二〇三九年七月十七日 一一時五〇分
小田急線車内
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マレスは初めて帝国ホテルで会った時と同じ、水色のワンピース姿で現れた。
今日は腰に茶色いレザーの太いベルトを締め、これをワンピースのアクセントにしている。
あの時と違うのは左肩から下がる茶色い革のトートバッグと、そしてマレスが俺の左手を右手でしっかりと握っている事だけだ。
休日の昼間の時間にも関わらず、小田急線の車内は混み合っていた。
任務がなければスケルツォは使えない。そもそも都内は車移動には適していないため、俺は平時の移動は電車移動と決めている。
東北沢でしばらく待たされた後、電車は代々木上原を抜け、今は南新宿に差しかかるところだ。
「……おい、くっつくな、目立つ」
入口脇のポールの横、小田急線の中で小声でマレスに言う。
「えー? なんでダメ?」
マレスはにこにこ笑うと、今度は両手で俺の腕に抱きついた。
どちらかというと控えめな胸のふくらみがふわりと二の腕に当たる。
嫌がらせか。
周囲の視線が痛い。
ただでさえマレスは途轍もなく目立つのだ。
栗色の髪に大きな
「おい」
「だってわたし、ちゃんと告ったもん」
不満なのか、マレスが口を尖らせる。
「それに三回もキスしたもん」
マレスは片手で俺の腕にしがみついたまま、細い指を折って数えてみせた。
「わたしが二回、和彦さんも一回。それにおでこにも一回。少しくらいくっついたって罰は当たらないと思う」
マレスのその言葉に、周囲の野郎どもの敵意レベルがさらに上昇する。
「……わかった、わかったよ。でもな、とりあえずもう少し離れよう、な? ここは日本だ。イタリアじゃない」
「知らない。わたしはわたしがしたいようにするんですよーだ」
マレスが顔をしかめて舌を覗かせる。
「和彦さん、何食べます?」
俺の腕を抱いたまま、マレスは背中を預けるようにして俺に寄りかかるとトートバッグからスマートフォンを取り出した。
暖かく、柔らかいマレスの背中の感触が心地よい。
「なんでもいいぞ、俺は」
「なんにしようかなあ。お肉もいいけど、お野菜も食べたいし。あ、お魚?」
器用に片手でスマートフォンを操作し、下調べしてきたらしいレストランの名前をマレスが次々と挙げていく。
「根室漁港ってお寿司屋さん面白そう、あ、カサ・ディ・マルコもよさそうですよ。そういえばアクア・パッツアなんてしばらく食べてないなー。でもイタリアンはホークさんの作るものの方が美味しいしなあ」
どれもこれも知らない店ばかりだ。
「ああ、よさそうだな」
「迷うなー……」
「ああ、迷うな」
上の空でマレスに相槌を打ちながら、俺はまつげの長いマレスの横顔をぼんやりと眺めていた。
物思いに耽っている時のマレスの表情はとても知的だ。
さすがに学者の娘だけの事はある。そもそも頭の回転が速いうえ、目元や口元にそこはかとない緊張感があるためか、緩んだ感じは少しも感じさせない。
そして、クリスのコーディネートも完璧だった。
いつものだらしないマレスの姿はここにはない。きっちりと、『デ・センゾ家の淑女』に仕立てられている。
メイクもクリスがするのだろうか?
