第5話

「ゲルマニア国境の正規4個軍団が動員される」

「何?」


 いきなり発せられたグラニウス守備隊長の言葉に、クアルトゥスは驚きの声を上げる。

 その傍らでは、あまりの急展開にユリアーネが顔を青ざめさせていた。

 クアルトゥスの家の最上階から2人が認めた、伝令騎兵だと思っていた騎馬は、何とグラニウス守備隊長本人だったのだ。

 それだけ重要な情報を持ってきたと言うことだが、それは正に軍事機密。

 用意された水を飲むことも無く、一気に言い終えたグラニウス。

 その視線は真剣であり、この知らせが本物である事を示している。

 しかも、今後敵対勢力にまわるかもしれないユリアーネの目の前で知らせるというのは、それ相応の覚悟があってのことか、それとも事態がもう動かし難いところまで進んでいるかのどちらかだ。


 実際、ゲルマニア国境に置かれた精鋭の4個軍団が動くとなれば、これはもう本格的な戦争に他ならない。

 現在のローマ皇帝は、未だ蛮族に対しては融和敵的で、内治重視の姿勢を崩していない。

 しかしながら、国境リーメスではマルコマンニ族を中心としたゲルマン人の強硬派部族は、ローマ帝国への敵対行動が目立ってきており、最前線においては予断を許さない状況が続いているのも事実。

 国境リーメスを与る属州総督や軍司令官は、ゲルマン人の準備が整わない内に、先制攻撃を加えてその勢力を削ぐべきだと考える者が多い。

 それでも、皇帝の命令によって越境攻撃は固く禁じられている。


 そんな現状維持政策に不満を持ち、蛮族討伐の機会を密かに窺う現場の軍司令官や属州総督も皆無では無い。

彼らは常にゲルマン人の動向を監視し、注意深く情報を収集している。

 おそらく、ユリアーネが来るより以前に、マルコマンニ族の不穏な動向は掴んでいたのだろう。

 ユリアーネの情報が届いてすぐに、最精鋭の4個軍団、おおよそ3万もの兵士を動員するという決定が為されたとすれば、それはあまりにも早過ぎる。

 おそらく、彼ら対蛮族強硬派の者達はじっと息を潜めつつ軍事的な準備を進め、決定的な証拠か情報が入るのを待っていたに違いない。

 正にユリアーネからの、当事者たるゲルマン人からの情報は、渡りに船であったのだ。


「恐らく補助兵アウクシリアや蛮族傭兵フェオデラティに加えて、熟練退役兵ヴェテラニーの召集もある。シアヌス元隊長も呼ばれるだろう」

「何だと?」


 グラニウスの言葉に、クアルトゥスは驚きの声を上げる。

 それは正に局地的ながらも総動員令に他ならず、皇帝の許可も為しにそんなことをすれば、下手をすれば反逆罪に問われかねないものだ。

 しかし、それで得られる兵数は馬鹿にならず、正規軍に加えて更に1万から2万増えることになる。


 5万あまりもの兵、がゲルマニアの地に雪崩れ込む。


 かつて初代皇帝がゲルマニア属州創設のために派遣したのは、2万5千。

 それを遙かに上回る規模の兵が動員されれば、いかに強勢のゲルマン人であろうとも粉砕されてしまうことになるだろう。

 しかし、それは同時にゲルマニアの荒廃をも意味する。

 今まで比較的平和にローマと対して来た、ユリアーネの出身部族であるカッティ族やテンクテリ族であるが、ローマ軍が自分達の領域を通ることになれば、当然強く反発し、抵抗することになるだろう。


 一部は味方に付くかも知れないが、それでも物資の徴発や兵の強制召集をされれば、どう転ぶか分からない。

 それに何より、ローマの副次的な狙いは、ゲルマニアの土地とゲルマン人奴隷である。

 いくら先制攻撃による安定化と言っても、得られる物は得たいのが心情。

 ローマによる文明化という名の、略奪と暴虐がゲルマンの地に吹き荒れる。

 真っ先に戦火に見舞われるのは、国境に近いそれらの部族なのだ。

 それを思ったのか、ユリアーネの顔色が更に悪くなる。 


「まさか……」

「各軍団の司令官と属州総督は本気だ。敵から攻められる兆候があれば、積極的に攻勢に出るのは命令違反に当らない。あくまで防御戦争の範囲だからな……ついでに得られる物は得ることになるだろう」


