第4話

穏やかに晴れ渡ったゲルマニア辺境の開拓農場。


 外縁部には果樹が並び、東側と南側には麦畑、北側に野菜畑が位置しており、中心にあたる部分には、かつてローマ軍が建造した監視塔を改装した家屋や倉庫、畜舎が並んでいる。

 その周囲には牧草地があり、現在は馬2頭と山羊が数頭、草を食み、走り、放牧地での自由を楽しんでいた。

 農場の中心から少し東へ外れた場所には、ソコソコ水量のある小川が南から北へと流れており、その川岸の斜面部分には香草やハーブ類が植えられている。

 小川の上流には、石で出来た簡易式の堰があり、水を蓄えて農業用水や飲料水として利用する他、そのすぐ下流に設けた水車小屋の動力源ともなっていた。

 水車小屋には、水力を利用した製粉用の大石臼や大きな木槌が備えられており、必要な時はここで粉ひきや製粉などが出来るようになっているのである。


 ユリアーネは自動で動く製粉石臼を初めて見て、驚きで目を丸くした。


「く、クアルさんっ、石臼が……でっかい石臼が独りでに回ってます!」

「ああ、これは水車の力を使ってるんだ。勝手に回ってるわけじゃあ無い」


 最初はクアルトゥスの言葉に理解が追いつかなかったユリアーネだったが、外に連れ出されてその機構や力の掛かる順番や方法を、実物を示しながら説明されてようやく頷く。


「な、なるほど……これであの美味しい麺麭パニスの元になる、小麦粉が出来るんですね!それはとても大切ですねっ、分かります!」

「そっちの理解かよ……」


 呆れるクアルトゥスだったが、とにかく重要な機構である事を理解したらしいユリアーネに、それ以上何も言わなかった。


 言えば言うだけ、疲れると言うことが分かってしまったからである。


 いくらラテン語を流暢に話せるといえども、彼女はゲルマン人。

 深い森の中に、集落を築いて細々とした農法と技術で生きている、野蛮で荒々しい民なのだ。

 ローマの本拠地たるイタリア半島で生まれ育ったクアルトゥスとは、物の見方や身の回りの物の種類が異なるのは当たり前で、そもそも水車を理解できる素養がないのだから、仕方ないと言えば仕方の無い事。

