二〇三九年七月十八日 〇五時〇〇分

世田谷区北沢四丁目

コーポ霧崎三〇四号室



 自分でも信じられないことだが、熟睡してしまった。

 こんなに深く寝たのは久しぶりな気がする。

 俺はいつもの時間に目を覚ますと、隣で安らかな寝息を立てるマレスを起こさないように気をつけながら、ベッドの足元側から下に降りた。

 ベッドではマレスが黒い毛玉のようなアルを胸に抱いて熟睡している。

 俺は棚からトレーニングパンツと新しいTシャツを取り出した。

 毎朝走るのはもはや朝の流れの一部になっていた。雨が降っていても、あるいは雪でもこれは変わらない。台風が来ているときはさすがに走れないが、そういうときは必ず、まるで何か重大な事を忘れているかのような不快な気持ちが長く続いてしまう。どこか、落ち着かないのだ。

 軽くストレッチしてから笹塚方面へ。

 街はまだ起きていない。天然酵母を自慢にしているパン屋の厨房に灯が点っている程度だ。

 ほとんど車の走っていない井の頭通りを横断し、消防科学研究所の角を右に曲がって代々木大山公園へと向かう。

 朝の大気は冷たく、微かに湿り気を帯びていて気持ちが良い。

 軌道空母の居住区には円筒形のジムが備えられていた。中心には各種の筋力トレーニングマシンが集約され、外周はランニング用の走路になっている。

 無重力下の走路を走るのには少々コツがいる。最初はふわふわと頼りないが、何回か走路を蹴るうちに徐々に遠心力で身体が走路に押し付けられる。そうなったらしめたものだ。

 速度を上げれば遠心力は強まり、速度を下げれば身体は軽くなる。

 軽くなりすぎると走路から身体が離れてしまうが、そうなったら再び速度を上げればいい。

 だが、常に重力が一Gの地球上では速度で負荷をコントロールすることができない。

 そのため、俺は坂道を負荷強化のために利用していた。

 下り坂ではスピードを緩め、上り坂では全力で走る。

 下り坂で速度を上げ過ぎるのは禁物だ。膝に負担がかかるし、速度が上がりすぎて転んでしまう危険もある。

 逆に上り坂は気楽だった。いくら速度をあげても転ぶおそれはないし、負荷も掛け放題だ。

 全速力のまま公園のゲートを抜け、そのまま右からランニングトラックへ入る。

 エンジ色のタータン舗装が施されたランニングトラックは柔らかく、トラクションも適切で走りやすい。

 早い時間にも関わらず、トラックにはジョギングに勤しむ人々がまばらに走っていた。ほぼ、全員顔見知りだ。

「やあ、おはよう」

 すれ違いざま、七十は軽く超えているだろうと思われる老人が俺に右手を上げる。

 こういう近所付き合いはいいものだ。

 名前も知らないし、どこに住んでいるかも判らない。だが、毎朝挨拶を交わす。

 過度な干渉も、関わり合いもない。いなくなったらそれまでだ。しかし、それなりに社会的な環境を提供してくれる。

「おはようございます」

 俺は振り向きながら老人に手を振りつつ、全速走行に入った。

 膝を高く保ち、できる限り速く走る。

「ハッハッハッハッ……」

 いつの間にかに白いジャージ姿の少年が背後に付く。

「おじさん、今日は負けないよ」

 陸上部の長距離選手だという少年が俺の後ろで綺麗なフォームを描く。

「へえ?」

「負けないよ、俺今日は調子がいいんだ」

「ほう? じゃあ、勝負だな」

 俺はさらに速度を上げると少年を振り払いにかかった。


 少年を振り払うのに十五周かかった。以前は五周もあれば視界の外に追い出すことができたのだが、大した進歩だ。

 公園内のトラックを全速でさらにしばらく回った後、同じ出口から飛び出して代々木上原の駅までの下り坂を軽く流してクールダウン、井の頭通りを登って東北沢へと戻る。

 一時間のあいだにだいぶん街は目覚めている。

 早出するサラリーマンを追い越し、開店の準備をしているパン屋の前を通り過ぎる。

 車の数も増えてきた。

 これから、一日が始まる。今日も天気は晴天だ。すでに日差しが強くなり始めている。ビルの隙間、東の空から差し込む朝日が眩しい。

 鳴き始めた蝉の声を聞きながら家の前に戻ってきた時、Tシャツは汗で重く濡れていた。

 階段で足音がしないように気をつけながら三階に上がる。

 近距離通信と暗証番号の両方でロックされているドアのキーパッドに六桁の数字を打ち込み、俺は静かにドアを開けた。

 家に入ってもアルが出てこない。どうやらまだマレスと寝ているようだ。