 驚くクアルトゥスを余所に、グラニウスは淡々と情勢の説明を口にした。

 最後の台詞には、ローマの欲が透けて見える。

 それは、強硬派にとって千載一遇の好機。

 しかも、ゲルマニア内陸の雄族、マルコマンニが反ローマに決起するとなれば皇帝に蛮族対策の姿勢変更を迫れるかも知れない。


 これは、正に非常事態である。


 軍団の準備は万端で、協力してくれるゲルマン人部族も確保している。

 初代皇帝の時代、ローマの精鋭軍団が無残にも全滅してしまったトイトブルク森林の戦いの時とは違い、マルコマンニ族はローマへの反抗を密かに進めているので、いまだ他部族の同調や協力を得られていない。

 この今、先行してローマ軍がマルコマンニ族討伐の兵を挙げ、その本拠へ攻め込めば、ローマに同調する部族が多くなることは間違い無い。

 最悪、中立でいてくれれば良いのだ。


「カッティ族以外の部族にも、既に働きかけが進んでいる」


 グラニウスは、クアルトゥスの横で固まってままのユリアーネに向き直ると、そこで言葉を切って出された木杯の水で喉を湿した。

 そして、ぐっと前に身を乗り出すようにして口を開く。


「ついては、ユリアーネ殿に道案内をお願いしたい……もちろん、カッティ族は我が方に付くのだろう?」


 息を呑むユリアーネに、酷薄な笑みを向けたグラニウスが言葉を継いだ。


「まあ、よく考えてみてくれ……先の無いマルコマンニに付くのか、それとも5万もの軍を持つ、文化溢れるローマを選ぶのか」






 グラニウスが帰った後、言葉も無く青ざめたままユリアーネは最上階から東の方角を見つめる。

 日は既に随分と傾き、彼女の影はその顔を暗く染めていた。


『わたしは、どうすれば……』


 ユリアーネの口から発せられたのは、故郷のゲルマンの言葉。

 最初はマルコマンニからの恫喝に反発し、村を飛び出してローマを目指したユリアーネ。

 文明的で強大な力を持つローマ帝国ならば、マルコマンニを諫めてその蛮勇を抑制し、自分の村や周辺の部族が傷付かない形で平和を維持してくれると考えたのだ。

しかし、それは甘い幻想だった。

 きっかけがあれば、ローマ帝国は容易に蛮族以上の事が出来る。

 虎視眈眈とゲルマニアの土地と民を狙い、牙を研ぎ続けていたローマ帝国は、今正に自分の情報をきっかけに、その力を振るおうとしている。

 それも、ユリアーネの最も望まない形で、である。

 国境リーメスからあふれ出したローマ軍は、カッティ族やマルコマンニ族といった部族の区別も関係なく、野蛮で敵対的なゲルマン人という1つの視点で事を為そうとしているのだ。


