第10話

周囲を警戒しつつ進むクアルトゥスとユリアーネだったが、一番恐れていたマルコマンニ戦士団による襲撃はないまま、ローマとの国境にまで到着することが出来た。


「ここまでは前と同じ道筋です」


 ユリアーネの案内は間違い無く、2人を最短距離でローマ・ゲルマニア国境まで導いた。

 前回彼女を追った戦士達は、ローマに囚われているためにこの道を知る者はいない。

 とはいえ、ここまでの道行きは順調すぎる。


「襲撃も追跡も無い……おかしいな」

「はい、それは私も考えていました」


 いかにマルコマンニ族がこのあたりの地理に暗いとはいえ、あのしつこそうなバルドーゥイが全く追手を放ってこないのは解せない。

 それに、ファシナには内通者もいるはずだ。

 その内通者がユリアーネの出発に合わせて直接案内することは、自分の素性を明かしてしまうことになるから行わないにしても、道ぐらい聞くことは出来る。

 しかし追手は無かった。


「まあここで考えていても仕方ないな。さっさと国境を越えてしまおう」

「はい」


 クアルトゥスの言葉に素直に頷くユリアーネ。

 いずれにしても今気にしなければならないのは、正面の国境リーメスを守るローマ軍だ。

 国境警備の長城に設けられた監視塔や城門を避け、森の中へと潜り込む2人。


 クアルトゥスは熟練退役兵ヴェテラニーの召集を無視してしまっているし、ユリアーネはそもそも密入国者だ。

 それでも今はファシナの正式な使者となっている2人。

 しかしながらゲルマニアの国境付近は開戦派のローマ軍がおり、またマルコマンニの傭兵も多い。

 誰にどの様な勢力の息が掛かっているか分からないゲルマニア国境は、クアルトゥスとユリアーネにとっては正に鬼門なのだ。


「モゴンティアクムに行って訴え出るのでは、ちょっとやばいかもしれん、その先のアウグスタ・トレウェロームまで行くぞ」

「……はい」


 クアルトゥスの提案に素直に頷くユリアーネ。

 最前線に近いモゴンティアクム市は、総督共々開戦派が多数いる様子が見受けられる。

 おそらく開戦派の牙城とも言うべき場所であろう。

 それは、クアルトゥスらがゲルマニアへ行く決心をした直前に、守備隊長のグラニウスが漏らしていた言葉からも分かっていることだ。

 それならば別の場所の総督に訴え出るしか無い。

 アウグスタ・トレウェローム市はかつて最前線だったが、ローマ帝国の領域が広がったことで内陸化した植民都市である。

 軍は市民から募った都市警備隊以外駐屯しておらず、軍の影響は少ないはずだ。

 しかしそこへ行くには開戦派の監視する国境に近い属州の街道を行くしか無く、手配が掛かっているかも知れないクアルトゥスやユリアーネにとっては非常に危険なのは言うまでも無い。

 特にクアルトゥスは退役したとは言え有名人。

 彼の顔を知っている軍団兵も少なくない。


「仕方ないな……危ないが、俺の農場へ直接出るか」

「えっ、ここから少し距離がありませんか?どうやって国境を破るのですか?」


 クアルトゥスの言葉を聞いて、ユリアーネが訝る。

 しかしその反応は織り込み済みだったのか、クアルトゥスは笑みを浮かべると森の更に中へと進んだ。

 そしてある場所に到着すると、岩陰に置いてあった筏を引きずり出す。


「これは……何ですか?」

「筏だ」


 ロバから荷物を下ろしつつ、素っ気なく答えるクアルトゥス。


「それは見れば分かります……いえ、そういう事を聞いているのでは無く……」


 言い募ろうとするユリアーネを制し、クアルトゥスは言葉を継いだ。


「ああ、お嬢の言いたいことは分かってる。この筏は俺が作った物だ。薪や木の実を採取するのにちょくちょく国境を越える必要があってね……余裕のある時に作って、この辺りにいくつか置いてある」


