第9話

マルコマンニの戦士達が去った後、手酷く痛めつけられてしまったクアルトゥスは、真っ赤な顔のユリアーネから治療を受けつつ、長老達に書状の作成を流ちょうなゲルマン語で依頼した。


『とびっきり良い文章のやつを頼みたい』

『確かに書状があればローマも我らの意思を無視できぬじゃろうが……その様な物を作成してしまっては、マルコマンニの連中に付け狙われやせんかいのう?』


 そういいつつ周囲を見回す長老。

 その行為が意味するのは、このファシナ氏族の中にもマルコマンニに同調している者がいると言うことだろう。

 血気盛んな戦士の中にはそれを公言してはばからない者もおり、今回タイミング良くマルコマンニの戦士団がやって来たのも内通者がいたに他ならない。

 長老が書状を作成してクアルトゥスかユリアーネに手渡せば、まず間違い無くその情報はマルコマンニに、もっと言えばバルドーゥイに漏れる。

しかしクアルトゥスはユリアーネの手で手布を肩に巻かれながら言った。


『それは逆だ。マルコマンニの奴らに書状と言う形の反ゲルマンの証拠さえ奪えれば、ファシナを従えさせられると思わせるのが目的なんだ』

『何だと?』


 訝るユリアーネの兄、ディールクにクアルトゥスは不敵な笑みを向けて言葉を継ぐ。


『そうすれば奴らこの村に用は無くなる……マルコマンニの目は書状を持つ俺だけに向けられることになるからな。村の安全は保証される』

『でもそれじゃあお前が危ない目に遭うだろうっ、奴らの追撃は執拗だぞ?』

『それはもちろん知ってるさ。だがローマ領内に入ればこっちの勝ちだ。いかにマルコマンニといえども自由に動きは取れない』


 クアルトゥスの言葉に反発するディールクだったが、その後の説明を聞いて黙り込む。

 確かに、他ならぬゲルマニアへの出兵前で警備の厳しくなっているローマ領内まで逃げ切れば、クアルトゥスの勝ちだ。

 後は然るべき高位者に書状を手渡せば事は終わる。

 油断はするべきで無いが、ローマ領内というゴールが決まっているクアルトゥスの方が、追ってくるマルコマンニの戦士達より有利だろう。

 彼らはクアルトゥスがどの道や場所を通るか分からない以上、待ち伏せは出来ない。


 それに、書状の作成を出発直前まで隠すことが出来れば、バルドゥーイの元に情報が届く頃にはクアルトゥスは村を出てしまうことが可能だ。

 女のユリアーネが同行するとは言え、彼女も旅慣れたゲルマンの娘だ。

 追手を振り切ることは不可能ではない。

 思案する長老とディールクに、クアルトゥスは赤い顔で傍らに佇むユリアーネをちらりと見てから説明を重ねた。


『どうしてそうなったかは大体理解したが……疑いを掛けられた夫婦がローマへ脱出を試みたことにすれば、村の責任は問われないだろう?それに書状の存在が明らかになったとしても、内容までは分かるまい。詰問されれば、ローマ領内にいる親戚への手紙か紹介状だと言い張れば良い。証拠がないままでそれ以上の追及は無理だからな』


