第8話

『どこだ?』


 だんっと足を踏みならしたマルコマンニの戦士長が問う。

 しかし、ファシナの長老は動ぜずに言葉を返す。


『……裏切り者などおらぬわ』

『隠すとためにならんぞ?既にこの村から使者がローマに向けて出されたことは掴んでいる。その使者が我らマルコマンニの戦士をローマに売り渡したこともな』


 そして戦士長は、すっと人差指を上げてクアルトゥスを指し示し、言葉を継ぐ。


『このマルコマンニの戦士長、バルドーゥイの目にはそこで饗応をを受けるローマの家畜の姿が見える』


 言葉を解したかと思うほどの絶妙のタイミングで、指さされたクアルトゥスはすっと立ち上がった。

 そして、視線はバルドーゥイに向けたまま、クアルトゥスは緊張で身を固めているユリアーネに言う。


「……お嬢、後は任せた」

「えっ?」

「俺に構わずローマに使者を送れ」


驚いて見上げてくるユリアーネを尻目に、クアルトゥスはそう小声で囁きつつ席から立ち上がると、戸惑うファシナの長老や警戒するマルコマンニの戦士達が身構える中、マルコマンニの戦士長、バルドーゥイへ近付くべく悠然と歩く。


「トマレ……!」

「お?ラテン語を話せるのか?」


 驚いて歩みを止めたクアルトゥスに、不敵な笑みを向けてバルドーゥイは言う。


「……テキノ言葉、ツカイタクナイ、デモ、ヒツヨウ」

「ごもっともだな」


 そう言うが早いか、クアルトゥスは腰の後ろからナイフを投げ放った。

 マルコマンニの戦士達の何人かは、この奇襲に対応できずにクアルトゥスの攻撃の犠牲となるが、バルドーゥイは1本を躱し、もう1本を懐の短剣を鞘ごと抜いて防ぐ。


「キサマ!ろーま、ヒキョウモノ!」

「何とでも言え!」


 そう言い捨てると、混乱するその場を後にクアルトゥスは一目散に村の外へ向かって逃走を図った。


『追え!逃がすな!』


 バルドーゥイの怒号ともつかない命令で、攻撃を受けなかった戦士達が慌てて走り出す。

 しかし、それを見たクアルトゥスは、落ちていた石を拾い上げると、素早くつぶてと為してそれを放った。

 走り出そうとした戦士達の眉間やこめかみに石つぶてがあたり、昏倒する者や痛みにうめく者がでる。

 戦士達の行き足がそれで止まってしまった。


「マルコマンニの臆病者共!俺は1人だ!味方を疑う前に卑怯なローマ人の策略に気を付けるんだな!」


 そう言いつつバルドーゥイに数発の石つぶてを放つクアルトゥス。

 子供だましの攻撃を繰り返すクアルトゥスに、誇りを痛く傷付けられたと感じたバルドーゥイは怒り心頭に発した。

 額に青筋を浮かべたマルコマンニの戦士長は、しつこく短剣で自分の顔を狙って飛来した石つぶてを苦もなく打ち落とす。

 しかしその中に1発だけ混じっていた土塊を誤って打ち据えたバルドーゥイの視界が一瞬で奪われた。


『ぬう!?卑怯なっ!』

「へっ、おれは卑怯なローマ人だからな!」


土粒が入った目を思わず押さえてうずくまるバルドーゥイの頭目掛けて石つぶてを容赦なく放ち、それが当るのも確認せずクアルトゥスは奔る。


『逃がすな!地の果てまで追え!』


 配下の戦士が持ってきた皮袋の水で目を濯ぎ、バルドーゥイは怒りの形相でそう命じると、自らも剣を腰から引き抜いて追手に加わった。


『うぬ!卑劣なローマ人め!ただではおかぬ!』







 マルコマンニの戦士達がクアルトゥスを追って村を出る。

 一方のクアルトゥスは満足な装備もない状態であるので、逃げるにしても限界があるだろう。

 これは単なる時間稼ぎに過ぎないのだ。

 すっかり酔いの覚めた頭でそれを察したユリアーネは、すっくと立ち上がると、呆気にとられている村の戦士長や長老達の元へ歩み寄ると、口を開く。


『……すぐにローマへ使者を立てる準備をしましょう』

『むう、しかし……』

『いや、逆に今をおいて他に機会はない』

『マルコマンニの戦士達がいない今ならば、相談しても気付かれまい』


 逡巡する長老達だったが、すぐに今の状況を把握する。