 俺は音を立てないように気をつけながら浴室に入ると、いつものように頭からシャワーを浴び始めた。


+ + +


 驚いたことに、俺がシャワーを浴びて着替えた後もまだマレスは安らかに就寝していた。

 さすがにシャワーの水音で目覚めると思ったのだが、その程度ではマレスの安眠を妨げることはできなかったらしい。

 時計の針はそろそろ六時に近づこうとしている。

 仕方なく、マレスを起こすことにする。

「マレス、おい、寝ぼすけ、起きろ。もう六時だ」

 膝を叩いてマレスを起こす。

「……んあ?」

 マレスが片目だけを薄く開ける。

「……あと、五分」

 アルを抱きしめ、再びまぶたを閉じる。毛布の中で丸くなる。

「あと五分じゃない。もう六時だ。あと四十五分で出ないと間に合わないぞ」

「……はい……ふわあ」

 寝ぼけ眼でマレスがベッドから起き上がり、大きく伸びをする。

 ベッドから追い出されたアルがなにやら猫語で文句を言いながら下に飛び降りる。

「戻らなくていいのか? クリスが起きるだろう?」

「……大丈夫、クリスおじさまが起きるのは八時すぎだから。……んーッ」

 マレスはベッドに座ると、もう一度大きく伸びをした。

 開いたパジャマの隙間から白い肌がかすかに覗く。

「和彦さん、今日は一緒に行きましょ? いつも和彦さん、いつの間にかに一人で行っちゃってるんだもん」


 二人で急いでグラノーラとベーコンエッグ、炒めたキャベツとソーセージを乗せたトーストを食べて家を出る。

 アルはマレスからラミネート入りのキャットフードを振舞われてご満悦だ。ここからでもゴロゴロと喉を鳴らす音が聞こえる。いつものキャットフードと変わらないのだが、今日は冷蔵庫から出した鰹節をマレスがトッピングしたのが効いたようだ。

 マレスの身支度は速かった。

 もともと薄化粧でせいぜい口紅を差す程度のようだったが、それにしても速い。自宅に入って五分もしないうちに身支度を済ませて飛び出してくる。服装はいつものカーキブラウンのチノパンツと今日は青いチェックの半袖シャツだ。頭にはエクストラ・オーディナリーズのベースボールキャップを被り、柔らかそうな栗色のポニーテールを垂らしている。

「さー、行きましょう、和彦さん」

 右手に持った白いボトルの中身を腕に塗りながら元気よく歩く。

「マレス、そりゃなんだ?」

「紫外線対策。夏は紫外線が強いから」

 マレスはSPF50と大きく書かれたボトルを俺に見せた。

「和彦さんも、塗る?」

「塗らない」

 俺は左手で遮ってそれを断った。

「でも、鼻だけでも。Tゾーンって大切らしいですよ」

 マレスが人差し指から白い液体を垂らしながら俺に迫る。

「いらん。男が日焼けを気にしてどうする」

「もう」

 マレスは頬を膨らませると人差し指の日焼け止めを手の甲に塗り広げた。

「皮膚ガンになっちゃいますよ」

「なったら考える」

「それじゃあ遅いんですよう。皮膚ガンって怖いんですよ。最近どんどん増えてるし」

 再び日焼け止めを片手に取り、マレスが俺に迫る。

「おい、止めろって」

 日焼け止めを塗る塗らないの攻防戦を繰り広げながら、俺たちは東北沢の駅へと向かった。

 

 市ヶ谷地区の朝は早い。

 営内の起床時間は六時だ。六時三十分に朝食、清掃後八時から課業が始まる。

 従って営外居住の俺たちも七時三十分頃には本部に着いていないといけない。最悪八時に滑り込みでも問題はないのだが――マレスはいつもその口だ――、早く着くに越したことはない。

 レディ・グレイの一件以降、俺たちは『クーリングダウン』ピリオドに置かれている。事案解決後一ヶ月は課業に専念し、特別なことでもない限り、新たな任務が与えられる事はない。そのあいだに充電して次の任務殺し合いに備えよという局の配慮だ。必要な場合には心療カウンセラーの治療セラピーも受けられる。

 今日の午前中の課業は筋トレと持久力トレーニング、午後は徒手格闘訓練、それに射撃訓練に当てられていた。

「そろそろ時間だ。マレス、トレセンに行くぞ」

「それなんですけど、和彦さん、一つお願いが」

 マレスがどうした訳かモジモジと身を捩る。

「お願いって、なんだ?」

「今日の課業は局内探検にしませんか?」

「あ?」

 探検? 確かに本部局舎は地下の要塞だが、ダンジョンではない。

 いまさら探検って、何を言い出すんだ?