そう言いつつ筏を小川に浮かべ、その上に乗ったクアルトゥスはユリアーネに手を差し出した。


「薪の採取時に使っている物だ。重いからな」


 ユリアーネは呆れつつも笑みを浮かべてその手を取る。


「クアルさんに掛かってはローマが誇る鉄壁の国境警備も形無しですね?」

「生活に必要だったんだ……この程度の国境破りは必要悪さ」






クアルトゥスの普段からの悪事のお陰で無事国境を越えた2人は、そのままクアルトゥスの農場の近くの小川のほとりへと到着した。


「……こりゃひでえな」

「酷いですっ」


 クアルトゥスが嘆息し、ユリアーネが憤慨したのは、クアルトゥスの農場の有様。

 元の監視塔だった建物の扉は撃ち破られ、倉庫や家畜小屋も全て打ち壊されている。

 もちろん、せっかくクアルトゥスが育てていた家畜は1頭も残っていない。

 麦畑は乱暴に踏み荒らされ、果樹園の木々は枝葉が乱暴に切り払われている。

 油断無く周囲の様子を窺いながら、建物の中を検めるクアルトゥスとユリアーネ。

 クアルトゥスが寝泊まりしていた館の中は、ぐちゃぐちゃに荒らされていた。

 元々金目の物は何も無い。


 しかし、家捜しをしたわりには様子がおかしい。


 クアルトゥスの残り少ない退職金の入った壺は無事で残されているし、衣服や家財道具も壊されている以外はそのままであるからだ。

 そして、荒らされ方に特徴がある。


「やり方が大胆だな……泥棒、じゃあなさそうだな、軍か?」

「……書庫や箪笥が重点的に狙われていますね」


 小型の破城槌を使ったかのような破壊跡。

 ユリアーネが言うとおり、書庫や箪笥、書棚が重点的に、そして念入りに荒らされた跡。

 これの意味するところは……


「まずいっ、お嬢!すぐにここを出るぞ!」

「えっ?」


 驚くユリアーネを余所にクアルトゥスは付近にあった麺麭や乾果物を乱雑に背嚢へ入れると、焦りの滲み出た顔で言った。


「既におれたちがローマへ向かった情報が開戦派の者達に漏れている!」

「そ、そんなっ……!」


 驚きを隠せないユリアーネに、クアルトゥスは鎧櫃を部屋の隅に押しやり、舌打ちをしつつ言葉を継ぐ。


「どう言う絡繰りか知らんが、マルコマンニと開戦派が繋がっている可能性を考慮せざるを得ん……追手は無かったんじゃない、必要なかったんだ」


 つまりは、開戦派とマルコマンニの動きは連動しており、ファシナの内通者を経てマルコマンニ側に漏れた情報は、既にローマの開戦派に流れていたのである。

 クアルトゥスの農場を襲ったのは開戦派のローマ軍で、クアルトゥス達の到着が遅れているとは考えずに、逆に既に農場を発ったと考え、痕跡や手掛かりを探そうと荒したのだろう。


 それがクアルトゥスらに幸いした。


「おれたちが慎重に進んだせいで、ここを襲うタイミングがずれたんだろう」


 そこまで言って扉へ向かって足早に踵を返したクアルトゥス。

 しかしその一瞬後、ユリアーネの手を取って反対の裏口へと走った。


「く、クアルさんっ!?」

「グラニウスの野郎だ、兵を率いて来やがった……おれたちが遅れていたことに気付いたと見える」


 そして、そのまま一気に裏手の果樹園を走り抜ける2人。

そのままクアルトゥスは森の中へと入り込んだ。







 クアルトゥスの農場に到着したグラニウスは、すぐにその異変に気付く。


 小川の岸辺に見たことの無い筏が引き上げられており、破砕したはずの建物の扉が戸口に立てかけられていたからだ。


「……静かに近づけ、手配者がいるかもしれん」

「はっ」


静かに配下の兵達に命じるグラニウス。

 兵達は大盾を前面に構え、クアルトゥスの館目指して慎重に歩み始める。

グラニウスは傍らに立つ、フード付きのマントをすっぽり頭から被った人影に顔を向けて文句を言った。


「情報の精度が悪いな」

「おれタチもアイツラがこんなにオソクくるとオモワナカッタ」


 そう言いつつフードを取る人物。

 現れたのは、マルコマンニの戦士長、バルドーゥイの顔。

それを見たグラニウスは皮肉げに口を歪めて言う。


「バルドーゥイ殿、我らはあくまで利害関係が一致してこその協力。そこのところを忘れて貰っては困る」

「……フン、ジリキでヤツらをトメラレナカッタくせニ、ヨクマワルクチだ」


皮肉に皮肉の言葉を返すバルドーゥイへ、グラニウスが更に文句を言いたそうとした時、館へ兵士達が入っていく様子が視界に入る。

 そこでグラニウスは一旦バルドーゥイとの会話を打ち切ることにした。


「……まあ良い。今後もほどよい関係でありたいものだ」

「フン」





「隊長!鎧櫃が放棄されています!」

「周囲を調べた様子がありました!」


 先行して館へ入った兵士達から報告が相次いで上がると、グラニウスはゆっくりと問いを発する。


「……ホコリはどうだ?積もっているか?」

「いえ、全く……物を触った跡も真新しいものばかりです!」


 それを聞いたグラニウスは、館に入るとクアルトゥスが麺麭や乾し果物を持っていった戸棚を検分している兵士の元へと近付く。

 そして、その兵士が指さす大きな手の跡を見て言った。


「すぐに追跡準備に掛かれ、また各都市や町、村にクアルトゥスに関する触れを出せ」

「はっ!」


 このような辺鄙な、しかも荒らされた後のある農場に立ち寄る人間などいない。

 クアルトゥス・シアヌスと言う、この農場の持ち主以外は、である。

 間違い無い。

 ついさっきまでクアルトゥス・シアヌスはこの場にいたのだ。

 勇猛なる歴戦の百人隊長が敵となったこの瞬間、グラニウスは皮肉げに口を歪めた。


「……命を救ってもらった上官が、今やお尋ね者か。世の中分からん」


 あの時とても手が届くと思わなかった英雄が、自分の手の中に墜ちてきた。

 しかし、今この時から彼の英雄の跡を追うのは自分達には荷が勝ち過ぎる。

 重装備のまま道無き道を行き、藪や森を抜け、川や湖、山を越えるのは不可能だ。


 それでも、この横にいる一時も油断のならない蛮族に頼るのも考え物だ。

グラニウスが思案を巡らせていると、その内心を知ってか知らずしてか、バルドーゥイは後方にいる自分の配下の戦士達に向かって顎をしゃくる。

 その合図を受けたマルコマンニの勇猛な戦士達がバルドーゥイの近くに集まった。


「勝手な真似は困る」

「ナニ、スコシばかり、てツダッテやるダケだ」


グラニウスの抗議を気にした様子もなく、バルドーゥイはそううそぶくと、背後の戦士達に命じる。


『追え、生死は問わん』

『承知致しました』


 戦士達が森の中へ分け入っていくのを見送り、グラニウスはバルドーゥイに言う。


「殺して貰っては困るぞ?」

「フン、ソノヨウナことはハヤクいうべきだナ」


 素っ気なく応じると、バルドーゥイは後方へと下がる。

 その後ろ姿を見送ったグラニウスは忌々しげに吐き捨てた。


「ちっ、クソッタレの蛮族め!生意気な口を利きやがる」

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