第11話

モゴンティアクム郊外、ローマ街道付近。


モゴンティアクムの城門からは続々と兵士が吐き出され、周囲に展開し始めている。

 ローマ街道の警備も強化されており、検問もあちこちに設けられている。


「くっそ、街道はどこもかしこも兵士だらけだぜ」

「……追手も迫っています」


 クアルトゥスが森から、兵士の群れるローマ街道を遠望して悪態をつくと、ユリアーネは後方を気にしながら応じた。


「仕方ない、追手は気になるが森に戻ろう」


 クアルトゥスはそう言うと、森に戻るべく踵を返す。

 ユリアーネは無言で頷くと、クアルトゥスの背を追った。


「これからどうしますか?」


 森の中に再度分け入りながらユリアーネが問うと、クアルトゥスは忌々しげな口調で答える。


「こうなっちゃあ我慢比べだ……食い物も乏しいが、出来るだけ街道から離れよう」







 国境から離れれば警備も緩くなると踏んだクアルトゥスだったが、ローマ帝国の深部に行けば行くほど警備が強化されている様子がある。

 当てが外れた2人は、道無き道を進み続ける他無かった。

 獣道や村々を結ぶ間道を通り、時折開拓村や小さな植民町でクアルトゥスがローマ貨幣で食料を購いながら進む。

 また、ユリアーネが持参していた小型の弓で鳥や小獣を狩り、その肉を食べてしのぐ。


 今また、クアルトゥスがユリアーネの仕留めた鳩を腕によりを掛けて料理していた。

 羽をむしり、内臓を取り除いて頭を落とし、適度な大きさに肉を切り落とすと、ハーブと塩を詰め込んでから細い串で纏め上げ、表面にオリーブオイルを塗って焚火に掛ける。


 しばらくすると、香ばしい薫りが辺りに漂い始めた。


「ううう~っ」

「……おいお嬢、よだれが出そうだぞ」


 火加減を調整し、鳩を少しずつ回しながら焼くクアルトゥスが呆れ顔で言う。

 ユリアーネは一度腕で口元をぬぐうが、そのぎらぎらとした視線は焼き上がりつつある鳩から離さない。

 しばらくして、鳩肉の鳥肌はこんがりと焼き目のついた黄色に焼き上がった。


「……ほれ」

「ああっ!ありがとうございますぅ!」


 程よく焼けた鳩肉の串を差し出されたユリアーネは、それを飛びつかんばかりにして受け取ると、早速かぶりついた。

 熱く軟らかい肉を歯に感じ、その後オリーブオイルの辛味と香草の香りを伴った程よい塩味の肉汁がユリアーネの口の中に流れ込む。


「はぐはぐ……もぐもぐ」

「何かしゃべれよ」


 次の串を差し出しつつ、クアルトゥスが言うものの、ユリアーネは一心不乱に鳩肉の串焼きを頬張っているばかりで、それに応じようとはしない。


「まあ……美味いならそれでいいか」


 自分も串を口に運びつつ、よく利いた塩味と香草の香り、それから肉の旨味を楽しむクアルトゥス。

 しばらくして、鳩肉の串焼きは全て無くなった。

 主にそれがユリアーネの胃袋に消えたのは言うまでも無い。







 残り火に鍋を掛けて湯を沸かし、その湯に軽くハーブを摘んで入れた飲み物を楽しむクアルトゥスとユリアーネ。

 日は既に落ちており、クアルトゥスは穴を掘った場所に焚火を起こして周囲から見えにくくしてある。

 追手は迫っているものの、追手も地理不案内なローマ国内で難渋しているようだ。

 彼らも表向きはローマの敵であるゲルマン人はマルコマンニの戦士である。

 クアルトゥスら同様、街道に出るわけには行かないのだろう。

手元の木杯を傾けて中身を一口飲み下すと、ユリアーネは昼間から疑問に思っていることを口にした。


「でも、どうしてローマの開戦派とマルコマンニが手を組んだのでしょうか?ローマとゲルマニアを戦わせるという目的が一緒でも、目指す結果は違うと思うのですが……」


「どっちもローマとゲルマニアの分断が目的だ。まあ、ローマの開戦派にはゲルマニア属州を造りたい奴がいるだろうけどな」


 クアルトゥスのいうとおり、ローマの開戦派が目論んでいるのは、新たな属州の創設と支配領域の拡大だ。

 今の閉塞感を打破し、活気をローマ帝国に呼び戻そうというのだろうが、それにはゲルマニアから収奪される奴隷を始めとした各種の財貨が必要だ。

 翻って、マルコマンニにはローマ帝国から受け続ける文化侵略を打破したいという思惑がある。


ローマの法や貨幣、道具といった文明的な品々が、傭兵となったゲルマンの戦士やローマとの交易で得られ、そうした文物を介してローマの思想や精神性がゲルマニアに流入し続けている。