つい、くだらない事を想像する。
マレスの大きな瞳は気分によって微妙に色が変わる。
楽しそうにしているときの瞳の色は明るく、不愉快そうにするときには瞳の色が暗くなる。
マレスの豊かな表情は彼女の瞳の色に彩られていた。
「こら」
振り向きざま、ふいにマレスは俺の耳をつまむと軽く引っ張った。
「痛て、なんだよ、急に」
「和彦さん、わたしの話、聞いてました?」
マレスの瞳の色が暗くなり始めている。
危ない兆候だ。
「ああ。トンカツ、だろ? サボテンでいいじゃないか。あそこのはサクサクしていて確かにうまい」
「ち・が・い・ま・すぅ」
マレスが頬を膨らませる。
「和彦さんがお肉好きだからステーキはどうかしらってきいたのに」
「いいよ、ステーキでも」
「もう。やる気ないなー。ちゃんと着くまでに考えといてくださいね」
マレスはかかとで俺のつま先をそっと踏むと
「フフフ」
と笑みを浮かべながら俺の胸元に頭を擦り付けた。
俺たちは新宿駅の北側に新たに作られた
ノーザンテラスの一角、カリヨンデッキと名付けられた西側の新しい小テラスは巨大なレストラン街を形成している。どの店からも街の夜景を望めるようにとテラスは階段状に構成され、大小合わせて三十近い店舗がしのぎを削っている。
その中でマレスが選んだのは、シズラーという名のアメリカンレストランだった。どうやら日本ではステーキとサラダバーを売りにしているようだ。
シズラーだったらサンディエゴに降りた時に何度か仲間と入ったことがある。アメリカの典型的なファミリーレストランだ。可もなく、不可もない。
何もこんなファミリーレストランでなくても、と一瞬思ったが、すぐに考え直した。
なにしろマレスは食べるのだ。実際、この細い身体のどこに食べ物をしまうのだろうと不思議に思うほどだ。
なるほど、サラダバーがあれば確実にマレスの空腹は満たされる。
窓際の席に案内され、俺は一ポンドのランプステーキ、マレスは三〇〇グラムのステーキ・アンド・ロブスターをオーダーする。
「おうち、見えるかな」
「さすがにそれは無理だろう」
俺はそれでもコーポ霧崎の姿を探しながら答えて言った。
窓からは初台の街の景観が望める。だが、笹塚の向こうにあるコーポ霧崎の姿はここからはビルの影になって見えなかった。
「わあー、すごい」
ウェイトレスに促されて二人で向かった巨大なサラダバーの前で、マレスは両手を合わせると歓声をあげた。
確かに豪華だ。
このサラダバーはどうやら反時計回り、右から左に巡回する動線を想定しているらしい。右側には大きな白い皿が積み重ねられ、そこから順番に数種類のレタス、水菜やもやし、人参に各種マッシュルーム、各種トマトにヤングコーン、オクラやブロッコリー等の茹で野菜、海藻類やシーフード、果てはマカロニサラダや春雨サラダまでもが半円状に整然と並べられている。出口付近には十種類を越えるドレッシングが並び、さらにその先にはサラダに添えるヒマワリやゴマの種、クルトンやベーコンビッツ等のトッピング類のスタンドがある。
しかし、真に壮観なのは半円を描くサラダバーではなく、その中心に作られたアイランド状のフードステーションだった。
アイランドには巨大なライスジャー、三種類のパスタの山とクスクスの大鍋、それにハード、ソフト両方のタコシェルが置かれ、その隣にはマレスが言うところの『ごはんかパスタ、その他なんにでもかける何か』が並んでいた。カレーやハッシュドビーフにミートソース、フェジョアーダ、タコミート、メルトチーズにシュレッドレタス。卵、梅干、レリッシュ、福神漬に紅生姜。ふりかけ、そぼろ、さらにはザーサイ、高菜などの漬物類まで、世界の食材が勢揃いだ。
奥にはバクテーやトムヤンクン、粥類や各種味噌汁をも完備したスープバーと二十種類を越えるソフトドリンクを供するドリンクステーション、クックコートを着たシェフが常駐するホットステーションが列を成し、さらにその裏には『ナイアガラ・ファウンテン』と名付けられた超大型のチョコレートファウンテンとフルーツバー、そして十連の自動ベルギーワッフルメーカーを備えたデザートセクションがある。