 尤も、その説明をマルコマンニが納得するかどうかは別だ。

 恐らく疑い深いバルドゥーイならば、中身を確かめないで納得することはないとクアルトゥスは踏んでいた。

 バルドーゥイは、必ずクアルトゥスとユリアーネの身柄と書状を押さえた上で、ファシナに対して強圧的な態度で従属を要求するだろう。

 しかし、それはあくまでもクアルトゥスとユリアーネが捕縛されればの話だ。


『よし、分かったわい……早速にでも書状を作成することにしようぞ!』

『急いでくれ、こちらも準備を急ぐ』


 長老の言葉に頷きつつ、クアルトゥスが言うと、ユリアーネが心配そうに言う。


『クアルさんは怪我をしていますから、少なくとも3日4日は休みませんと……』

『確かに身体の調子は十分とは言えないが、それはあのいけ好かない戦士長も分かっているだろう?』


 ユリアーネの発した危惧の言葉に、クアルトゥスは布を巻いて貰ったばかりの肩を無理矢理動かしながら答えた。

 マルコマンニへの連行を考えていたせいか、計算して痛めつけられたようで、クアルトゥスには幸いにも骨折などを伴うような酷い怪我はない。

しかし、本調子からほど遠いこともまた間違い無かった。

 マルコマンニの監視の目がある事が予想される表の街道は使えない以上、間道や杣道を抜けていく他ないのだが、それにはクアルトゥスの怪我が足枷となる。


『馬は使えぬな……目立ちすぎるし、山岳の間道を通り抜けられぬからのう』

『怪我をしていれば体力も消耗するからな』


 長老とディールクの言葉に、ユリアーネは力強く頷いて応じた。


『それは大丈夫です……クアルさんの怪我が良くなれば問題ありません』


 実際、クアルトゥスと出会った時に、ユリアーネはマルコマンニの屈強な戦士達の監視の目をかいくぐって、ローマ帝国領内まで入り込んでいる。


『この地方に私の知らない場所はありませんから!』

『期待しているぞ、お嬢』


 肩を回すのを止めたクアルトゥスの言葉に、ユリアーネは顔を再び赤くして頷くのだった。









 馬には乗っては行けないが、荷運び用のロバを1頭与えられることになったユリアーネとクアルトゥス。


『お、おい、お嬢。俺も手伝うぞ?』

『クアルさんは怪我をしているのですからゆっくり休んで、少しでも早く体調と体力を回復させて下さい。荷運びには兄を使いますので、ご心配なく』


 そう言ってユリアーネは戸惑うクアルトゥスを自分の家に押し込み、代わって長兄のディールクを引っ張り出した。


『まあ、そういう事だ。何かあったら我が弟たち、ああ、お前の義兄たちに言うがいい』


 ディールクは頭陀袋を担ぎ、クアルトゥスへ男臭い笑みを向けて言うと、クアルトゥスの後方、家の中に控えている2人の弟たちを目で示す。

 そこには、ディールク同様クアルトゥスに敗退したユリアーネの兄たち2人が、やはり男臭い笑みを浮かべて待ち構えていた。


『何が義弟だ気持ち悪い!第一俺の方が大分年上だぞ!?』

『まあ、そう嫌がるな。お前がユリアーネの婿になるんだったら、間違い無く俺達の義理の弟になるんだ。義兄達と仲良くしといてくれよ』


 その言葉で振り返ったクアルトゥスだったが、次の瞬間、冷や汗を垂らしながらディールクを見る。


『おい、それはマルコマンニの連中に対する方便だろう?』

『ゲルマン人は嘘をつかないぞ』


 真顔で言ってのけたディールクに、クアルトゥスが堪忍袋の緒を切った。


『ああっ?ふざけるな!』


 彼の言わんとしているところを察し、ディールクは素早く頭陀袋を持っていない方の手を上げて、クアルトゥスが自分達の家から出ようとするの妨げた。

 そしてその隙に2人のユリアーネの兄たちが、すっと背後からクアルトゥスに近付いて声を掛け、その肩にそれぞれが手を掛ける。


『ふふふ、あの戦いの反省がしたいと思っていたところだったのだあ!』