 なので、クアルトゥスはユリアーネにして貰いたい、大切なことだけを伝えた。


「まあ良い、とにかく大切な建物だから、無闇に触ったり、入ったりしないようにな」

「分かりました!」






 元々ここはローマの監視敞があった場所で、国境の変更と共に放棄されていたのを、クアルトゥスが譲り受け、周辺の土地を開拓して農場へと変えたのである。

 もちろん、最辺境であることに変わりは無く、改装されて家屋になっているとは言え、監視敞としての機能は失われていない。

 万が一、ゲルマン人が国境リーメスの最前線を突破してしまった時は、この場所が第2の警報を発する場となる。

 その為に、元監視塔の屋上には烽火の設備と幾ばくかの武器が備えられており、またクアルトゥスという、退役したとはいえかつて勇士とも呼ばれた元百人隊長がいるのだ。


 ローマの国境警備隊からすれば、後何人かをクアルトゥスの下に付けたいところだが、それはクアルトゥス本人に拒否されたので実現していない。

 後は、家族や奴隷を得て、彼が自立武装してくれることを期待する他無いのだが、今のところクアルトゥスは独身生活を楽しんでしまっているので、その気配も無い。


 ただ、ここ10日間だけはその様相が少し変わってきていた。


 そう、ユリアーネがクアルトゥスの農場へやって来てから、早くも10日間が経とうとしているのだ。 







「よし、ここはもう良いぞ、次はこっちだ」

「はい!」


 キャベツ畑の整備と雑草取りを終えたクアルトゥスが、一緒に働いていたユリアーネに声をかけると、彼女からの元気な返事が即座に返って来た。

 クアルトゥスがやっていたのは、小石の除去と雑草取り。

 拾った小石は既に背負っているカゴ一杯分くらいになっており、また雑草はカマス1袋分にもなっている。

 移動の合間も、クアルトゥスは小石をほじくり出してカゴに放り込み、雑草を引き抜いてはカマスへ入れ込む。


 ユリアーネはその合間にキャベツに付いた害虫、すなわち芋虫やカタツムリ、ナメクジの除去をしていた。

 水を張った木桶に、芋虫やカタツムリがぷかぷかと浮き、ナメクジが底を這っている光景は実に気持ち悪い。

 しかしユリアーネは全く気にした様子もなく、葉に付いている芋虫をつまみ上げ、また根元に潜むナメクジを掘り出して木桶へ放り込んでいく。


「ふんふんふ~ん」


 上機嫌に鼻歌を歌いながら作業を続けるユリアーネの姿を見て、クアルトゥスは笑みを浮かべ自分の作業を続ける。

 ユリアーネは農作業についてはそこそこの腕前を持っており、クアルトゥスの作業はぐんと楽になった。

 山羊や馬、鶏や家鴨など家畜への餌やりや水やり、山羊の乳搾り、卵の収穫などについては完全に任せることが出来るようになったし、馬の手入れや放牧についても、ユリアーネはそつなくこなしてくれる。


まあ、労働をした分、食料の消費量は増えてしまったが……


 しばらくそうして畑の整備を続けていたクアルトゥスとユリアーネ。

 野菜畑の手入れはあらかた終わり、そろそろ疲れと飽きが出てくる頃合いだ。

 そして、時間は昼を少し過ぎたくらいになった。

 ユリアーネが作業の合間に、こちらへちらちらと視線を送ってくることに気付いたクアルトゥスは、ゆっくりと腰を伸ばして立ち上がる。


「何だよお嬢、何か用か?」

「え、え?何でも無いですよ?」


 クアルトゥスの問い掛けに、慌てて視線を地上へと戻すユリアーネ。

 その指先には、きっちりナメクジがつままれているが、先程までとは動きが違う。

 明らかに緩慢なのだ。

 そしてしばらくすると、またちらりとクアルトゥスへ視線を送る。

 その期待に満ちた視線に、彼女が何を期待し、何を言わんとしているかがすぐに分かったクアルトゥスは、やれやれと言いながらしゃがむのを止めて完全に立ち上がった。


「まあ、良いか……お嬢!休憩しよう」

「はいっ!」


 クアルトゥスの呼びかけに、間髪容れずに元気よく応じるユリアーネ。

 待ってましたと言わんばかりの反射で立ち上がると、飛び跳ねるようにして、害虫を詰め込んだ木桶を手にクアルトゥスの元へ駆け寄る。

彼女が期待しているのは、今朝クアルトゥスが用意していた中食だ。

 正式な食事というわけでは無いが、クアルトゥスは戦場にいた時も、また現在のように長く農作業をした場合も、食事を軽く取ることにしている。

 本来であれば、午前中に働けば午後は休むのがローマ方式だが、クアルトゥスは1人で農場を経営しているので、今までは午後も働いていた。


 そうしないと、作業が回りきらないからである。


 しかしそれもユリアーネのお陰で随分と軽減されており、せっかく用意し中食を取れないこともしばしばだったのが、今は休憩と共に余裕を持って食事を楽しめる。

 密かにユリアーネには感謝しきりなのだが、それを言うと今以上に色々と食に対する要求が高まる可能性があるので、今のところ直接伝えるのは保留している。

しかし、食事には今まで以上に力を入れ、ユリアーネの満足度が上がるように努力をしてはいるクアルトゥス。


 一応、礼も込めての食事と言うことにしているのだ。


「じゃあ、一旦家に戻ろう」

「はい、楽しみです」


 今日、クアルトゥスが用意した中食は、大麦と小麦の混合粉に山羊の乳と卵を加えて作った生地で、リンゴやイチジク、ブドウなどの乾燥させた果物をチーズに練り込んだ具を包み込み、焼き上げた物だ。