 そして、冷徹な政治家らしく矢継ぎ早に方針を決めた。


『併せて同族の他の者達へも使者を出そう。他の部族へも出すのだ。今なら使者を出しても気付かれない』


 すぐさま他部族や他村への使者となるべく戦士達が走り、長老はそのきっかけとなったユリアーネの元へと集まってきた。


『ユリアーネ、ローマへはそなたが赴け』

『えっ?』


 長老の1人が発した言葉に、ユリアーネは驚く。

 確かに自分はファシナの貴族の娘であるが、使者を務められるほど村で地位が高いわけではない。

 前回はどちらかと言えば目立たない者である上に、女であればマルコマンニの者達も油断すると考えてのローマ派遣であり、また交渉の必要がない、情報を伝える役目だけを負った簡単な使者だった。

 結果はともかく、ユリアーネは軽輩であるが故に使者に選ばれたのだ。


 それが今度は真逆の役目を負わされようとしている。


 今回派遣される使者は、単に情報を伝えれば良いというものでは無い。

ファシナやカッティ族の立場を伝え、表明し、マルコマンニの横暴と危険性を伝達しつつも、ゲルマニアの地にローマを踏み入れさせないようにする。

 ユリアーネはこの難しい交渉を成功させなければならないのだ。

しかしそれには必要なものがある。

 慌ただしく使者が出ていくのを眺めつつ、ユリアーネは拳を握りしめた。


『……クアルトゥスさんを助けます』

『それは無理じゃろう。マルコマンニのバルドーゥイと言えば、勇士として名が通っておる。それの追及や追撃から逃げ果せるとは思えぬ』

『それを見越してあやつはマルコマンニの戦士達を引きつけたのではないか?』

『それは分かっていますが、今回の交渉にクアルトゥスさんの存在は不可欠です』


 ローマへ行くにしても、ローマで交渉するにしてもクアルトゥスの立場と存在は欠かせない。


『しかし一体どうやってバルドゥーイからあやつを解放させるのだ?』


 先程の決闘でクアルトゥスに敗れた戦士長、ユリアーネの長兄でもあるディールクが尋ねると、ユリアーネはふんと鼻息荒く答える。


『大丈夫です!最後の奥の手を使います!』










 程なくして、両脇をマルコマンニの戦士に捕まれたクアルトゥスが村の広場へと乱暴に連れられてきた。

 その最中もバルドーゥイらマルコマンニの戦士達からひっきりなしに殴打を繰り返されており、クアルトゥスの顔はぱんぱんに腫れ上がっていく。

 腹部を膝で蹴り上げられ、先程飲んだワインを吐瀉しつつ地面に倒れるクアルトゥス。

 悲鳴、いや怒号を上げたいところを必死に堪え、ユリアーネは広場へ蹴り転がされたクアルトゥスを見る。


『ローマ人は捕らえたが、この卑怯者は村に浸透するためにやってきたと言っている。村に対する宣撫工作のために潜入してきたと言っているが、こいつはどんな話をした?』


 咳1つなく静まりかえった村の広場。

 苛立ったようにバルドーゥイが足を踏みならすと、ようやく長老の1人が進み出た。


『話と言いましても、いつもどおり……ローマとの友好関係の確認と交易の申し入れだけですわい』

『……ほう?』

『戦士長も知っての通り、我が村は特段ローマとは敵対しておりませぬ故に』


 ファシナ氏族がローマとの国境近くで交易を酒として友好的な関係を結んでいるのは、ローマ側にもゲルマン側にも知られている。

 その確認のための使者として受け入れていたという事であれば、確かにおかしいところはない。

 村を見回したところ、ローマの軍兵が潜んでいる様子もなく、また貢ぎ物を持って歓心を得に来たと言うほども豊富な物資があるわけでもない。

 それ故に村の中へ踏み込んだわけだが、長老の話とクアルトゥスのした話は、村の様子や状況とも一致している。


『……今は信じておいてやろう。このローマ人はマルコマンニへ連行する』

『それは困ります!』


 思わずその言葉を口にしたユリアーネを、最初は驚いたように見たバルドーゥイだったが、その声を発したのが長老や戦士長では無く、若い女であったことに少し落胆し、次いで興味深そうに問いを発した。


