然の訪問、すいませんでした。でも、おかげで色々と気づくことができました。ありがとうございました」

「いいのよ。将大くんは、将大くんの人生みちを歩んでね」

 おばさんは複雑な笑顔でそう告げた。

 これは多分、織葉に向けて言いたかった言葉なのだろう。咄嗟にそう悟った。

「はい」

「失ったモノは大き過ぎたかもしれないけど、その分成長できたと思って頑張って生きてね。織葉の分も……」

 最後の言葉はよく聞こえなかった。でも俺は短く「はい」と答えて竹中家を後にした。

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