 クアルトゥスはそれとは別に、周辺の森で摘んだベリー類を煮込んで作ったジャムとチーズを合わせた具の物を作ってある。

 ただ、冷めてしまうと固くなるので、焼き上げるのはこれからだ。

 ローマでは神殿への捧げ物や、おやつや軽食用の食べ物として一般的であり、通常の具はチーズに蜂蜜を練り込んだものである。

 しかし、蜂蜜は貴重品であり、ローマでは風味付けや甘味付けと行った場合に使用されているものの、少量が練り込まれるだけなので、イマイチ甘味としては物足りない。


 意外なことだが、筋骨隆々のクアルトゥスは大の甘党。


 酒も飲むが、甘い菓子も食べるのが好きである。


 そんなクアルトゥスは、甘味を補充するべく乾し果物を練り込み、またベリージャムを作って蜂蜜代わりに、あるいは蜂蜜の補充に使用しているのだ。

 因みにクアルトゥスはミツバチも飼っている。

 たまに求められて町へ売りに出す以外は、ほぼ自分で使ってしまうのだが、最近はユリアーネという大消費者の参入で、その使用量も倍増。

 しかし、だからといってすぐに生産量を増やしたりは出来ないのが悩みだ。

 それに、蜂蜜を取り出すのに斜を壊さなければならないので、一度採蜜してしまうと飼っているミツバチの勢力が衰えてしまうのも、悩みである。






 クアルトゥスとユリアーネは、野菜畑から堰に向かい、その下流の水車小屋の脇を通って細い道を館へと向かう。

 穏やかな日差しの中、堰からこぼれ落ちる水流が軽やかな水音を立てて流れ下り、その水流で水車ががらがらと音を立てて回っていた。

 今日は製粉作業をしていないので、ただ水車は回るだけ。

 ユリアーネは、飽きた様子もなくその光景を興味深そうに眺めながら、クアルトゥスの後について歩く。

クアルトゥスの現在住み暮らす家は、以前にも記したとおり、元はローマ軍の監視敞であった物だ。

 生活の主体となっている家は監視塔であった建物で、それに付属していくつかの建物が並んでいる。


 監視塔は、その目的から高く作られており、クアルトゥスの農場のどこにいても見えるし、また周辺の森や草原にいてもよく目立つ。

 なので、近くの森や草原において言えば、迷うとことは無い。

 クアルトゥスの農場を西から東へと貫く小道は、軍道として整備されている物である。

 東の行き先は国境警備所、西の行き先は、クアルトゥスが良く買い物に行く植民市コローニアで、更にその先にはモゴンティアクムという大都市が所在している。


農場内の道は、クアルトゥスが随時踏み固めて作った簡素な物だが、この軍道においては砂利が敷き詰められていて、道の両側にはきちんと側溝もある。

 また、小川には石造りの橋がかけらてもいるのだ。

 この軍道は、クアルトゥスの農場の敷地内において、彼が管理して整備することが義務付けられており、大した手間ではないが、クアルトゥスは一応砂利の具合を確かめたり、側溝の整理や掃除を時折行っている。


 クアルトゥスとユリアーネは、農場内の小道から一旦石橋の架かっている場所に出て軍道へと入り、そして家へと戻る。

 そして、堰から引いてある簡易水道で手足を洗い、手布で水気を拭き取った2人は家の中へと入った。

 この水道は堰から小さな水道橋でここまで引き込まれている。

 農場の各所へも同様の手段で水が引かれているのは言うまでも無い。

 クアルトゥスはその水道で、別の布を浸して固く絞り、ぽんとユリアーネに投げ渡して言った。


「お嬢、屋上の机を拭き掃除しておいてくれ」

「はい、分かりました!……え、屋上ですか?」


 一旦は元気よく返事したものの、ユリアーネはクアルトゥスの指示の内容を理解しかねて尋ね返す。

 台所へ向かいながら、クアルトゥスはその質問に答えた。


「たまには眺めの良い場所で食おう」


 クアルトゥスの家は、元は監視塔であったので、高い。

 実に3階建て相当の高さがあり、元々監視のために兵士が詰めていた場所は、クアルトゥスの手で机と椅子が運び込まれて、休憩所のような場所になっている。

 ユリアーネは笑顔で頷くと、階段へと走る。


「走らなくて良い!」

「はあい!」


 注意に対して弾むような返事をするユリアーネの後ろ姿を肩越しに見送り、クアルトゥスは溜息を吐くと、台所へと入った。

 早速かまどの横にある石造りの窯の火をおこすと、しっかりと暖まるのを待つ。

 しばらくして、窯の中の空気が揺らぎ、熱が周囲に伝わり始めた。


「そろそろ良いか?」


 そう言いつつ、窯の温度が十分になったことを確かめながら、クアルトゥスは戸棚から朝に作っておいた3つのプラケンタを取り出し、点検してから鉄の火掻き棒を使って、そっと中へと押し込んだ。

 そして、ユリアーネの駆け上がっていった上階の方角に視線を上げる。

 当然、床があって見えることは無いが……その行動は手に取るように音で分かった。


「まあ、大丈夫だろう……な?」


 どたんばたんという、何とも不穏な音が聞こえるが、屋上に置いてある机や椅子は木製の頑丈な一品。

 いくらユリアーネが乱暴に扱ったとしても、そう簡単に壊れたりはしない代物だ。


「まあ、しかし……お嬢だしな」


 以前餌をやろうとして馬の飼い葉桶をうっかり蹴飛ばし、真っ二つに割って壊してしまったユリアーネの力と頑丈さを考えれば少し不安な気持ちもあるが、今回頼んだのは拭き掃除のみ。