「だって、わたしもうここに来て一ヶ月になるのに、まだ誰も中のこと教えてくれないんだもん。和彦さん、案内して?」

「なんだ、山口の野郎、まだ案内してくれてないのか」

 あの野郎、インダクショントレーニングばかりか、局内案内までサボりやがった。

 確かに、局舎の中を全部知る必要はない。だが、中をもっと見てみたいというマレスの気持ちも良く判る。

「まいったな」

 思わず後ろ頭に手が伸びる。

「で? 何を見たいんだ?」

「全部?」

 マレスがニコニコと笑う。

「おまえ、全部ったって、局舎全部か? 初日に必要なところは見せただろう」

 さすがに呆れて嘆息する。

 このバカでかい局舎をいちいち見て回るつもりなのか? しかも、地下三十六階と三十七階は機械室だ。俺だってそんなところは見たことがない。

 迷っている俺を見て、さらにマレスが言い募る。

「あれじゃあ、全然全部じゃないじゃないですか。二十階と二十一階はもう何回も行ってるからだいたい判りましたけど、あとわたしが行ったことがあるのって十五階の射撃訓練場とキル・ハウス、二十三階のトレセン、あとは二十七階の山口さんのところとクレア姉さまの居る三十四階の装備開発部くらいだもん。全部見たい」

 そんな顔をされたら逆らえない。

「仕方がないな」

 少し考えてから、俺は折れた。

 マレスの持久力は俺と同レベルか、下手をすればそれ以上だ。筋力に劣るものの、確かにアウターマッスルをあまり鍛えすぎるのも考え物だ。

「しょうがねえなあ。マレス、駆け足になるぞ」

「やった」

 目の前で嬉しそうにマレスが飛び跳ねる。

 まったく。子供じゃないんだから、飛び跳ねるのはやめた方がいい。あとでクリスに言っておこう。

「仕方がない。午前中の課業は中止して、ちょっと散歩に行くか」

 嬉しそうなマレスを引き連れ、俺は基幹エレベーターへと向かった。


+ + +


 結局、下から局舎を見て回るだけで午前中は終わってしまった。途中、山口の巣を潰し、三人でルディーズでのランチから帰ってくるとすでに時計は1時を回っていた。

「マレス、午後は通常課業に戻るからな」

 まだ『探検』を続けたそうにしているマレスに念を押す。

 今日の午後の課業は前半が徒手格闘訓練、後半は射撃訓練に当てられていた。

 徒手格闘訓練は地下二十四階の戦技シミュレーションルームに併設された純和風の道場で行うことが多い。

 地下に作られたとは思えない実にトラディショナルな作りの道場で、壁面は板張り、フロアも剣道場の様にちゃんと無垢の杉材を敷き詰めた板間になっている。正面には日本神道伝統の神棚と鏡が祀られ、壁には桟の入った窓まで作られていた。

 街の道場と異なるのは天井に吊るされた複数のカメラ、それに道場の一角に作られた用具置き場――ここには竹刀ではなく、ペイントボールガンとオートローダーを兼ねたガンラック、それに天井のカメラ等を操作するためのコンソールが設えられていた――位だ。