 凄まじい物量と先進性を誇るローマの文化攻勢に、ゲルマニアは圧倒され続けており、このままでは何れゲルマニアもローマのようになってしまう。

 そういう危機感を抱いた戦士達が、ローマとの戦いによる交流の決裂を企図しているのだ。


 目的は違えど、彼らの手段は同じ。


 すなわち戦争だ。


 マルコマンニは自分達に影響の少ないゲルマニアの一部、つまりは既にローマの文明に浸されてしまった地域を切り離し、ゲルマンの文化や野蛮さを伴った質実剛健性を維持すべく、ローマとの決別を願っている。

 それには、戦争で自分達の勢力圏を確立すると共に、惰弱なローマ文明に侵された地域を逆にはっきりローマの支配下に置く必要がある。

 なぜなら今のままでは、他ならぬゲルマン人を介してローマの文明がどんどんと奥地へ広がっていくからだ。


 ここで一度、ローマとゲルマニアの間ではっきりとした線引きをしたいのだろう。

 一方のローマの開戦派は、新たな地域の獲得により、その地の財貨を得てローマ帝国に流入させ、更にはその属州に対する投資を呼び込むことで経済の活性化を狙っている。

 果たして投資が呼び込めるか、ローマの資産家の思惑がどこまで絡んでいるか分からないので、上手くいくかは微妙なところだが、クアルトゥスは見込みはあると踏んでいる。


「都市や街道、港湾設備の整備に金が動くだけでも、相当なものになるだろう」

「……マルコマンニは、ローマ国境付近の所属を巻き込んでおきながら、彼らをローマに差し出す腹なのですか?」


 クアルトゥスの言葉に、ユリアーネは感情を押し殺した声で言う。

 クアルトゥスはそれを聞き、少し考えてから言葉を発した。


「まあ、実際はどうか分からない。本気でローマとコトを構えるのなら、開戦派と繋がる理由は無いからな。適度なところで戦いを終わらせるつもりがあるのは間違い無いだろうなあ」