 そうそう物を壊すようなことも無いだろう。

 彼女を信じてやろう。


どかん

「アッ……!?」


 そう思ったクアルトゥスだったが、しかし、次いで降ってきた破壊的な音と漏れ聞こえた声に、クアルトゥスは眉間へ手をやった。


「……いや、いい。気にしない、取り敢えず今は目の前のこれをしっかりと焼き上げることに集中しよう。壊れた物は……後で確認すれば良い」


 ちりちりと気になる時間が経過し、やがてかまどから甘くて香ばしい臭いが立ちこめ始めた。


「よし……良いかな?」


 火掻き棒でこんがり焼き上がったプラケンタを取り出すと、クアルトゥスはその焼き上がり具合を十分確かめてから皿へと載せる、

 そレ空クアルトゥスは窯の火の始末を付けてから、2つの木杯に水を注ぎ、小さなナイフを2本、盆に沿えて階段へと向かった。

2階を経てゆっくり上がっていくと、見張り台であった置く上階に着く。


「あ、クアルさん!準備できましたよ!」


 我慢しきれずにいたのか、ユリアーネがクアルトゥスを待ち構えるかのように階段の脇に控えており、早速クアルトゥスの持つ盆の上にのった皿、もっといえば更にその上のプラケンタを見て、グビリと唾を飲み込んだ。


「うわあ、美味しそうですねえ……」

「まあな」


 そう言いつつ周囲を確認するクアルトゥス。

 視界壊れた物は見当たらないので、ほっと胸をなで下ろし、拭き掃除の終わったテーブルに盆を置く。

 そして、小皿とナイフをそれぞれに置くと、ユリアーネを手招いた。

 いそいそと席に就くユリアーネに苦笑しつつ、クアルトゥスは手を差し出して言った。


「どうぞ、だな」

「は、はいっ、頂きます!」


 最近、クアルトゥスの指導で食事作法を身に付け始めたユリアーネ。

 綺麗に食べればより一層美味しくなる、その言葉につられて作法を身に付けるべく奮闘中。

 取り敢えずがっついたり喰い荒らしたりするよりも、基本的な作法に則って食べれば、食べ残しや食べ散らかしが少なくなり、また味も良く味わえるということを、彼女は理解したようだ。


 クアルトゥスが切り分けた、ほのかに湯気を立てるジャム入りプラケンタを手元のナイフでとり、小皿に載せてからゆっくりと味わって食べるユリアーネ。

 生地に塗りつけた蜂蜜の風味が鼻から抜け、次いで舌の上にチーズの淡い酸味と、よく煮込んだベリージャムの甘味が伝わってきた。

 香ばしい大麦の香りと小麦の滑らかな生地が、その2つに加わってユリアーネの心と身体の奥の部分を刺激する。


「お、美味しいですっ」

「おう、じゃあ次はこっちだ。ああ、そう、水を飲んでからだ」


 水を飲んで口を潤し、前の味を流してから、ユリアーネは次いでクアルトゥスが切り分けてくれた、乾果物の入ったプラケンタをこれまたゆっくりと口に入れる。

 今度はつぶつぶの葡萄をかみ潰す度に、その甘味がチーズの風味や生地の香ばしさと混じり合う。

 かめばかむほど味が増し、甘味が強くなり、酸味との調和が増す。


「うう~幸せです~」

「そ、そうか」

「クアルさんに食べ方を教えて貰ってから、ご飯がもっと美味しくなりました」

「それは良かったな……」


 ユリアーネの大げさなほどの感動振りに、少し退き気味のクアルトゥス。

 見晴らしの良い周囲の光景など、最早何の意味も成していないようだ。


「ん?」


 そんなクアルトゥスが自分の分のプラケンタを口に運んだ時、農場の西の外れの先に、一頭の騎馬が目に入った。

 というのも、その騎馬はローマ兵の鎧を着た兵士が乗っているので、きらきらと銀色に陽光を反射していたからだ。


「……知らせか?」

「えっ?」


 驚いて振り返るユリアーネの目にも、大分大きくなった兵士の姿が映る。


「伝令の兵士がやって来る……おそらく、頼んでいた知らせだろう」

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