おそらく、ほとんどの来客は絶望的なまでに巨大なこのサラダバーに圧倒されて立ち尽くすことだろう。
さすがにこれは大きすぎる。
人間の胃の容量には限界がある。仮にサラダバーのみに集中したとしても、このすべてを一度に味わうことはほぼ確実に不可能だ。
だが、この巨大かつ威圧的なサラダバーを前に、マレスはさらに食欲という名の闘志を掻き立てられたようだった。
「すごーい♪ 全部食べられるかな?」
さっそく皿を左手に持ち、上品にサラダを組み立てていく。
「ミラノには中華料理とインド料理のビュッフェしかないんです。すっごく楽しい」
楽しそうなマレスを横目で見ながら、白い皿にぎこちなくレタスを盛り上げる。
思いのほか難しい。新しい具材を載せるたびにレタスの山が崩れていく。
一体、何が悪いのか。
真似しようかとマレスの皿を見る。
マレスは皿の真ん中にレタスとトマト、片隅にブロッコリとカリフラワー、それに白と茶色のマッシュルームをきれいに盛り付けていた。最後にビネグレット・ドレッシングを回しかけ、上からスプーンを使ってベーコンビッツとひまわりの種を散らす。俺が盛った量よりも遥かに少ない。
「マレス、そんなので足りるのか?」
俺はマレスに尋ねた。
「パーティのビュッフェでは山盛りにしちゃいけないってお祖父様に教わったの。下品だって。食べ終わったらまた来ます」
マレスはにっこりと笑うと答えて言った。
なるほど。盛りすぎるとロクな事がないらしい。
窓から新宿の昼間の景観を観ながら、二人でステーキをゆっくりと楽しむ。
別段、ガツガツ食べているわけではないのにマレスの皿の上のステーキとロブスターがどんどん小さくなっていく。まるで魔法か何かのようだ。
ステーキはほどよく塩が効いていてなかなかの美味だった。
日本のステーキは薄すぎることが多いのだが、ここのステーキは厚みも十分で、そのため肉質が柔らかい。
ランプは日本ではあまり珍重されない部位だ。牛肉の味が濃厚なこの赤身の部位はもっと評価されてもいいと思うのだが、日本ではどうやら脂肪満載の霜降り肉でないと好まれないらしい。
マレスは早々にステーキとロブスターを片付けると、再びサラダバーに立ち向かうために席を立った。
「おかわり行ってきまーす」
「ああ。ごゆっくり」
再び巨大なサラダバーの周りをウロウロしているマレスを観ながら、俺はステーキの最後の一片を口に入れた。
しばらくしてタコスを二つ作って帰ってきたマレスは俺に言った。
「でも、よく考えるとこれって変ですよね。サラダとかパスタとかって前菜じゃないですか。メイン食べた後にまた前菜に戻っちゃうのね」
「それはたぶん、マレスだけだ。普通はサラダを食べて、メインを食べたら腹いっぱいだ。せいぜいデザートバーで甘いものでも食べて終わりなんじゃないか?」
「そうかなあ。運動してる人とか沢山食べますよ」
顔を傾けてハードシェルのタコスをかじりながらマレスが答える。
エビが乗っているところを見ると、シーフードタコスにしたようだ。タコスはともすれば下品な食べ物だが、食事の所作がきれいなためか、マレスが食べているとタコスがまるで高級な料理のように見える。
「動けなくなっちゃうじゃない、お腹空いたら」
「運動してる人はな、たぶんこんなお上品なところには来ない。ドカ盛りの定食屋とかに行くんじゃないか?」
「なんですか? そのドカ盛り定食屋って」
一つ目のタコスを食べ終わったマレスが二つ目のタコスを手に取りながら不思議そうな顔をする。
「量だけが売りの食い物屋だよ。洗面器みたいなラーメンとか、富士山みたいなチャーハンとか。富士ランチって名前の自衛隊御用達の店が市ヶ谷にもある」
俺は両手でサイズを示しながらマレスに説明した。
「へえ、面白そう。今度お昼に行きません?」
「嫌だよ、行くんだったら一人で行ってくれ。そんなには食えん」
そんな店にマレスを連れて行ったらなにが起こるか判らない。場違いも甚だしい。
「えー、いじわる。一人じゃそんなお店に入れないもん。たまにはエスコートしてくれてもいいと思う」
マレスが眉を怒らせる。
じゃあ、俺が今しているのは一体何だ?