+ + +


「気が乗ってないみたいですね」

 床に転がった俺に片手を差し伸べながら、マレスは俺に言った。

「ああ……すまん」

 俺の道着の前面はペイントボールで赤紫色に染まっていた。

 ルールは五発。手段を問わず、先に五発ペイントボールを当てた方の勝ちだ。

 五回やって一勝四敗。マレスとやって僅差で負け越すことはあったが、こんな大負けは初めてだ。

 俺は赤く染まった面防をはずすと、ペイントボールガンをガンラックに戻した。

 小さな作動音を立て、自動的にペイントボールの再装填が始まる。

「昨日の件?」

 後ろからついてきたマレスがぺたんと横座りになり、下から俺に尋ねる。

「ああ」

 たぶん、そうだ。

 あの爆発が気になってならない。

「だったら……」

 マレスは宙を仰ぎながら顎の下に人差し指を添えた。

「宮崎課長に相談するといいかも。あの件の担当に当ててもらえれば少しは落ち着くんじゃないですか?」

 確かにそうだ。

 クーリングダウン中でも調査はできる。

「そうだな……後で宮崎課長に会ってみるよ」

 俺はマレスに言った。

「それがいいと思います」

 マレスが頷く。

「沢渡よー」

 気が付くと道場の入り口には望月がいた。山内も一緒だ。

 見れば時間はもう三時を回っている。そういえば夕方は望月たちも道場を使う予定になっていた。

 どうやら最後の一戦の一部始終を観戦していたようだ。

 にやにやと薄ら笑いを浮かべている。

「お前、姫に甘いんじゃねえか? 沢渡がこんなにコテンパンにされるの初めて見たぞ」

「そんなことはないですよ。この前なんて肩抜かれちゃったもん。和彦さんは手加減ってものを知らないんです」

「すぐにはめてやったじゃないか」

「そういう問題じゃないです。『いけね、外れちゃった』っておもちゃじゃないんだから。あのあと、テーピングしたりいろいろ大変だったんですよ」

「酷い奴だなあ、沢渡」

「そう、ひどいんです」

 マレスが両手を腰に当てて望月に同調する。

「ふーん」

 ふいに道着姿の望月がゆらりとこちらにやってきた。

 ぐい、と両手で襟元を引き締める。

「本当に不調みたいだな。こりゃあいい。じゃあ沢渡、一局お願いしようかなあ」

 ゴキゴキと肩を鳴らしながら用具棚から面防とペイントボールガンを取り出す。

「五発ルールだったっけ?」

 ペイントボールガンのボルトを引き、初弾を装填する。

 仕方がない。

 俺も面防を被りなおすとガンラックのペイントボールガンを握った。

「よし、やろう。腹いせだ」

「八つ当たりじゃねえか……山内、録画しとけ。俺の記念すべき第一勝だ」

 望月が山内に言う。

「へいへい」

 山内は立ち上がると用具置き場の隣のコンソールを操作し、カメラを起動した。

 すでに道着の紫色のペイントは酸素と反応して色が薄くなり始めていた。

 道場の中央で礼。

「ルールはアリアリでいいんだよな?」

 望月が不敵に笑う。

 アリアリ。フルコンタクトあり、関節技あり、の意味だ。

 望むところだ。

「殺す気で来い」

 俺は、望月に言った。

「もとよりッ」

 言うなり望月が低い姿勢でダッシュする。同時に一発目を射撃。

 俺もほとんど同時に飛び出すと、ペイントボールをギリギリで躱しながら望月の額に向けて右膝を突き出した。

「うおッ」

 望月が左手を使って俺の膝蹴りを危うく去なす。

 俺はその左手を掴むと望月の身体を強引に引き寄せ、すかさず左膝を繰り出した。

 望月だったら殺しても死なないだろう。何しろレンジャー徽章持ちだ。手加減するとこちらが危ない。

 腕を引きながらわき腹に膝を打ち込み、すかさずリバースの飛びつき肘固めに持ち込む。

「おらあッ」

 関節が完全に極まる前に気合い一発、望月は力任せに俺の身体を床に叩き付けた。

 そのまま回転し、わき腹に射撃。

 俺は二発目が着弾する前に手を放すと片手でバク転して距離を取り直した。

 回転しながら下から二発、望月の面防を狙う。

 一発は当たったが、二発目は際どく躱された。

「お互い、五発当てるのは難しそうだな」

 態勢を立て直しながら望月が言う。

「じゃあ、ルールを変えるか。もう一つ条件を追加して、先に行動不能になった方が負けっていうのはどうだ?」

 俺は望月に提案した。

「五発当てるか、相手を潰すか、どっちでもいいって事か」

 面防の中で望月が舌なめずりする。

「いいねえ。その方が痺れるぜ」

