第3話

かまどの下口から薪を追加投入し、火力を調節したクアルトゥスは、早速本日の料理に取りかかった。

 取り出した食材は、今朝取れたての鶏卵2個、傾斜のあるハーブ畑で採取した数種のハーブや香草、そして塩漬け豚肉。

 そして、レンズ豆、ひよこ豆、タマネギである。

 調味料は、ハーブ類と微量の香辛料、そして岩塩となる。


「うっし!」


 クアルトゥスは、一つ頷くと早速料理に取りかかった。

オリーブオイルを小さな素焼壺からフライパンに垂らし、かまどに置いて暖めると、クアルトゥスは今朝採ったばかりの鶏卵を2つ割り込んだ。

 香ばしい卵の焼ける薫りが昇り、軽やかなオリーブオイルの弾ける音が続く。

 続いて投入された数種類のハーブが、その薫りをより一層食欲をそそる物へと昇華させた。

 それを横目に、クアルトゥスは塩漬け豚肉をナイフで切り分け、岩塩を別の素焼壺からひとつまみ振りかけてから、焼け始めた卵の傍らに置く。

 豚肉の焼ける香ばしい薫りが加わり、熱せられた脂が跳ねて更に良い音を周囲に響かせる。

 クアルトゥスは続いてタマネギの皮を素早く手で剥き、ナイフでスライスしてから煮汁の入った銅鍋の中へと入れた。

 一度煮立てた後に、少し火から遠ざけられていた鍋には、細かく刻んだハーブ類と、香草の種を磨り潰した物に香辛料が少々、更にはひよこ豆とレンズ豆が入っており、辛味と甘味の混じった薫りを含んだ湯気は、早くも周囲にその料理の出来栄えを示していた。


戦場では固く乾燥させた麺麭バニスや、2度焼きしたこれまた固い小麦煎餅ビスケット、乾燥果物に葡萄酒(葡萄酒)などが付けば良い方だった。

 それ故に、クアルトゥスは食に対しては非常に貪欲になったのだ。

 粗食に耐える術を軍団で学んだが、あえてそれをしようとは思わない。

 ローマに住まう貴族と同等には行かないし、同じ物を食べる気にはならないが、それでも美味い物はこの世にたくさんある。

 それを出来るだけ、そして自分の手で作って楽しむのが、クアルトゥスの今の趣味でもあるのだ。

 幸いにも条件の良い農場を手に入れ、近くには小規模ながらローマ帝国の誇る、巨大流通網の末端ともなる植民市コローニアがあり、小麦や野菜、豆などに及ばず、珍しい食材の入手手段には事欠かない。

 また、退役した際に弩も貰ったので、周辺の森で猪や鹿、野豚などの狩りをする事も出来るし、その森は同時にそれらの食料となる、ベリー類や野草類、木の実も多い。


 クアルトゥスは、正に理想的な生活を手に入れていたのだ。


 しかしながら、それも3日前に崩れているのは、認めたくない事実だ。


 大食漢が彼の農場に居候という名の襲撃を敢行したのである。

 一言で言えば、無慈悲。

 文字通り、正に情け容赦の無いユリアーネの胃袋という名の襲撃は、クアルトゥスの貯めた食材を瞬く間に消費した。

 わずか3日で、彼の作り置いていた麺麭や乾燥食材は、早くも底をつきそうな勢い。

 慌てつつも、クアルトゥスが保存食の製造量を増やしたので、事なきを得たが、それにかかる出費や食材の消費量が、彼を追い詰めたのである。





 辛うじて今朝方実施された、ユリアーネの早朝襲撃を免れたのは、先日作った干葡萄ほしぶどうと干無花果ほしいちじくを刻み、割った胡桃くるみと合わせて生地に混ぜ込んだ上で焼き上げた甘味の強い麺麭バニスだけ。

 これは彼女の目に触れないよう、別の戸棚に入れてあったので難を逃れたのであるが、どちらかというとおやつや、日中農作業の合間に中食として軽く食べる物だ。

 なので、早朝の農作業を終えた後にガッツりとした朝食を食べたいクアルトゥスの今の気分には全くそぐわない。


「はあ、今日は仕方ないか……お嬢め、全く、食い意地が張りすぎだろう」


 クアルトゥスは呆れ半分、怒り半分といった感じで件の彼女がまだ座っているであろう広間の方を振り返る。

 ユリアーネは見た目がたおやかで可憐な美少女なのに、食事ということに関しては、きっちり、そして紛う方無く蛮族だった。

 もの凄い量を食べるし、遠慮をしないし、礼儀作法もなっていない。

 いつも手や顔を喰い滓だらけにして、クアルトゥスが丹精込めて作った食事を、むさぼり、喰い荒らすのである。

 確かにその食べっぷりは見ていて気持ちが良い部分もあるが、しかしその凄まじい勢いには色気も何もあったものでは無く、クアルトゥスを驚かせた初回以降は、彼をげんなりさせる効果しか発揮していないのが実情だった。


