二〇三九年八月〇九日 一六時三〇分
防衛省市ヶ谷地区 内閣安全保障局本部
地下二十階 特務作戦群管理部
4
無駄に時間だけが過ぎていく。
最初のうちこそメディアも秋葉原の件について喧しく報道を続けていたが、今では秋葉原の『あ』の字も出てこない。
しかも、こちらの調査の進捗は捗々しくなかった。
的が判らなければ動きが取れない。
宮崎課長を通じて公安を煽っても、返ってくる答えはいつも『現状では進捗なし』、だ。
気が付けばカレンダーは八月を過ぎていた。
途中、別の任務が入ったために気は紛れたが、秋葉原の爆破事案は俺の心の中で澱みのようにわだかまっていた。
しかし、変化は突然に訪れた。
いつもの課業。今日はジムでの筋力トレーニングだ。
俺がベンチプレスマシンで一三〇キロに挑戦している横では、黄色いバランスボールの上に立ったマレスが、一つ五百グラムのグリップボールを五個使ってつまらなそうにジャグリングしている。
バランスボールの上に座るだけでもコアマッスルはかなり鍛えられる。そのバランスボールの上に立ち、さらに重いシリコンのボールをジャグリングしているのだ。ただ事ではないバランス能力だ。
「これ、結構おなかに来ますね」
ジャグリングの順番を変えながらマレスが言う。
俺は答えられない。百三十キロは新記録なのだ。とても声を出せる状況にはない。
「……あ、ああ……」
それでも一応返事をする。
背骨がギシギシと音を立てる。もう少しで持ち上がる。
その時、ジムの入り口から
「沢渡君? いるかね?」
と宮崎課長の声がした。
「……マ、マレス、補助を……」
「はーい」
マレスは片腕で五個のシリコンボールを受けると弾みをつけてバランスボールから飛び降り、バーベルをラックに戻すのを手伝ってくれた。
「どうしました、こんな汗臭いところに」
まだ痛む肩を回しながら宮崎課長に歩み寄る。
宮崎課長はいつもと同じグレーのスーツに身を包んでいた。
片手をジムのドアにもたれ、脂に汚れた眼鏡でジムの中を見回している。
「君たちは、いつもこんな筋トレをしているのかね?」
「一日置きです。毎日やると筋肉が痛んでしまいますんでね」
「なるほどね。私には無理そうだな……ま、それはともかく、君に珍客だよ」
「珍客?」
マレスが渡してくれたタオルで額の汗をぬぐう。
「警視庁の高畠警部だよ。なにやらえらく慌てた様子で飛び込んできた。君に保護を求めたいんだそうだ」
+ + +
「旦那よ、保護ってどういうことだ?」
取りあえずバカ畠は地上階の応接室に通されていた。
公安といえども地下に入れる訳にはいかない。かといって邪険にするわけにもいかない。地上二階の応接室はその点うってつけだった。
「そりゃあなた、言葉通りの意味ですよ」
大きなソファにゆったりと座った高畠はにっこりと笑った。
だが、いつものように目が笑っていない。
どこか、切迫した雰囲気がある。
背後にはこれまたいつものように香坂静音が寄り添っていた。
今日は黒いジャケットに黒いスラックス、下は襟付きの赤いビスチェだ。丈の短いビスチェとスラックスの隙間で臍につけたピアスが光っている。
つくづく、腹を出したがる奴だ。
「私たちの身体の保護をお願いしたいんです」
「でも、誰から?」
とマレス。平服――水色のストライプのシャツにチノパンという出で立ちだ――に着替えたマレスは涼しげに見える。
「ま、長い話なんですがね、」
紙コップではない、ちゃんとした陶器のティーカップから音を立てて紅茶をすする。
「これは、安いお茶ですなあ。香りが全然ない。色つきのお湯みたいですねえ」
「お茶が出るだけ有り難く思ってほしいものだね。何しろ招かれざる客だ」
こんな奴、紙コップに入れた水道水で十分なのに、総務の連中が妙な気を利かせてお茶を出してしまったらしい。
「お茶を淹れ直しましょう。……静音、お願いできるかな?」
「はい」
香坂は手際よく紅茶の葉を計量すると、傍に置かれた銀色の壺のようなようなものからティーポットにお湯を注いだ。
「旦那、それはなんだ?」
「サモワールですよ。昔、ロシアの取引先からもらったんです。銘品ですよ」
「そんなことは訊いてない。なんで、それがここにあるのか訊いているんだ」
「持ってきたんですよ。手放せなくてねえ」
上品にお茶を注ぐ香坂からティーカップを受け取ると、下品に音を立てながら紅茶を啜る。
「静音、ジャムはあるかね?」
「もちろん」
香坂はテーブルに置かれていたブルーベリージャムの瓶を開けると、一匙、バカ畠のティーカップにジャムを入れた。
「ああ、いい香りだ。お茶はロシアンティーに限る」
再び音を立てながら紅茶を啜る。
ブラッディ・ローズ Level 2.0『報復執行機関』 蒲生 竜哉 @tatsuya_gamo
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