しかし、口答えする意味はおそらく、ない。
「わかったよ……」
俺はため息混じりにマレスに頷いた。
+ + +
結局何往復したのだろうか? バニラアイスとイチゴが添えられた温かいアップルパイとチョコレートケーキを片付け、マレスがようやくごちそうさまと言った時、時計は二時をかなり回っていた。
退屈こそしなかったが、時間制限のないビュッフェは考えものだ。ヘタをしたら永遠に居座りかねない。
会計を済ませた後、マレスに請われて下の階層のブティック街を回る。
マレスはたまに店の中に入って商品を物色していたが、いずれもお気に召さないらしく、すぐに出てきてしまうということを繰り返していた。
「あまり、いいものないですね」
マレスがため息をついた。
その点、俺は気楽だ。パンツのブランドは
「気に入ったのがないのか?」
「うん」
マレスは頷いた。
「やっぱり、仕立ててもらおうかなあ。この前一着ダメにしちゃったし。秋に着る服を買うようにってクリスおじさまに言われてるんですけど、どれを買ったらいいのかよく判らないの。仕立ててもらうほうがずっと簡単」
仕立ててもらう?
怪訝そうにする俺を見て、マレスは笑った。
「どこのブティックもね、服を仕立ててくれるんですよ。これはね、シャネルで作ってもらったの」
マレスはスカートをつまんでクルリと一回転してみせた。
やっぱり住んでいる世界が違う。シャネルにワンピースを仕立ててもらうって、一体いくらかかるんだ?
「和彦さん、秋葉原行きません?」
唐突にマレスは下から俺の顔を覗き込んだ。
愛らしい動作にどきりとする。
「秋葉原って行ったことないんです。なんか面白いらしいじゃないですか。行ってみません?」
かつては家電量販店の立ち並ぶ電気街だった秋葉原だが、二十一世紀に入ってから街の様相は大きく変化した。元々電機製品からのつながりでゲームや音楽等のサブカルチャー店が
問題は、そうしたサブカルチャー店に非合法団体の利権が絡んだことだった。
最初はメイド・カフェなどの素人臭い店舗がほとんどだったのだが、すぐにプロが参入した。今では秋葉原は歌舞伎町に匹敵する巨大風俗街の一つだ。そして同時におそらくは世界最大のサブカルチャー街でもある。アニメ、マンガ、同人誌からメイド・カフェや擬似デート、果ては本格的な売春まで、全てを扱う場所は世界中を見渡してもおそらく他にはあるまい。
俺たちはマレスに群がるスカウトやナンパを次々と蹴散らしながら中央通りに向かって歩いていた。
「ねえねえ、そんなおっさん放っておいて、俺らと遊ばない?」
背後から声がする。
「…………」
マレスは一瞬眉を怒らせると、背後から自分の肩に触れた手首をひねり、一挙動で相手の身体を浮き上がらせた。
「うわッ」
ナンパ男の身体が宙に舞い、両手を大きく開いた男の身体がマレスの前に叩き落される。
マレスは、自分の敵に対してはとことん残酷だ。
「痛ってー……」
大きな音を立てて男の身体が目の前に広がる。
「…………」
マレスは黙って長髪の少年の
「ブゲッ」
胸骨を踏み割られた少年が悲痛な悲鳴を上げる。
それにはまったく耳を貸さず、マレスはさらに突いた爪先を捻って止めを刺した。
「グボ、グフッ……」
悶絶する少年のこめかみをつま先で蹴り、意識を完全に粉砕する。
マレスはそのまま後ろも見ずにすたすたと歩み去った。
「そろそろですよ、和彦さん」
肋を砕かれ、口から血を流しながら失神している少年を振り返ることすらしない。ゴミ屑以下の扱いだ。
「おい、頼むから騒ぎは起こしてくれるなよ」
一応、マレスに念を押す。
「え、なんのこと?」
「ああいう事だ」
親指で背後を指差す。
「ゴミを踏んで何が悪いの? わたし、何もしてないですよ」
マレスがニコリと笑う。
やれやれ。
罪悪感の欠片もない。
