二〇三九年七月十七日 一六時〇五分

防衛省市ヶ谷地区 内閣安全保障局本部

地下二十一階 特務作戦群居室



「つまり……」

 クレアはどことなく刺のある言い回しで俺に尋ねた。

「要約すると、和彦がマレスと楽しく秋葉原でデートしていたら爆発事件に巻き込まれたと、まあそういうことですね」

「なんでそうなる? クレア、俺の話をちゃんと聞いてたか?」

「はいクレア姉さま、だいたいそんなところです」

 憤慨する俺の隣でマレスがにこにこと笑う。

「あのなマレス、お願いだからもうこれ以上騒動を増やすな」

 思わずマレスを睨みつける。

 だが、マレスはにっこり笑うと、俺にぱちんとウィンクを返してきた。

 まったく、何を考えているんだか。

「ともあれ、話は判りました。この事案は私も気になったので少し調べておきました」

 クレアは自分のターミナルを操作すると、大型モニターに秋葉原の地図を表示させた。

 今日のクレアはクリーム色のスーツを身にまとっていた。膝丈のスカートにクリーム色のジャケットがよく似合っている。シンプルなデザインの青いブラウスはきっと冨田の趣味だろう。

「使われたのはおそらくトリメチレントリニトロアミン、|リサーチ・デベロップメント・エクスプロッシブ《RDX》のコンポジションです。いわゆるプラスティック爆弾ですね」

 背面の大型パネルの表示が秋葉原の駅前にズームインした。

 爆発が起こった場所だ。

 衝撃波の外縁を示す円が広がるにつれ、地図の上に被害が次々とプロットされていく。途中の路地で波が干渉、回折し、衝撃波の外縁がどんどん複雑な形になっていく。

 クレアは最後に大きな同心円を再描画した。中心は中央通りにある中古パソコン店舗だ。

「被害が発生した時間と爆心からの距離で大体の爆速が計算できます。警視庁の見立てでは爆速は秒速八キロメートルです。これはRDXの爆速と一致します」

「被害規模から想定される爆薬の量はどれくらいだ?」

「かなりの量です。おそらく合計で百キロ程度です……でも、問題はそこにはありません」

 クレアは椅子を回すと俺を見つめた。

「これだけ大規模な爆発だったにも関わらず、現場からジメチルニトロブタンが検出されていないんです」

「ジ、ジメチルメトロブタ?」

 マレスが舌をもつらせながら難しい顔をする。

「ジメチルトロブタだ、マレス。爆発物マーカーの事だ」

 俺はマレスに教えてやった。

「でも、それがどうして問題なの?」

 まだマレスが不思議そうな顔をしている。

「理由は二つあります」

 クレアはにこりと笑うとマレスに向けて指を二本立てた。

「まず一番の問題は爆発物マーカーの混入されていないプラスティック爆弾は見つけることができないという点です。たとえ現在考えうる最高の爆発物センサーを使ったとしても、この爆弾の発見は不可能です。センサーは爆発物マーカーを探している訳で、RDXや可塑剤には反応しませんからね。そしてもう一つの問題は」

 クレアは首を巡らすとじっと俺を見つめた。

「爆発物マーカーが検出されていないという事実が、この爆発物がホームメイドである可能性を示唆する点です。もちろん、ホームメイドとは言ってもこの量をキッチンでは作れません。何かトリックが隠されています。百キロものプラスティック爆弾を一軒の中古パソコンショップに持ち込むのも難しいはず。おそらく、国内、それも現場のすぐそばで生産されています……和彦、似ているとは思いませんか? これは、“あの時”と同じです」

 全身に鳥肌が立つような気がした。

 一気に身体の芯が冷たくなる。

 背中が強張り、冷や汗が流れる。

「……クレア、涼子の事を言っているのか?」

「はい」

 クレアが暗い表情を浮かべながら静かに頷く。

 確かに、そうだ。

 この攻撃は、涼子の時と似ている。

 俺の様子を無表情に見つめながら、クレアは再び口を開いた。

「現時点ではこのケースはまだ単なる爆破事案です。テロと断定されていない以上、私たちは活動できません。これ以上の捜査介入は不可能、これはまだ警察の案件です。和彦がこの件にこだわる理由はわかりますが、これから先のことは週明けに宮崎課長に相談するほうがいいですね」