「……酷すぎます」


 マルコマンニは自分達の誇りと文化を守るために、他のゲルマン部族をローマへ差しだそうとしている。


「まあ、そうだな。だが、大きな思惑をたった2人で阻止しようって言うんだ、なかなか難しいのは事実だ……明日も早朝から動こう、お嬢は休んでくれ」


 クアルトゥスはそう言うと焚火を小さくする。


「はい……」


 ここ最近の強行軍で疲労も頂点に達している。

 ユリアーネは素直に従い、木の根元に背をもたれかけさせた。

 しばらくして健やかな寝息が聞こえて来ると、クアルトゥスはふっと笑みを浮かべてその様子を確かめてつぶやく。


「……マルコマンニは、ひょっとしたら別の考えを持っているかも知れんがな」


クアルトゥスは荷物からマントを取り出し、そっと眠るユリアーネに掛ける。

 それから周囲の警戒をするべく、気配を探りつつその場を離れるのだった。






 翌朝、未だ暗い内からユリアーネはクアルトゥスに揺り動かされた。


「……クアルさん?」

「……様子がおかしい」


 それだけ言うと、クアルトゥスは剣を抜いた。

 慌ててユリアーネが起き上がって身支度を調えたところへ、狙ったように矢が飛来した。


「くっそ!」


 習慣で盾を探したクアルトゥスだったが、思い装備は農場へ放棄してきたことを思い出し、剣の腹で矢を弾く。


「街道へ出るぞ!」


 ここで仕掛けてくるのはマルコマンニの戦士に違いない、そう判断したクアルトゥスは街道を目指すことにし、ユリアーネを先行させる。

 飛来する矢を躱しながら森を駆け抜ける2人。

 その後方からマルコマンニの戦士達が殺気を押し殺し、物音を立てないように迫る。


「もう少しだ!」

「はい!」


 肩口に飛来した矢を剣で切り飛ばし、クアルトゥスが叫び、ユリアーネが応じる。

 森を抜け、ローマ街道が見えたところで、クアルトゥスは天を仰いだ。


「くそ……こういう事かよ」

「クアルさん……」


 ユリアーネが立ち止まった横に立つクアルトゥスの前には、グラニウス率いる国境守備の軍団兵が戦列を敷いて待ち構えていた。

 後方からはマルコマンニの戦士達が、薄ら笑いを浮かべたバルドーゥイを先頭にして現れる。


「待っていましたぞ」

「……こっちは待っちゃいないんだが?」


 グラニウスの言葉に皮肉げに言い返すクアルトゥス。

 身構えたクアルトゥスを見て、グラニウスは表情を変えずに命令を発した。


「捕らえろ!」

「オット……コイツらのミガラハおれたちガモラウ」


 しかし、バルドーゥイがその命令を遮った。


「勝手なことを言うな、クアルトゥス・シアヌスは反逆行為でローマ帝国が裁く」

「……ソノフタリは、ゲルマニアのウラギリものだ。ワレラガしょけいスル」


 バルドーゥイの言葉を聞いたグラニウスが、忌々しげに吐き捨てるが、バルドーゥイはにたにたといやらしい笑みを浮かべて言い返した。

 暫しにらみ合う2人。

 配下の戦士と兵士も緊張を高め、殺気が満ちる。

 クアルトゥスはあわよくばこのまま戦いになってくれることを祈る。

 そうすれば隙を突いて逃げることも可能だろう。

 そっとユリアーネの手を引き、自分の後ろへと庇うクアルトゥスに、ユリアーネが驚きつつも嬉しそうに従う。

 しかし、そこでグラニウスが手を上げてバルドーゥイの動きを制した。 


「ではそのゲルマン人の女を連れて行け。こっちはシアヌスを逮捕する」

「ふん、ヨカロウ」


グラニウスとバルドーゥイが妥協点を探り出してしまったことに、クアルトゥスは冷や汗を流す。

 このままクアルトゥスとユリアーネが別の勢力に連れ去られてしまえば、万事休すだ。


 2人が一緒に訴え出なければ、ローマの開戦派による独断専行と、マルコマンニの反ローマ蜂起の信憑性が薄れてしまう。

 クアルトゥスが開戦派の動きを知らせ、ユリアーネが書状を渡すという手順は変えられない。

 ユリアーネが書状を持って出なければ、マルコマンニの動きに信憑性が無い。

 クアルトゥスがいなければ、開戦派の動きを説明できないばかりか、そもそもユリアーネは訴え出る場所や人物が分からない。

 1人だけが脱出に成功したとしても、片方の動きに信憑性が無くなるため、無意味なのである。


「クアルトゥス・シアヌス、大人しくしてもらおう」

「グラニウス、パルティア戦線は辛かったなあ……」


 兵を率いて近付いてくるグラニウスに、クアルトゥスは努めて平静に話しかける。

 クアルトゥスの言葉を聞き、グラニウスは歩みを止めることなく、しかし顔を歪めて言った。


「その話は……今は関係ありません」

「まあ聞けよグラニウス、マルコマンニもパルティアと同じだぞ?詐術に掛かって泥沼に引きずり込まれるだけだ」


その言葉にグラニウスが足を止めた。

 そして厳しい顔付き特徴で問い質す。


「それは……どう言う意味ですかっ」


 ユリアーネを捕まえようとしていたバルドーゥイも、その言葉を聞いてぎょっとして足を止める。

 そしてそれまでの薄ら笑いを引っ込め、強い口調で言う。


「……ぐらにうす、クルシマギレのタワゴトだ。キキナガせ!」

「果たしてそうかな?バルドーゥイ、お前、ローマの開戦派を欺すつもりだろう?100年前のトイトブルクの森の戦いのようにな!」


 クアルトゥスの時代から約100年前、時のローマ皇帝アウグストゥスの進めたゲルマニア征服事業。

 それに反発したゲルマン人諸部族は、ローマのゲルマニアを総督ヴァルスに最奥部の部族が反乱を起こしたと偽の情報を流したのだ。

 ヴァルスは味方と信じていたゲルマン部族に道案内をさせ、ゲルマニアの薄暗く深い森の中へローマの最精鋭軍団を率いて進んだが、大木の生い茂る沼沢地へ誘い込まれる。

 気付いた時には道案内のゲルマン戦士は全て消えており、ヴァルスの軍は包囲されていたのだ。

 ヴァルスは敗戦を悟って自決し、残されたローマ軍団は優先したものの衆寡敵せず、またゲリラ戦を仕掛けるゲルマン所属の戦士達に翻弄され、全滅した。


「ダマレ!」


その故事をクアルトゥスに持ち出され、激高するバルドーゥイ。

 クアルトゥスはバルドーゥイの激烈とも言うべきその反応で、自分の考えが正しかったことを確信した。


「クアルさん?」

「ユリアーネ……マルコマンニは2重に欺していたんだ。ローマの開戦派に領土を割譲するからとゲルマニアに攻め込ませ、その後不意を討つつもりだったんだ……それこそゲルマンの英雄、アルミニウスのように」