まあ、確かに罪悪感を感じる必要はないのかも知れないが。
秋葉原駅の電気街口前の広場の横を通り過ぎ、小さな店が連なる路地を抜けると道は中央通りに繋がる。
休日ということもあって、街は大変な賑わいを見せていた。
梅雨明けの明るい日差しの中、通りには思い思いのコスチュームを身にまとった若者が溢れ、その隙間ではピンク色や水色のフレンチ・メイド服を着た少女がそれぞれの店のビラを配っている。
自分の好みのアニメかなにかのキャラクターなのだろうが、ほとんど半裸のような少女もいる。一応樹脂製の肩当てのようなものをつけているが、肌を大胆に晒した姿であることに変わりはない。
「へー、これが秋葉原なんですねー」
マレスが歓声を上げた。
「すごーい、新宿よりもずっと面白い」
「そうか?」
俺にはその面白さが判らない。
秋葉原はあくまでも猥雑で、雑然とした街のように思えた。
「和彦さん、みてみて。あの人、変」
左腕で俺の右腕に抱きついたまま、マレスが右手で前方を指差す。
見ると全身を緑色にボディ・ペイントし、白い
背中に白く、『大馬鹿者』と読める。
確かに、大馬鹿だ。
「ありゃあ、アニメかなにかのキャラクターか?」
「たぶん、そうです。見たことがない番組だから判らないけど……あの感じは『クルセイダーズ』、かなあ」
「マレス、アニメ観るのか?」
驚いてマレスの顔を見る。
マレスは少し赤面すると、ピンク色の舌を小さく覗かせてから、
「えへ、でも、面白いんですよ」
と、小声で答えて言った。
「夜中にやってるんです。たまに観ちゃいます」
その時、背後から声がした。
「よお彼女さあ、ちょっとやりすぎじゃない? あいつ、入院だってよ」
「!」
瞬時にマレスが戦闘モードに切り替わる。
俺達は立ち止まると、声のした方を振り返った。
見れば、十五人ほどの若者が両手をポケットに突っ込んだ姿で群がっている。
デブ、ノッポ、ガリにチビ。体格は様々だ。だがポケットに両手を突っ込んだ姿は一様に猫背で、妙な目つきでこちらを睨んでいる。
どうやらミリタリー系をテーマにした集団のようで、彼らは全員、緑色のカモフラージュ柄のカーゴパンツやコンバットジャケットを身にまとっていた。
それなりに暴力沙汰には慣れている感じだ。
だが……。こんな市街地で森林迷彩を着てどうする。それにMA―1は夏に着るには暑すぎるし、そもそもあれは前世紀の遺物だ。
突っ込みどころ満載な連中だったが、俺は彼らをそっとしておくことに決めた。
みんなで楽しく群れている若者を邪魔する趣味は俺にはない。
「ねーちゃんよー、あんた、俺のダチのアバラへし折ってくれちゃったみたいじゃん? 肺に刺さって瀕死の重傷だってよ」
迷彩柄のカーゴパンツに黒いランニングシャツ姿の、ダボハゼのような平たい顔をした若者が悪い目つきでマレスを威嚇している。
どうやらこいつがリーダーのようだ。
「へえ、そうなんだ。ご愁傷様」
澄ました顔で、しれっとマレスが答える。
「あんだと、この野郎ッ」
少年たちは目を怒らせた。
年の頃は十七、八才ってところか。両腕にてらてらと光るトライバル柄の刺青が入っている。ランニング姿なのもこの刺青を自慢するために違いない。
異様に盛り上がった肩の筋肉はもっぱらプロテインドリンクとボディ・ビルディングによるものだろう。実用性には程遠い。いくら筋肉をつけたところで、使い方を知らないのでは宝の持ち腐れだ。
それにしても若い。若いから実力差を理解できていない。
「自業自得だろう。彼女の言う通りだ。生きててよかったじゃないか。悪いことは言わないから、急いでそのお友達のお見舞いに行くといい」
俺はリーダー格に諭して言った。
マレスに絡むのはどう考えても得策ではない。やりあったら生命の保証すらない。
「おっさんは黙ってな」