 ペイントボールガンの装弾数は十三発。望月の残弾は十発、俺は十一発。

 じり、じりり、と望月が摺り足でこちらの様子を伺う。

 俺はふいにペイントボールガンを望月の頭上めがけて放り投げた。

「あ?」

 思わず望月がペイントボールガンの行方を目で追う。

 俺はダッシュして一気に間合いを詰めると、ペイントボールガンが床に落ちるよりも早く望月の背後に回り込んだ。

 そのまま両腕で望月の身体を掬い上げ、頭から背後に叩き落す。

 望月の肩が板間の上で硬い音を立てる。

「グゥッ」

 望月の口元から苦し気な声が漏れる。

 立ち上がろうとするが、脳震盪を起こしたのか脚が利かないようだ。一瞬身体を起こし、再び大の字に倒れ込む。

 俺は足元に落ちてきたペイントボールガンを拾い上げると、まだ脳震盪を起こしている望月の顔面に残弾を全弾斉射した。

 一瞬で望月の面防が真っ赤に染まる。

「俺の勝ちだな」

 床に転がっている望月に俺は上から声をかけた。

「お、おい、沢渡……」

 ペイントボールの赤い弾痕の隙間から、焦点の合わない目で俺を見上げる。

「なんだ?」

「そ、そういうのは……やめろ。死んじゃうから」

 言うなり、望月は失神した。


+ + +


「しかしだね、沢渡」

 宮崎課長は嘆息すると俺に言った。

「この案件はまだテロ事案ではないのでね。うちでは扱えない」

 望月を片付けた後、シャワーを浴びた俺は宮崎課長の居室へと赴いていた。

 先に行ったマレスは予定通り十五階の射撃練習場で新しいブースターを試しているはずだ。午前中に装備開発部の小沢に騙されて百五十発近く撃ったはずなのだが、その程度なら支障はないという。

 普通の人間だったらハンドガンを百発も撃てば腕がガクガクになってしまう。さすがの持久力だ。伊達に世界中の戦場を連戦してきてはいない。

「しかし、これはいずれテロに格上げされると思いますよ」

 俺はなおも食い下がった。

 俺が宮崎課長の決定に食いつくことはめったにない。

 彼の決定は常に理性的で合理的だ。反対する理由はない。

「君がこだわる理由は私にも充分判る。だがなあ」

 宮崎課長は再び嘆息した。

「私にも出来ることと出来ないことがある。例えば、クレア君はほとんど君の専任だ。私がそうしているからな。霧崎君もそう。あの二人を君以外の誰かに充てる気は、少なくとも私にはない……だが」

 宮崎課長が脂でよごれた眼鏡をずらし、組んだ両手に顎を載せた。

 上目遣いに俺を見つめる。

「不確定案件を君に回すのはさすがに不自然だとは思わないかね? 私も組織の一員だ。訳の判らないことをするわけにはいかない」

 気を許したとき、宮崎課長は丁寧語を使わなくなる。

 ともすれば粗雑にも聞こえるこの言葉は、恐らく宮崎課長の本心なのだろう。

 宮崎課長の言い分は痛いほど良く判る。

 結局のところ、俺たちは組織の一員だ。殺るにしても狩るにしても、それは政府が許可したターゲットに限られる。気に食わないものを誰でも彼でも狩り出して殺すわけにはいかない。

「判ります……ご配慮、ありがとうございます」

 俺は、宮崎課長に頭を下げた。

「今は我慢してはくれないかね、沢渡。少し待ってみようじゃないか。私もあの件はいずれこっちに来るとは思っているんだ」


「ところで沢渡君?」

 背中を向けたとき、背後から宮崎課長が声をかけた。

「はい?」

 首だけを巡らせる。

「君、秋葉原の騒ぎは聞きましたか?」

 まさか。

「いえ」

 しらを切る。

「そうか、君はテレビを見ないんだったな。いえね、最近は秋葉原も物騒なようでねえ。先週の土曜日に十五人ほど不良少年が重傷を負わされたようなんですよ、それも一瞬で。怖いところですね、秋葉原は。警察によれば全員一ヶ月から三ヶ月の重傷だそうです。全身骨折して見るに堪えない姿になったらしい。どうやら小型竜巻にでもやられたようだね」

 背後で宮崎課長がニヤニヤ笑っているような気がした。面白がっているような空気が漂っている。

 だが、光っている眼鏡のため宮崎課長の表情は読み取れない。

「そうですね。しかし、今時の東京はどこでも物騒ですよ」

 俺は辛うじてそれだけ答えた。

「まあ、それはそうだ。私も秋葉原に行く時はせいぜい気をつける事にします。下の息子がね、秋葉原が好きでね。そうだな、霧崎君に護衛を頼むといいかも知れんね」

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