わざとグラニウスにも聞こえるように説明するクアルトゥス。

 それが真実であることは、バルドーゥイの態度を見れば明らかだ。


「……バルドーゥイ、2人の身柄はこちらで預かる」

「キサマ、ここでウラギルノカ?」


 静かに発せられたグラニウスの言葉に、バルドーゥイは歯ぎしりしながら反発する。


「それはそっくりそのままお前に返そう、薄汚い裏切り者の蛮族め」


 グラニウスの言葉を聞いたバルドーゥイが剣を抜き放ち、ユリアーネ目掛けて飛びかかるのを、クアルトゥスがとっさに剣を掲げて受け止めた。

 鋭い金属音が響く。


「キサマ!」

「動きが雑だぜっ」


 クアルトゥスから足蹴りを腹に受けて飛び退ったバルドーゥイが忌々しげに言うと、グラニウスが兵達に命じた。


「密入国の蛮族を討ち取れ」

「はっ!」


 大盾を構えた軍団兵が、マルコマンニの戦士達にその正面を向ける。

 マルコマンニの戦士達は、バルドーゥイが飛びかかったと同時に相次いで剣を抜いており、すぐに激しい戦闘が開始された。


「お嬢!こっちだ」

「は、はいっ!」

「待てっ、クアルトゥス!」


 ユリアーネを促し駆け出すクアルトゥスに、焦ったグラニウスが制止の言葉を掛けるが、クアルトゥスは綺麗にそれを無視してローマ街道へと向かう。








「な、何だ?」


 しばらく走り続け、ようやく街道に達しようとした時。

 クアルトゥスは思わず驚きの声を上げた。

 それというのも、剣を鞘に収めて走るクアルトゥスの眼前、ローマ街道上に黒ずくめの騎乗の軍団兵が隊列を組んで現れたからだ。

 鎧兜は豪華の一言に尽き、全員が紫色のマントを身に付けている。


「クアルさん?」

「ま、まさか……」


 驚くクアルトゥスを余所に、軍団兵の隊列を割り、騎乗して現れたのは……


「クアルトゥス・シアヌス、パルティア戦役以来か、久しいな」


 その言葉を受け、クアルトゥスは慌ててユリアーネの手を引いて跪かせた。


「ハドリアヌス様、このような所まで……先触れも無しでございますか?」

「うむ、自らの足でローマ帝国を巡り、緩んだたがを締め直すのがわしの仕事ゆえにな。先触れなど出しては生の姿が見れぬ」


 現れたのは豪華な紫の衣服に、周囲の軍団兵より更に豪奢な鎧と兜を身に付けた、時の皇帝プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス、いわゆるハドリアヌス帝であった。


「……危険ではございませんか?」

「何の、ローマの方が危険というものだ。元気な内はどこへでも行くぞ!」


 ハドリアヌスは跪くクアルトゥスの様子に目を細めて言葉を継ぐ。


「国境防壁リーメスの視察に参ったのだ、このままブリタニアまで行くつもりだが……クアルトゥスよ、その方は既に退役したのでは無かったか?」

「はっ、農場を貰い受けまして」

「そうか、お主ほどの勇士が惜しいことよ。何なら復帰せぬか?今丁度ゲルマニアの案内役が欲しいところなのだ……ところで横の娘は何だ?」


 ハドリアヌスが訝しげに問うと、はっと顔を上げたユリアーネが声を上げる。


「妻です!」

「ああっ?」


 その言葉を聞いて思わず顔を上げて素っ頓狂な声を上げるクアルトゥス。

 ハドリアヌスが目を丸くし、近衛兵が互いの顔を見合わせる。

 しかし、真剣な様子のユリアーネを見て、遂に耐えかねたのかハドリアヌスは笑声を上げ、釣られてこの兵達も笑う。


「わははははは、いや、クアルトゥスよ、大したものだ!随分と若い妻を迎えたのだな!しかもゲルマン人か」

「い、いやこれはちがっ!?」

「いやいや、照れることは無い。意気盛んなのは良いことだ……ん?」


 ハドリアヌスは、突然そこで言葉を切った。

 どうやらこの先で行われている戦闘に気付いたようだ。

 どれと同時に近衛兵達に緊張が走る。


「……あれは何だ?」

「陛下、おさがり下さい」


 ハドリアヌスの言葉に反応し、近衛兵達がハドリアヌスの周囲に壁を作る。

 クアルトゥスが警戒して振り返れば、マルコマンニの戦士達は元々が少数であった上に、クアルトゥスらを見張りつつ追ってきたため体力を失っており、次々と討たれている様子が目に入ってきた。