『ほう、お前は何だ?』

『ファシナ氏族の前の族長の娘、ユリアーネと申します』

「お嬢、余計なことを言うな……」


 バルドーゥイの興味が、自分からユリアーネに移ろうとしていることを察したクアルトゥスが血にまみれた口を開くが、即座に周囲のマルコマンニ戦士に足蹴にされる。


『お前は黙っていろ卑怯者っ』

「ぐは!」

『止めろ!』


身体を折ったクアルトゥスの姿を見て、ユリアーネが怒りの声を上げた。

そして彼女はクアルトゥスの元へ駆け寄るとその半身を起こして囁く。


「クアルさん、話を合わせて下さいね」

「お、お嬢?」


 驚くクアルトゥスに微笑むと、ユリアーネはキッと目を怒らせてバルドーゥイを睨み、言葉を発した。


『結納の儀を邪魔しただけでなく、我が夫となる者になんたる狼藉!いかなマルコマンニの戦士長でも許されぬ!』


 その迫力にバルドーゥイは一瞬気圧されたが、ユリアーネの言葉の内容を理解すると、目を怒らせて口を開く。


『……ファシナのユリアーネよ、ローマ人を夫にするなどと正気か?承伏しかねる!』

『あなた方の承諾や承知を得ようとは思いません。現に宴はその為のもの』

『ぐぬぬぬ……これは誠か!?』


 バルドーゥイと同様に呆気にとられていたファシナの長老や戦士達がだったが、ユリアーネの言葉の内容が真に意味するところを察し、バルドーゥイの問いに応じる。


『むろんじゃ』

『そいつは妹の夫に相応しい武勇を示したぜ!』


 口々に肯定の言葉を発する長老や戦士長のディールクに、バルドーゥイが血走った目を向けるが、彼らは怯まない。

 それどころか、それまで周囲で固唾をのんで見守っていたファシナの村人達も、バルドーゥイ達に言葉を次々と投げつける。


『せっかくの儀式を台無しにしやがって!』

『ローマ人の何が悪いって言うんだい!クアルトゥスはいい男だぞ!』

『帰れマルコマンニ!ファシナは戦を望んでいない!』


 それを見て呆気にとられるクアルトゥス。

 しかし、呆気にとられたのはクアルトゥスだけではなかった。


『こ、こいつら本当にゲルマン人か!?』


 マルコマンニの戦士達が戸惑いの声を上げる。

 ローマ国境に近い部族や氏族では、ローマ人と、特にその兵士達との通婚は普通に行われているし、不自然でも禁忌でもない。

 逆に補助兵や同盟部族兵として雇われたゲルマン人が、ローマ人と結婚することだってあるのだ。


『ぐ、くそ!ファシナは裏切ったと言うことか!』

『そうでは無いわい。第一、今までどおりにローマと普通に交わることが、何故裏切りと解されるのかわしには分からぬ』


飄々と言う長老に、二の句が継げないバルドーゥイ。

 未だローマと戦端を開いたわけではないので、逆にファシナを始めとするカッティ族がローマと完全に断交してしまえば、ローマに感付かれてしまう可能性がある。

 それに、正式に対ローマ戦での統一行動が約束されたわけでもない。

 今はあくまでもマルコマンニ族が、各部族にローマへ対決するよう圧力を掛けているという段階で、賛同した部族はカッティ族を始めとして1つもない。

 そういう意味では自分の行動は先走ってしまったものになるが、それでもバルドーゥイにはファシナ氏族を糾弾しなければならない理由がある。


『ろ、ローマに我らの策を漏らそうと使者を送っただろう!』


 そして、その追手となった戦士をローマに売り渡されてしまったのだ。

 しかし、それこそが先走った行動に他ならないと言うことを、バルドーゥイは思い知らされることになった。


『そこにいるユリアーネの婿探しについて言っているのか、それは?』

『どこの部族か知らんが、婿を迎えに行った嫁を襲った馬鹿がいるのは知っている』


 ここまで言われてしまえば、最早実力行使意外に打つ手はない。

バルドーゥイは静かに激高しつつ腰の剣に手をやるが、その時にはファシナの男達が手に手に武器を持って集まって来ており、とても自分の配下の30名では対処しきれない事態となっていた。

 おまけにクアルトゥスのお陰で怪我をしている者もおり、状況は悪い。


『ちっ……その顔覚えたぞ!』


 バルドゥーイは忌々しげな顔付きで剣から手を放すと、未だユリアーネに抱かれて半身を起こした状態のままでいる、クアルトゥスへ人差指を突きつけて言い放つと、マルコマンニの戦士達をまとめて立ち去ったのだった。







「お嬢……」

「何ですかクアルさん」

「……嫁って何だ?」

「えっ?どうしてクアルさんがゲルマンの言葉を……?」

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