 そこに融和的であるとか、情報をもたらしたとか、また助けを求めたと言うことは関係ない。

 5万もの兵の全員が、部族の違いを認識しているはずも無く、またそれが分かったところで手加減する理由がローマには無い。

 ローマ帝国からすれば、北方の脅威を除去できれば良いし、そのついでに財貨や土地を手に入れ、頑健で美しいゲルマン人奴隷を得られれば良いのだ。

 ゲルマン人は等しく蹂躙されてしまうことになるだろう。

 自分が想像したのとは全く異なる展開が訪れようとしている。

 しかも、最悪の形で。

 そして、それは自分がもたらしてしまったものだ。

 村の長老が激高してローマに助けを求めようとする者達を諫め、ローマに仲裁して貰おうとした者を止めた訳がようやく分かった。

 ローマは決してゲルマン人の味方では無いのだ。

 彼らは彼らの利益と都合で動く。

 今までカッティ族やユリアーネの村にとって、ローマが利益をもたらす存在であったのは、たまたま彼らの国益と国策がユリアーネ達のそれと一致していただけに過ぎない。


『帰ります……帰って、このことをみんなに知らせなければ!』


 そう力強く言っては見たものの、ユリアーネが帰郷する術は無い。






 グラニウスは帰り際、ユリアーネに釘を刺した。


「貴女にはしばらくローマ領内に留まって貰いたい。もちろん、シアヌス隊長の元に居ても構わないが、国境警備はこの時点をもって強化されている。故郷へ簡単に帰れるとは思わないことだ」

「そんな……!」


 絶句するユリアーネを横目に、グラニウスはクアルトゥスへ顔を向ける。


「シアヌス隊長も余計なことを考えず、彼女をしっかり見張っていて下さい。間違っても行方不明などにはならないように……ヴェテラニーの召集は間もなくです。恐らくあなたは筆頭百人隊長として辞令が出されるでしょうから、準備を始めておいて下さい」


 グラニウスの言葉に、クアルトゥスはしばらくの間目をつぶって沈黙する。

 彼の言わんとすることは理解しているつもりだ。

 要するにユリアーネへ肩入れして、間違ってもゲルマニアへ越境し、ローマ側の情報を伝えたり、あるいは何らかのリアクションを興させるような活動をするなということだ。

 クアルトゥスはやがてゆっくりと目を開くと、グラニウスを正面に見据えて口を開いた。


「……ああ、分かった」

「クアルさんっ」


 その返事にユリアーネが非難と絶望の混じった声を上げるが、クアルトゥスはそれを手で制して言う。


「お嬢……無駄なことは考えるな。俺の居ない間、この農場を頼む」

「えっ!?」

「それは……良い考えかも知れないな」


 クアルトゥスの思い掛けない言葉にユリアーネが驚いて絶句し、グラニウスはやはり驚きから軽く目を見開くが、その考えに賛意を示した。


「……ヴェテラニーの召集はいつ頃になる?」

「おそらく数日中には命令が発せられる」


 しばらく気まずい沈黙が降りるが、グラニウスがいち早く立ち直る。

 そしてクアルトゥスの真剣な眼差しを見て取り、グラニウスは満足そうに一つ頷いてから言う。


「……では、私はこれで失礼するぞ」


 そうしてグラニウスは、来た時と同じ道を辿って駐屯地である、名も無き植民市へと馬を疾走させて戻って行ったのだった。







夜、綺麗な月が空に浮かぶ中、クアルトゥスの家の屋上階で、ぼーっと空を見上げる人影があった。

 そよ風に長い金髪を緩やかに流し、白皙の顔には憂いの色がある。

 グラニウスの言葉を思い出し、気持ちが沈むユリアーネ。

 背後からそんな彼女の肩を叩く者がいた。


「お嬢……」

「クアルさん……ええっ?」


 振り向いたユリアーネは、クアルトゥスの出で立ちを見て驚愕の声を上げた。


「そ、その格好はどうしたんですか!」


 驚くユリアーネの正面に現れたのは、ローマの百人隊長かくあるべしと言わんばかりの完璧な軍装を身にまとったクアルトゥス。

 赤い房付きの兜ガレアに鉄重鎧ロリカ・セグメンタータ、更には手甲と臑当て、そして背嚢を背負い、緋色の外套マントをまとうという完全装備だ。

 どれも使い込まれていることが素人目にも分かるが、よく手入れされており、そして磨き込まれている。

クアルトゥスは、その手をユリアーネに差し出して口を開いた。


「どうもこうもない、お嬢も早く準備してくれ」

「えっ?」


 驚き、戸惑うユリアーネに、クアルトゥスはにかっと男臭い笑みを浮かべ、更に彼女の目の前へ手を出して言う。


「行くぞ、ゲルマニアの地へ……取り敢えずはお嬢の故郷のカッティ族だな」

「クアルさんっ!」


 感激で涙を目に浮かべたユリアーネは、躊躇無くその手を取り、胸の中へと飛び込むのだった。

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