 その中の1人、血まみれになったバルドーゥイが、血走った目を見開き、クアルトゥスとユリアーネ目掛けて走り込んできた。


『死ねええええええ!』


 剣を抜いたクアルトゥスに反応するかのように、大きく剣を振り下ろす。

 クアルトゥスはバルドーゥイの剣を真っ向から打ち返し、驚いて目を見開いているバルドーゥイの腹に剣を突き込んだ。

 真っ赤な血を吐き、信じられないものを見るような目でクアルトゥスを見るバルドーゥイがゆっくり前のめりに倒れる。


 それを静かに見守り、マルコマンニの戦士長が事切れたことを確認してから、クアルトゥスは剣を横に置いて近衛兵にしっかりと守られたハドリアヌスに向き直った。


「お目を汚して申し訳ありませぬ」

「良い……相変わらずの剛剣だな。しかし、何事か?」


 バルドーゥイを追跡してきたグラニウス率いる国境守備の軍団兵を遠望し、ハドリアヌスが問うと、クアルトゥスはユリアーネを手招いてから口を開く。


「陛下……実は……」










急遽張られた皇帝用の豪華な天幕の中。

 ハドリアヌスは力強く頷く。


「事情は分かった……すぐにでも対処しようぞ」

「ありがとうございます」


 クアルトゥスの説明を聞き、またユリアーネからの書状を受け取って読み下したハドリアヌスは、即座にそう返答する。

 元々国境警備の緩みや士気の弛緩を問題視していたこともある。

 内々にだが、一部の軍団に怪しげな動きがある事も既に把握していた。

 そこにクアルトゥスとユリアーネが決定的な情報をもたらしたのである。

 ハドリアヌスは拡大し過ぎたローマ帝国の領土をもう一度効果的に統治するべく、領内の各政治機関の再編と効率化を進め、そして手に負えない領土は放棄した。


 決断力に富み、政治的な感覚が人並み外れて鋭い彼は、クアルトゥスの持ち込んだ情報を元に全ての元凶と問題点を把握したのである。

 そして、ゲルマニア国境の警備ついて大幅に整備し直すことにしたのだ。


「国境リーメスの再整備は急務だ。拡大しすぎた領土部分があるのであれば、確実に放棄せねばならぬ。その為にも精強で忠実な軍が必要だ」

「よろしくお願い致します」


 自分の言葉に再度礼を述べるクアルトゥスに、ハドリアヌスは笑み浮かべて言う。


「しかし、クアルトゥス。お主がおらねばゲルマニア国境で未曾有の大混乱が起こるところであった。感謝する……そしてこれは形ばかりのその印だ」


 ハドリアヌスは用意させた金袋を手ずからクアルトゥスに与える。


「妻共々良き人生を歩むが良い」

「ありがとうございます!」


 クアルトゥスが間違いを正そうと口を開くより先に、ユリアーネが大きな声で礼を言うと、ハドリアヌスは相好を崩した。


「うむ、末永く仲良くな!」











 ハドリアヌスの天幕から出たクアルトゥスは、苦虫をかみ潰したような顔で横を嬉しそうに歩くユリアーネに問う。


「お嬢……一体どういうことだよ」

「え?」

「え、じゃねえよ!妻だ何だって話は、マルコマンニをごまかすための詭弁だろ!?よりにもよって皇帝陛下の前で妻宣言しやがってっ」


 額に青筋を立てて怒るクアルトゥスを余所に、ユリアーネは涼しい顔で答える。


「良いじゃ無いですか、こんな若いピッチピチのゲルマン娘を貰えるんですよ?」

「……そういう事を言ってるんじゃないんだよ」


 困り顔のクアルトゥス。

 曲がり形にもローマ皇帝の前で妻であると宣言され、それを否定しきれなかったのだ。

 このままユリアーネを返してしまっては、皇帝に嘘をついたことになってしまう。

 1年か2年面倒を見るか?

 それとも……

 思い悩むクアルトゥスを余所に、ユリアーネが弾む声で言う。 


「それにしても、クアルさんもあんな話し方出来るんですね?皇帝陛下とお話ししている時は別人のようでしたよっ」

「ああ、まあな」

「それに……あのバルドーゥイを一太刀で倒すなんて!凄すぎます!」


 生返事を返すクアルトゥスに、更にユリアーネが言葉を重ねる。


「惚れ直しちゃいました!絶対お嫁さんにして下さいね!」

「……勘弁してくれ」

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引退百人隊長奮闘記 あかつき @akiakatuki

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