リーダー格がいきり立った。
「あのな、頼むから他の奴に絡め。俺たちに絡むのは自殺行為だ」
もう一度だけ、俺は彼らに警告した。
出来れば身分は明かしたくない。ネットにでも流れたら面倒だ。
「へえ、お強いようですねえ、ええ、おっさんよう」
俺の言葉にリーダー格がさらに興奮した。
俺の襟首を掴み、下から妙な目つきで睨む。
どうやらそれが彼ら流の威嚇のようだ。
同時に少年が右手で俺の下腹を殴る。
「あッ」
マレスが言葉を漏らす。
碧色の瞳が怒りに燃えている。
しまった、逆効果だったか。
これでマレスに攻撃する理由を与えてしまった。
「ね、和彦さん、皆殺しにしちゃってもいい?」
マレスが俺の耳に片手を添えながら小声で俺に尋ねる。
瞳の色が暗い。相当に怒っている。
「アホ、相手は一般庶民だぞ。マレス、ほっとけ」
しかし、俺の言葉はマレスには届かない。
マレスはすでに臨戦態勢に入っていた。
俺から腕を離し、無表情のまま猫脚で立ってキョロキョロと周囲を覗っている。
相手との位置関係を掌握しようとしている。どこに初撃を置こうか計算を始めている。
マレスの目つきは暗く、半目に据わった瞳は猛々しい。プロだったら警戒するところだ。
だが、相手には違うように映ったようだった。
「なんだよ、ビビってんじゃんよう、彼女よう」
俺の襟首から手を離したリーダー格が鼻で笑う。
つくづく、バカだ。
早く止めないと。こいつらが死んでしまう。
「とりあえず裸にひんむいちゃおーかなー、ここで」
遅かった。
瞬間、マレスのスイッチが入る。
マレスは突然爪先立ちに伸び上がると、身体を縦に一回転させながら右足をリーダー格に振り下ろした。
ゴスッという嫌な音。
「ブフッ」
高い位置からの踵を眉間に喰らい、リーダー格がグラリとよろける。
一瞬の間を置いて、眉間と鼻腔から真っ赤な鮮血が噴出する。
すかさずマレスは身を沈めると、地を這うような足払いを放った。
「うわッ?」
フォン、という風切り音と共に、少年達が両足を払われて宙に浮く。
「フッ」
魂魄の一撃。よろけるリーダー格の少年の顎に、下から右の掌底を突き出すマレスの唇から気合が漏れる。
「フンッ」
すかさず畳み掛けるかのように、震脚で威力を増した細い肘がみぞおちに深く沈み込む。
マレスは膝から崩折れたリーダー格の髪を両手で掴むと、無造作に相手の鼻骨を路肩で砕いた。
鼻が陥没し、鮮血を吐くリーダー格の口元から黄色い前歯が零れ落ちる。
「ブアァッ」
こうなったらもう手をつけられない。
突然、水色の超小型台風が発生したようなものだ。
相手が上体を支える両手を片足で払いつつ、膝を突いてリーダー格の顔部を再びアスファルトの路面に叩きつける。
「ひゃ、ひゃめえ」
リーダー格が悲鳴を漏らす。
さらにもう一撃。
頬骨が路面を叩くガツンッという音が周囲に響く。
路面、ガードレール、路肩の角。
都会の街は、全てが凶器だ。
マレスは路面に突っ伏したリーダーの右手首を掴んでその身体を引き起こすと、無言のまま全体重をかけた右足をその肘に見舞った。
「ギャッ」
嫌な音を立てながらリーダー君の肘が不自然な方向に折れ曲がる。
たまらず相手が悶絶する。
やれやれ、ひどいことをする。
男は左手で骨のはみ出た右肘を掴みながらゴロゴロと転がった。
「やまとッ」
どうやらそれがリーダー格の名前らしい。
それまで呆然と格闘を見つめていた少年たちはふいに我に返ると口々にリーダー格を気遣う言葉を漏らした。
同時に集団が全員臨戦態勢に入る。
もう、ダメだ。
「おーいマレス」
俺はマレスを止めるのを諦めると、歩道の段差に腰をおろしながらマレスに声をかけた。
「あんまり暴れると、パンツが見えるぞ」
「だいじょうぶ、下にスパッツ履いてるから平気です」
「殺る気満々じゃねえか」