『今夜は寝かさないぜ!義弟よ!』

『あっ、何しやがるっ!?俺はけが人だぞっ!触るんじゃねえ!』


 クアルトゥスの抗議と振り解きも何のその、その両脇をがっちりと、しかしそこはかとなく優しく抱えたユリアーネの次兄と三兄。

不気味な笑みと共にクアルトゥスは家の奥へと連行され、扉が閉まった。

 それを見送ったユリアーネはため息をつく。


『どうした我が妹よ?』

『いえ、ありがとうございますディールク兄さん』


 ああでもしなければ、クアルトゥスはまともに休もうとしないだろう。

 それを分かっての兄たちの行動に、ユリアーネは感謝の言葉を述べる。


『後であの2人にも礼を言ってやってくれれば良い。それで十分報われるだろ』

『はい』







ユリアーネ達は村から保存用の固焼麺麭かたやきぱんや干し肉、干し果実などの保存の利く食料を分け与えられた。

 また、水袋に井戸から汲んだ新鮮な水をめい一杯詰め込み、毛布や替えの衣服、小刀や縄、紐、火打石や燃え種などを小さな袋に詰めて荷造りを進める。

ユリアーネが与えられたロバを、荷物を持ったディールクと共に引いて帰宅すると、家の中では笑い声が弾けていた。

 思わず顔を見合わせるディールクとユリアーネ。

 それというのも、声は明らかに次兄と三兄のものだけでは無かったからだ。


『……随分と好かれてしまったみたいですね』

『人気があるってのは良いことだ、それがたとえ異邦人でもな』


 ユリアーネが家の戸を開けながら自然に微笑みを浮かべて言った言葉に、ディールクもロバを玄関先につなぎつつ、同じような笑みを浮かべて応じる。

 出発はひっそりとしなければならないので、見送りは無しだ。

 これから数日間は、別れを惜しんだお客がひっきりなしに訪ねて来ることだろう。

 クアルトゥスが村人達に受け入れられていることを見て取り、ユリアーネはほっと息を吐く。

 その背中をディールクは優しく撫でるのだった。








数日後の早朝。


 曇天の中、ひっそりと寝静まっているファシナの村を、暗い色の大きな外套に身を包んだ2人がロバを引いて通過する。

 足音は最小限にまで消され、荷物袋や毛布を背負わされたロバは、間違っても鳴かないように板切れを噛まされている。

 未だあたりは薄暗く、見張りの戦士達もこくりこくりと船を漕いでいる時間。

 誰にも聞こえないように、聞かれても問題ないように、ゲルマン語では無くラテン語でひそひそと会話する2人。


「よし、マルコマンニの監視もいないな?」

「村の戦士達が動いていませんから、大丈夫だと思います」


 クアルトゥスの小さな声に、ユリアーネが更に小さな声で答えた。

 ユリアーネの返答を聞いてクアルトゥスは一つ頷くと、ロバを引いて歩みを早める。

あれからマルコマンニの戦士達は村に再び現れることはなかった。

 クアルトゥスに執着を見せていたバルドーゥイの態度を考えれば、不気味と行っても良いほどの沈黙で、他のマルコマンニの氏族からも使者は騒ぎがあって以降来ていない。

 恐らく、情報をどこかで得つつ村の動静を探っているのだろう。

 クアルトゥスとしても、即座に関知されるのは、最終的には逃走しなければならない立場である以上避けたいが、かと言って全く察知されずにファシナの村を離れてしまうことも、村に迷惑が掛かるので避けたい。


 理想を言えば、適度な時間と距離を置いてからマルコマンニの連中に察知され、適度な時間と距離を保ったまま、ローマ領内へ逃げ込むのが最善だ。

 未だ村の内通者が誰であるか分からない以上、ある程度秘匿し、かと言って完全には隠しきらないでことを進めなければならないクアルトゥスとユリアーネ。

 一応、全員が起き出す時間にディールクらがクアルトゥスとユリアーネの2人がいなくなったと騒いで、内通者に気付かせる手筈になってはいるが、それ以前に察知されてしまえば逃走の旅程が厳しくなる。