 クレアを三十四階に送った帰り道、基幹エレベーターの中。

「あ、あのね、和彦さん。聞いちゃいけないのかもなんですけど、あの時って何?」

 不安そうな表情でマレスが俺の顔を覗き込む。

 言わなくてもいいことは判っていた。

 言わなくても、きっとマレスはそれ以上尋ねることはないだろう。

 だが、それはなぜかいけない事の気がして、気づくと俺はマレスに答えていた。

「クレアは、俺の妹が亡くなった時の事を言っているんだ。俺の妹はな、爆破テロで死んだんだよ、マレス」

 ふと胸が詰まり、思わず言いよどむ。

「涼子は爆死したんだ。俺の、目の前でね」


+ + +


 その夜。

 俺はひさしぶりにいつもの悪夢にうなされていた。

 夢だと判っているのに逃れられない。目覚めたくても目が覚めない。

 それは、俺が最後に涼子と出かけた時の夢だった。

 俺たちは渋谷の街から小田急線に抜けるために公園通りを歩いていた。NHKの横を抜け、公園の中を散策しながら代々木八幡の駅に抜けるのがいつもの散策ルートだった。

 路上駐車している車の横を擦りぬけるようにしながら、音もなく乗用車が公園通りの坂道を駆け上っていく。

 秋の透明な日差しがプラタナスの木漏れ日となって俺たちに降り注いでいた。日差しの割に冷たい風が爽やかだ。

『和兄、あのお店見てきてもいい? 子猫のキャットフード買わなくちゃ』

 それまで俺の肘を掴んでいた涼子が右手を放し、道路脇の瀟洒なペットショップを嬉しそうに指差す。

 いけない。そこに居てはいけない。

『ああ、いっておいで』

 自分の声が他人の声のように外から聞こえる。

『じゃあ、この子お願いね』

 涼子が抱いていた黒猫を俺に手渡す。

 猫は少し暴れたが、上着の懐に入れるとすぐに大人しくなった。

『待っててね。あなたのごはん買ってくるから』

 涼子が俺の懐から覗く黒猫の小さな頭をやさしく撫でる。

 お前はバカだ。

 涼子を行かせるな。涼子を止めろ。二人で逃げろ。

 そこはもうすぐ爆発する。

『すぐ戻るから』

 スマイリーマークが描かれた黄色いデイパックを揺らしながら、涼子が小走りに店に向かう。

 その時突然、ペットショップの隣のブティックが爆発した。

 白い閃光が周囲を満たし、すぐに爆風が追いかけてくる。

 飛散するガラスの破片が辺り一面をズタズタに切り裂いていく。

 巨大なハンマーのような爆風が俺の身体を吹き飛ばす。

 涼子の事を気遣う間もなく、俺の意識は一瞬途切れた。


 気がつくと、俺は全身ずぶ濡れの状態で尻餅をついていた。

「涼子?」

 あの時、涼子は俺から離れて店へと駆けていく途中だった。

 真っ赤に染まった手のひらを見る。

 湿った頬を片手で拭うと、そこにはなにかの肉片がこびりついていた。

 俺の全身に何かが絡みついている。このストライプには見覚えがある。涼子の着ていたブラウスだ。

 なぜだ?

 爆風で服が千切れたのだろうか?

 俺の腕に黒い髪がからみついている。

 俺の髪は、こんなに長くない。それに、肉片がついているじゃないか。

 なぜだ?

 痺れた頭で必死に最後の瞬間を思い出す。

 なぜ、ここに涼子の服がある? この髪は、誰の髪だ?