戦うマレスの姿は思わず見とれてしまうほど美しく、しかし途轍もなく恐ろしい。
人体の急所を熟知している上、柔軟な身体を生かしてとんでもない位置から攻撃が降ってくる。たとえ躱しても、すかさず関節技に連携される。
しかもスイッチが入ったマレスは手加減ができない。下手をすれば首の骨をねじ切られる。全身不随確定だ。
もう何度か道場で組手した俺はその恐ろしさを嫌というほど味わっていた。
各々素手や得物を手にして少年たちが一斉にマレスに襲いかかる。
だが、マレスは慣れたものだ。すかさずバク転して群れから距離を取り、外側から一人ずつ片付け始める。
「すげー。アトラクション?」
「きれい」
歩行者天国を歩く若者たちが何か勘違いして近づいてくる。だが、鳴り響く凶暴な打撃音と骨折音にすぐにそれが手加減なしの徒手格闘であることに気づくと、人の輪は急激に拡散していった。
洒落たデザインのパンプスですらマレスにとっては単なる凶器だ。
折りたたみ式の特殊警棒を振りかざした先鋒の少年の肋をマレスが細い爪先で鋭く穿つ。
「ゲッ」
割り箸を折るような軽い音が逆に恐ろしい。
これは細い骨が粉砕される音だ。
「……行こう」
一度は集まった観衆が、足早に立ち去っていく。
マレスがさらにスピードアップした。
まるで重力などないかのように飛び回り、バレエのような華麗な動作で次々と少年達の意識を刈り取っていく。
きらめくつま先が宙を舞い、スピードを乗せた踵が骨を砕く。
靴音を響かせながら三連続の廻し蹴りを放った拍子にトートバッグが当たり、背後の少年の顎が砕かれた。
なにしろXMP34と拡張マガジンが三本入っているのだ。三キロ近い金属の塊が入ったトートバッグは限りなく単なる鈍器に近い。
「ガハッ」
少年の口元から血泡と共に折れた奥歯が吐き出される。
マレスは急に相手に背を向けると、路上駐車していたトラックを駆け上がって宙高く舞い上がった。
「うわッ」
十分に高度を確保した上での降りの飛び蹴り。
すかさず全身を使った踵落とし、二連のバタフライジャンプ。
ひらめく左足が相手の鎖骨を粉砕する。
「グッ、ヒュッ」
マレスは苦痛に屈む相手の後頭部に片手を添えると、身近な道路標識のポールに叩きつけてその鼻を粉砕した。
後頭部の髪を鷲掴みに掴んだまま振り返り、背後から迫るデブの顔面にその頭を叩きつける。
マレスは血だらけになった男の頭を捨てて身体を起こすと間合いを取り直した。
数は減ったものの、再び、ジリリ……と少年たちの輪が小さくなっていく。
「おらあッ」
まるで自分を鼓舞するかのように雄叫びを上げながら長身な少年がマレスに殴りかかる。
マレスは殴りかかる腕を上体を反らして難なく躱すと、そのまま後方転回した踵でよろけた相手の顎を下から粉砕した。
マレスは別段打たれ強いわけではない。細いマレスが一撃でも喰らってしまえば、一気に形勢は逆転する。
それがわかっているからこその超高速格闘戦だ。
残った三人がマレスに一斉に襲いかかる。だが、密集した先にマレスはいない。
マレスは素早く少年の股間を抜けると、音もなく背後から襲いかかった。
側転、バク転、ロンダート。体操競技のアクロバティックな動きを絡めてマレスが相手を翻弄する。
目まぐるしく位置を入れ替え、時には相手の頭上を飛び越える。決して一箇所には留まらず、蝶のように飛び回って周囲から相手の急所に一撃必殺の攻撃を与え続ける。
力で劣るマレスが身につけた格闘戦は誰にも真似のできない特殊なものだ。アクロバティックな体さばきと重心移動で相手を翻弄し、最小限の力で最大の破壊を叩き込む。
「このアマッ」
後方から追いかけてきた黒いTシャツを着た少年が、スタンガンを片手にマレスに殴りかかった。
「もう。そういうものはね、買っちゃだめ」