 これから2人は道無き道を進み、険しい山々を越え、魑魅魍魎渦巻く原野を突っ切ってローマ帝国領内を目指すのだ。








 2人は村の裏手にあたる場所から、森の中の獣道へと入る。


 しばらく黙々と歩く2人。

 日が昇り始め、周囲が木漏れ日でまだら模様に染まり始めたのを見て取り、周囲の警戒を抜かりなく進めつつ進む。

 更にもうしばらく進んだところで、川とも呼べないような小さな流れに行き当たったクアルトゥスとユリアーネは、一旦小休止を取ることにする。

 ロバの背から荷物を下ろしてやり、クアルトゥスは自分の鎧兜などが入った頭陀袋を開き、そこから兵士用の小振りな鍋を取り出した。

 それからロバを流れに連れて行って水を飲ませてやりつつ、クアルトゥスは軽く鍋を流れの水で濯ぐと、そのまま水をすくい上げる。


 一方のユリアーネは、荷物の中から自分の雑嚢を取りだし、中に入れてあった固焼乾麺を取り出した。

 クアルトゥスが水を汲んで戻ってきたのを見たユリアーネが、固焼乾麺を1つ差し出しながら言った。


「体調はいかがですか?」

「ああ、心配ない。お嬢達のお陰だな」


 そう言いつつ固焼乾麺をユリアーネから受け取ると、クアルトゥスは受け取ったそれを見て顔をしかめた。


「多いな……それにすごく固いぞ、お嬢」

「……エッチな意味で言っているのだったら、夜まで我慢して下さいね」

「心外なっ」


 顔を真っ赤にしながらもそう言って身体を寄せようとするユリアーネをすらりと躱し、クアルトゥスはそう言うと、水の入った鍋をユリアーネに手渡した。


「ちょっと持っててくれ」

「はい?」


 クアルトゥスが何をするか図りかねたユリアーネは首を傾げているが、それに構わず付近にあった石を集め、荷物の中から小型の鋤を取り出したクアルトゥスは、簡単なかまどを作り上げる。

 そして、これまた荷物に入れてあった消し炭と燃え種を出してから、短剣に火打石を擦り付けて火花を散らし、燃え種に手際よく火を熾した。

 ほどよく火が大きくなったところで、クアルトゥスはユリアーネに手を差し出して言う。


「お嬢、鍋をくれ」

「えっ?はい」


 慌てて差し出された鍋を即席のかまどに掛け、クアルトゥスは湯を作る。

 そして飲み水とする分を取り分けてから、クアルトゥスは


「まずい食い物も、少しの手間で結構食えるようになるもんだからな」


クアルトゥスは大きな固焼麺麭を、ぽこぽこと沸騰している鍋に蓋をするようにして置いた。


「しばらくしたら裏返す。それで大分柔らかくなるはずだ。そしたら手で割れるから、1つで良いだろ?」

「えっ……えっ、ええっ?」


 手持ちのバターと塩の入った小壺を取り出しつつクアルトゥスが言うと、ユリアーネは麺麭が蓋のように被さった鍋と、クアルトゥスが並べる調味料に視線を交互にやって戸惑いの声を上げる。


「軍隊に居た頃の知恵だよ……まあ、これをゆっくり出来るほど余裕がある戦場はほとんどなかったけどな」


 そう言いながらクアルトゥスは水を汲む際に採取してきたクレソンを手に鍋に近付くと、麺麭をひっくり返す際に鍋に入れる。

 そして同じように洗った石をかまどの側に置き、その上へ干し肉を2枚並べるのを、ユリアーネはぽかんとして眺めるのだった。








しばらくして柔らかくなった固焼麺麭がクアルトゥスの手で2つに割られ、その表面にバターと塩が塗り込められた。

 それから石焼きされて香ばしい薫りを放つ干し肉と、さっとゆでられたクレソンが麺麭の表面に置かれた。

 クアルトゥスはそれを更に半分に折り、丁度干し肉とクレソンが麺麭に挟まるようにしてユリアーネへ差し出した。


「出来たぞ」

「あ、ありがとうございます」


 ユリアーネは嬉しそうにそれを受け取ると、思い切りかぶりついた。


「相変わらずお嬢は豪快だな……」


 呆れるクアルトゥスをよそに、夢中で咀嚼するユリアーネ。

 猪肉の干し肉に内包されていた油分と香味が炙られたことで滲みだし、それがバターの風味と脂、そして塩の味、更にはクレソンの苦みと薫りで整えられている。

 周囲を囲む麺麭も湯気で戻され、これがあのまずい保存食かと思うほどの柔らかさ。

 口の中いっぱいに幸福感を感じたユリアーネが叫んだ。


「おいひいでふ!」

「……そりゃ良かった」


 多幸感を感じている様子のユリアーネを見て苦笑すると、クアルトゥスはそう言ってから自分も麺麭をかじるのだった。

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