 認めたくない。

 信じたくない。

 足元は血の海だ。まるで墨汁でもぶちまけたかのように、赤黒い鮮血が歩道を覆っている。

 そこここに見えるゼリー状の塊は、骨片や肉体の破片だろう。

 周囲にいいようのない、不快なにおいが充満している。

「ナー」

 俺の懐で黒い仔猫がぶるぶると震えている。

 俺は再び周囲を見回した。

 周り一面血まみれだ。ガードレールや街路樹のプラタナスまでもが鮮血で赤く染まっている。

 なぜだ。

 長い腸が俺の足首に絡みついている。

 なぜなんだ?

 絡みついているのは人体の一部だ。俺の身体に付着しているのは粉々に砕けた人体だ。

 俺は再び両手を見つめた。

 右手の平には壊れたメガネのワイン色のツルが貫通している。

 これは、涼子の眼鏡だ。

 これは、涼子だ。

 この肉片は、元涼子だった物体だ。

 涼子は粉々に粉砕され、血と、肉と、骨片に分解されていた。

 俺は涼子を全身に浴びていた。


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「――ッ」

 絶叫しながら、俺は自分の声で目を覚ました。

 全身が汗で濡れている。

 俺は脂汗の流れる顔を両手で拭った。

 右手には今も醜い傷跡が残っている。頬の傷もその時にできたものだ。

 身体は癒えた。

 だが、まだ傷は残っている。

 この夢を見るのは久しぶりだ。

 しばらく見なかったので安心していたのに。

 トラウマが、帰ってきた。

 再び、恐怖が帰ってきた。

「……クソッ」

 思わず、両手で顔を覆う。

 嫌な、夢だ。

 ぱたぱたというサンダルの音。

 トントントン。外からノックの音。

『和彦さん?』

 懐かしい、マレスの声。

『テレビ見てたらなんだかすごい声が聞こえたんですけど、大丈夫?』

「あ、ああ。大丈夫だ」

 俺はマレスに答えて言った。

『開けてもいい?』

 今やマレスは俺の家の大家だ。当然鍵を持っていてもおかしくない。

 だが、マレスは俺の部屋の鍵を交換しなかった。

 この部屋の鍵を持っているのは俺だけだ。

「ああ」

 俺はベッドの上に起き上がったまま、マレスに答えて言った。

「おじゃまします……」

 どうやって開けたのか、マレスはすぐにドアを開けると静かに俺の部屋に入ってきた。

 白いパジャマにグレーのパーカーを羽織っている。

「どうしたの? 叫んでましたよ?」

 ぺたん、と裸足が床を踏む音がする。

「……すまん」

 俺はマレスが電子ピッキングツールを握っていることに気がついた。

 なるほど。

 マレスが素足で俺の家の暗いキッチンに立つ。

 それまで足元で丸まっていたアルが音を立ててベッドから飛び降り、マレスの脚に頭突きをし始めた。

 この猫はつくづくバカだ。この家を訪れるものはすべて自分の庇護者だと思っている。

 マレスはゴロゴロと喉を鳴らすアルを右手ですくい上げると、暗闇の中、俺のベッドの端に静かに座った。

 窓から差し込む街灯の光がマレスの顔を鈍く照らす。

 メイクを落としたマレスの顔は、少し幼く見えた。

「どうしたんですか? 驚いちゃった。すごい声だったんだもん」

「夢を、見たんだ……悪い、夢だ」

 俺は毛布をはぎながらマレスに言った。

 足の裏が床の上で濡れた音を立てる。

「マレス、俺の妹の話、あの後クレアから聞かなかったのか?」

「いいえ」

 マレスがふるふると首を振る。

 髪が揺れるたびに花のような甘い匂いがする。

「シャツ、替えたほうがいいかも。すごい汗」

 マレスが傍らの棚から新しいTシャツをとってくれる。

 俺は濡れたシャツを床に捨てると新しいシャツを着た。

 夜中に餌は貰えないとようやく悟り、膝に抱えられていたアルがマレスの腕の中からするりと逃げ出す。