マレスはため息をつくと素早く側面に廻り、スタンガンを握った手首を固めて流れてきた顔面にスタンガンを押しつける。
「!#&@!!!」
黒Tシャツが白目を剥いて膝から崩れ落ちる。沈む頭部を追うかのようにマレスの踵が少年の後頭部を踏みにじる。
「ほらね、痛いでしょ?」
背中越しにスタンガンを放り捨てる。マレスは耳障りな打撃音を響かせながら次々と少年たちを破壊していった。
+ + +
終わった時には十五人全員が完全に戦闘不能に陥っていた。
意識があるものは数人もいない。ほとんど全員、昏倒している。
彼らがプリンターガンを持っていなくて本当に良かった。銃を抜かれでもしたら大惨事だ。おそらく、全員穴だらけになって死んでいることだろう。
「ふう」
俺の内心の焦りとは裏腹に、マレスは呑気に両手で乱れたスカートの裾を整えたところだ。
汗をかいた様子すらない。
「マレス、逃げるぞ」
俺はマレスの細い手を取ると駅とは反対の方向に走り出した。
「えっ、えッ?」
「バカ、後ろを見てみろ」
笛を吹きながら、駅の方から数人の制服警官が駆けてくるのが見える。誰かが通報したのだろう。
「捕まったら面倒だ」
「えっ? でもわたし何も悪いことしてない」
「そういう問題じゃない」
まだ正しく事態を理解できていないマレスの手を引いて秋葉原の中央通りを走る。
戦闘に酷使されたマレスの手のひらは固く、だが細く頼りなかった。
この手であれだけの破壊を成すことが未だに信じられない。
「待って待って、なにがどうなってるの?」
混乱したマレスが足をふらつかせる。
俺はマレスが倒れないように気をつけながら、全速力で中央通りを走り続けた。
やがて、いつの間にかにマレスが俺の前に出る。
マレスは俺の手の中で手首をひねると、俺の手を握った。
時折後ろを見ながら、中央通りを末広町の方へと全速力で走る。追いつかれでもしたら面倒だ。
「あはは」
走りながらマレスが笑う。
「楽しいね、和彦さん。さすが秋葉原って感じ」
「何を言ってるんだ、全然楽しくない」
微かに汗ばんだマレスの手を握りながら、警官達の様子を見ようと後ろを振り返る。
その時俺は、背後の中古パソコンを売る店舗が音もなく閃光を発するのを見た。
戦場でいつも見た光景。
あれは、高性能爆薬の爆発だ。
「まずいッ」
俺はとっさにマレスを押し倒すと、上に覆いかぶさった。
「キャンッ」
マレスが妙な悲鳴を上げる。
「マレス、口を開けろッ」
倒れ込みながら両手でマレスの頭を庇い、自分も頭を下げる。
最初に爆風。
音速を超える爆風が音もなく俺たちの上を通り過ぎる。
中央通りを超音速の衝撃波が駆け抜ける。
ドウンッ
爆風を追うようにして、腹に響く爆音が轟いた。
被害半径はさほど大きくはない。だが、爆心近くはかなりのダメージだ。
路上駐車していたトラックが横転する。
周囲の人々が衝撃波に突き飛ばされ、音も無くガラスが割れる。ガラスの破片が無数の刃と化し、津波のように秋葉原の街をなぎ払う。
そして突然、大きな事故に付き物の不気味な静寂が周囲に訪れた。
動いているものは一つもない。
今頃になって騒音が追いついてくる。
辺りの店舗から流れてくる陽気な音楽が妙に大きく、空虚に聞こえる。
ガラン……
大きな音を立てて、隣のラーメン屋の看板が崩れ落ちた。
「マレス、無事か?」
俺は下敷きになっているマレスに声をかけた。
「大丈夫。でも、膝擦りむいちゃった。ちょっと痛い」
マレスは俺の脇から顔を上げると文句を言った。
「膝で済んだのなら上等だ。本部に戻るぞ。クレアを呼ぼう」
頭上に降り積もったガラスや金属の破片を振り払いながら俺たちが立ち上がったとき、周囲の人々が痛みにすすり泣く声が聞こえ始めた。
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