「はあ……」


 クアルトゥスは出来上がって良い香りを漂わせている卵と塩漬け豚の炒め物を素焼皿に移しながら、今朝も繰り広げられた食卓の惨状を思い出して溜息を吐く。

 昨日中に取り分けておいたのがいけなかった。

 麺麭パニスと蜂蜜は昨日の内に、籠に入れて用意しておいたのだ。

 出来れば農作業が終わり次第、すぐに朝食を楽しみたいと欲を出したのが行けなかったようである。

 クアルトゥスの意図は、ユリアーネの食い意地によって容易く崩壊した。


 もう一度溜息を吐くクアルトゥス。


 そして、別の小さな鍋を取り出すと、そこに大麦と山羊の乳、更には一掴みの岩塩を入れ、さっきユリアーネから取り上げてきた蜂蜜の残りを少し入れてかまどの中心へ置く。

 しばらくすると、くつくつと鍋からものの煮える音と湯気が立ち、ほのかに甘い蜂蜜の香りと、香ばしい大麦、それに加えて乳の薫りが周囲に立ちこめた。

 クアルトゥスはすぐに細かき刻んでおいてある香草を、これまた一掴み採って乳粥へ入れる。

 山羊の乳は結構生臭いので、香草で臭気を和らげるのだ。


「まあ、これもたまには良いか」


 鼻をすんすんと軽く鳴らしてその香りを楽しみつつ、クアルトゥスがつぶやく。

 クアルトゥスが作っているのは、大麦の乳粥。

 少し焦げ目を入れるのがポイントであり、彼の好みである。

 火から外して最後にもう一度軽く蜂蜜を入れ、風味を増させるクアルトゥス。

 良い具合に香りを発している堅めの粥を別の素焼の深皿へ鍋から流し込み、続いて小さな深皿へ先程作ったスープをお玉で注ぐと、クアルトゥスは木製の平盆に3つの皿を置いてから、少し離れた場所に置いた。


 その後、かまどの中の薪を火掻き棒で崩して灰をかけ、始末を付けると、出来上がった朝食を持って広間へと向かう。


「……おい、これは俺の朝食だぞ」

「ずるいですクアルさんっ、そんなおいしそうな朝ご飯を自分だけ作るなんてっ!」


 待ち構えていた非難の視線と言葉。

 一旦は満足して食堂にもなっている広間を離れたユリアーネだったが、台所から発せられる美食の気配を察し、戻ってきていたのである。


「わ、私にも……」

「お断りだ、て言うかまだ喰うのかよ?」


 ユリアーネの食事量は、とうに成人男性の一食分を超えている。

 クアルトゥスの用意した麺麭パニスも、彼からすれば2人が1食で食べ切れるかどうかという位で、かなり大きめの物だったのだ。

 それをペロリと平らげたばかりか、今まだクアルトゥスの朝食をくすねようとしているユリアーネ。


 一体この蛮族娘の胃袋と食欲はどうなっているのだろうか?


「はいっ!是非!」


 クアルトゥスの呆れた言葉と様子にめげた様子もなく、ユリアーネは良い笑顔で元気よく答える。

 しかしクアルトゥスは渋面のまま苦々しく言葉を継いだ。


「せっかく用意した麺麭パニスを全部喰いやがって。お嬢には遠慮というものが足りない」

「……エンリョってなんでしょうか?」

「そういうのは、まあ、分かってたけどな」


 あざとい表情でわざとらしく言うユリアーネをつぶやくだけで軽く無視し、クアルトゥスは席に就く。


「クアルさん!」


 たまりかねた様子でその向かい側に座り、いつの間に用意したのか、空の小さい深皿を目の前に置いてくるユリアーネ。

 もちろん、手元にはここへ彼女がやって来た時に与えた木製のさじがある。

 そんな健気とも取れる行動を平然と受け流し、クアルトゥスはさじを粥に差し入れた。


「あああ~っ!?」


 思わず立ち上がり、悲鳴を上げるユリアーネ。

 全く自分に分け与えてくれる様子が無い事を、その迷いの無い動作から見て取ったのだ。

 そのままさじをゆっくり口へと運び始めるクアルトゥス。

 ほのかに漂い来る香りがユリアーネの食欲を刺激し、その口元に唾を貯める。

 盛大な音と共に喉を鳴らし、たまった唾を飲み込むユリアーネ。

 しかしクアルトゥスの手は止まらない。


「ああ、あああんっ!ああ~っ」


 続いてユリアーネの口から悲鳴が上がる、悩ましげな悲鳴に、さじを口に運びかけていたクアルトゥスが、深い溜息を吐いた。

 そして、ようやくその手を止めてから、目の前のユリアーネを見る。

 必死に頷きつつ、目を輝かせながら自分の皿を差し出す彼女を見て、クアルトゥスは脱力した。


「お嬢……そんな喰いたいのかよ」

「ぜひっぜひっぜひに!」


 今このチャンスを活かさなければ、このままクアルトゥスは食事を再開してしまう。

 今しか無い。

 その思いがユリアーネを突き動かしているのは明白だ。

 しかし……


「たかだか山羊の乳粥だぞ?こんな田舎料理、お嬢だって普段から食べていただろ?」


 クアルトゥスの言うとおり、乳粥自体は特別珍しい料理では無い。

 ローマにおいてもどちらかと言えば庶民的で粗末な料理の部類に入るだろう。

 もちろん、ゲルマン人達も食することがあるだろうし、製粉技術の未熟な彼ら蛮族からすれば、麺麭パニスの方が貴重品で、大麦や小麦を粒のまま煮たり炊いたりして食べることの方が一般的だ。