「昼間も言ったとおり、俺の妹、涼子はな、俺の目の前で爆発に巻き込まれたんだ」

 俺はマレスに話しかけた。

「二人で店を見ていた時に、吹き飛ばされた。プラスティック爆弾だと思う。まだ、犯人は見つかっていない」

「…………」

 碧色の瞳で、正面に立ったマレスが黙って俺を見つめる。

「渋谷で、キャットフードを買おうとした時に爆発が起こったんだ」

「……そう」

「俺は、涼子がいたから助かった。涼子が盾になったおかげで俺は大した怪我をしなかったんだ」

 自らの言葉に胸を突かれ、思わず目を伏せる。

 言葉を、うまく紡げない。

「涼子が盾になったんだ。……即死だったと、思う。俺は、涼子を守れなかった」

 衣擦れの音。

 突然、俺は柔らかいものに全身を覆われた。

 マレスが両腕で俺をきつく抱きしめている。

 頭がマレスの胸元に押し付けられる。

「かわいそう……涼子さんも、和彦さんも」

 マレスの細い指が俺の短い髪を梳る。

 マレスの鼓動が聞こえてくる。規則正しく、力強い鼓動。

 石鹸の香り。

 その鼓動はやさしく、そしてなぜかとても懐かしかった。 

 マレスは俺を抱きしめる腕を伸ばすと、柔らかい唇で俺の額に軽く触れた。

 俺の肩に両手を置き、まるで母親のように俺を見つめる。

「あのね、和彦さん? 大丈夫。わたしは絶対死なないから」

 涙の浮かんだマレスの大きな瞳には強い光がこもっていた。

「わたしは絶対、死なない。クレア姉さまもわたしが護る。山口さんも、宮崎課長も、アルちゃんも。和彦さんの周りの人はもう絶対誰も死なせない。だから、和彦さんも絶対死なないって約束して?」

 再び、マレスが俺をきつく抱きしめる。

 マレスの甘い香りが周囲を包む。

 なぜか、心が静かになる。早鐘のようだった動悸が徐々に収まっていく。

「安心して、和彦さん。今夜はわたしが一緒にいてあげるから」

 さすがに、逡巡した。

「いや、さすがにそれはまずいだろう」

「なんで?」

 マレスは手を離すと、不思議そうに俺の目を覗き込んだ。

 微笑みながら首をかしげる。

「クリスが、気にしそうだ」

「クリスおじさまはもう寝ちゃってます。おじさま、夜が早いから」

 ふふ、とマレスが含み笑いを漏らす。

「大切な人が困ってたら助けるのは当然じゃない。こういうときはね、誰かが一緒にいるとよく寝られるんですよ」

 言うなりマレスは俺の胸元に両手を置くと、

「えいッ」

 と思い切り俺の身体を突き飛ばした。

「うわ」

 思いのほか強い力に、たまらずベッドに仰向けになる。

「えへへ」

 羽織っていたパーカーを床に捨て、さっさと自分も毛布に滑り込む。

 マレスはベッドの下に手を伸ばすと、

「アルちゃん? おいで?」

 と床のアルに話しかけた。

「ナーア?」

 鼻先を上に突き出しながら不思議そうにアルが近づいてくる。

 マレスは近づいてきたアルを床からすくいあげると、自分の足元の毛布の上に乗せた。

「今夜はわたしが添い寝屋さん。和彦さんは安心して……さあ、寝ましょ、明日も早いもの」

 やさしく、マレスが俺の髪を撫でる。

 間近に、マレスの顔がある。

 マレスの甘い香りが心地よい。

 正直、照れくさくて堪らなかったが、マレスは一度言い出すと言うことを聞かないところがある。

「わかったよ。今晩だけな」

 仕方なく、枕に頭を落とす。

「ふふ」

 マレスは半身を乗り出すと、片肘を突き、俺の顔を覗き込んだ。

「怖い夢を見たときにね、いつもママが歌ってくれたの。シューベルトの子守唄」

 マレスがやさしく俺の胸元に手を当てる。

眠れ、眠れ、母の胸にねーむれー、ねーむれー、ははのむうねーに……」

 その手で胸元を叩きながら、マレスは静かに子守唄を歌い始めた。

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