なので、ユリアーネからすれば、むしろ普通の食べ物となるだろう。 


「違います!それは違います!」


 そう言ってから、ユリアーネはびしりとクアルトゥスを指差し、それからその目の前におかれておいしそうな湯気を登らせている、乳粥をびしりと指さし直して言葉を継ぐ。


「クアルさんのは特別においしいからです!本当においしいからです!」

「2回言わなくても聞こえてるよ」

「いいえ、いいえ!クアルさんは自分の料理の美味しさを分かっていません!」


 げんなりした様子で言葉を発したクアルトゥスに再び指の先を戻し、ユリアーネは力説した。


「新鮮な山羊の乳の風味を消さず、臭みを飛ばす香草の絶妙な使い方。蜂蜜の甘さとわずかに焦がした大麦の香りが素晴らしく調和し、最後に足された微量の蜂蜜が、甘味と甘い香りを引き立てています。そんな美味で人肌の暖かさにまで冷まされた粥が、私の喉を滑り降りるのですから」

「お嬢はローマで食の評論家になれそうだな……て言うか、お嬢が食べるの前提かよ?これは俺の朝食だぞ」


 さりげなく、実にさりげなく自分のさじをおいしそうに湯気を立てている乳粥へ差し入れようとしているのを見て取り、クアルトゥスはすっと盆ごと自分の手元へ用意した朝食を下げた。


「ああ~ん」

「さっきから言っているが、これは俺の朝食だ」


 空を切る自分のさじの先を見て、悩ましげな声を上げつつ絶望の表情を浮かべるユリアーネ。

 クアルトゥスが疲れた様子で言い返す。

 しかしいい加減この遣り取りにも疲れてきたクアルトゥスは、ぱっとユリアーネの前にあった空の皿を取り、自分のさじで乳粥の3分の1ほどを取り分けて差し出す。


「あっ!?本当ですかっ!?やったあ!」


 その行為を途中で見て、ユリアーネは躍り上がらんばかりに喜んだ。


「これで終わりだぞ……て、聞いちゃいないか?」


 いつもどおりだが、差し出された皿を素早く引き寄せて抱え込み、拙い、と言うか乱暴なさじ使いでがつがつと食事を始めるユリアーネ。

 その姿を目にする度、見かけのたおやかさとは裏腹に、彼女が蛮族である事を思い出してしまうので、妙な気分も起きなくなる。


「う~っ、おいしいです、おいしいです~」


 蜂蜜入りの乳粥をいっぱいに頬張り、とろけるような笑顔と共に感想をうわごとのように述べるユリアーネに、クアルトゥスは苦笑を返す。

 そして自分も席について、ゆっくりと粥を口へ運んだ。

 香草が上手く山羊の乳の臭みを消しており、生臭さは一切無い。

 熱すぎず、冷たくも無い感じで、温かさも丁度良い。

 焦がした大麦と最後に加えた蜂蜜の甘い香りが乳製品の良い香りと混じり合って、クアルトゥスの鼻腔を幸福感を持って通る。

 少し固めに、しか芯は完全にとろけた大麦の粒が、ぷりぷりと歯に潰される感触。

 そして咀嚼が終わった粥が、クアルトゥスの喉を通る時、粥として確立された芳香がクアルトゥスの鼻腔を抜けていく。

 その味と香り、歯ごたえを存分に楽しんでから、クアルトゥスは感想を漏らした。


「ふむ、まあまあだな」

「まあまあなんてっ、とんでもないです!」


 続いてスープとおかずに作った、卵と塩漬け蓋の炒め物へ移ろうとしていたクアルトゥスを制止するかのように、ユリアーネが絶叫した。


「お、おい」


 今までも食事時の奇行は枚挙に暇が無いユリアーネ。

 たった3日しか滞在していないのに、枚挙に暇が無いくらいだが、それでも絶叫することは無かった。

 せっかく食事を楽しんでいたクアルトゥスが、怒りを発するより先に戸惑うほどの剣幕で、ユリアーネはその美しい顔をテーブル越しにぐいっとクアルトゥへ近づける。


「な、何だよ?」


 驚いて身を引くクアルトゥスに、ユリアーネが空になった皿を差し出した。


「おかわりっ、下さい!」

「うるせえ!」

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