ブラッディ・ローズ Level 2.0『報復執行機関』

蒲生 竜哉

二〇三九年七月十七日 一〇時四五分

世田谷区北沢四丁目

コーポ霧崎304号室


プロローグ


 えらいことになってしまった。

 元々古いアパートで、いつ退去命令を受けても仕方がないと諦めていた家だったが、まさかマレスがアパートをまるごと買ってしまうとは。

 想像を絶した金持ちだとは知っていたが――正確にはマレスがではなく、マレスの祖父が、だが――よもやそれが自分の生活圏にまで及ぶとは夢にも思ってみなかった。

 これはもはや金の力に飽かした襲撃、侵略だ。


「オラーイ、オラーイ」


 俺は窓際に腰かけ、細い路地を後ろ向きに入ってくる自衛隊のトラックと、それを誘導するマレスとをぼんやりと眼下に眺めていた。

 いつもと違ってマレスはラフな服装だ。ジーンズの膝から下を切り落としたショートパンツに色あせた短い水色のタンクトップ。足には黄色いクロックスのサンダルをつっかけ、時折タンクトップの隙間から肌を覗かせている。

 自分でも言うとおりマレス自身は服装にあまり気をつかわないようだ。彼女の言い分によれば、外出着のコーディネートその他はもっぱらマレスの叔父であり後見人でもある『クリスおじさまの役目』、らしい。

 ついでに言えば、いかついホークはデ・センゾ家の専属コックだ。

 その外見からは想像しがたいが、彼の趣味は料理なのだという。しかも凝り性なのか、イタリアの料理学校の学位まで取得していた。

 ホークは今まで日中はマレスの護衛兼戦闘教官を努め、夜には栄養満点の料理をマレスたちに振舞ってきた。

 要するにマレスは叔父をファッションコーディネーターを兼ねた後見人として、そしてホークを戦闘教官兼専属料理人として引き連れながら世界中を転戦してきたのだ。

 日本に落ち着いた今も、ホークは毎晩マレスとクリスに自慢の料理を振舞っているようだ。

 栄養管理が完璧なため、マレスの体調は常に万全と言っていい。実際、体調が悪そうにしているマレスは見たことがない。常に肌ツヤは輝くようで、全身にエネルギーが漲っている。

 短いタンクトップの裾から時折のぞく、細い腰と鍛えられた腹筋が目に毒だ。

 俺はマレスから目を逸らすと、細い路地をゆっくり後ろ向きに入ってくるオリーブドラブ色のトラックに目を向けた。

 マレスの祖父が建築業も手がけているとかで手はずは万全だった。地下室が増設されたコーポ霧崎――昔は東北沢コーポという名前だったのだが、マレスが買収した際に名前も変えた――の地表はすでに超硬コンクリートで強化され、今日からはチョバムプレートで外壁補強を行うという。

 自衛隊のトラックが運んできたのはクラスファイブチョバムアーマー、普通は戦車や大使館などに使われる外壁材だ。ハニカム構造の単分子炭素繊維とセラミック、それに空間装甲で構成されたこの板は一五五ミリ戦車砲の直撃を受けても破壊されることはない。たとえ核攻撃を受けても壁面だけは生き残るだろうと言われる地上最強硬度を誇る対爆防壁だ。

 そう、コーポ霧崎はもはや普通のアパートではなくなってしまった。ここは防衛省と特別委任契約を結んだエクストラ・オーディナリーズ社の日本支社、カテゴリーとしては『準軍事施設』にあたる。

 一般家屋ではないため、防衛に関してはマレスのやりたい放題だ。

 マレスの構想ではこの板でコーポ霧崎の全面を覆うという。二階の屋根裏にはすでにラインメタル社の全自動セントリーショットガンが複数備えられ(いったい何をどうやったのか、マレスはちゃんと政府の認可を取り付けていた)、建家の周囲には百五十万ボルトの電撃装置(恐ろしい事に、これもやはり政府認可済みだった)が設置されていた。

 これ以上何を防御するというのか。すべての窓に防弾シャッターが備えられたコーポ霧崎はすでに住居の域を超え、戦闘要塞と化しつつある。

 だが、それよりも問題なのはこのアパートの造作だった。

 俺の部屋は三階の東側の角にある。かつての大家の気まぐれで作られた、大きなベランダを備えたこの部屋は当時の不動産屋に言わせれば『目玉商品』だ。

 俺に気を使ってか、マレスは自分の好みにアパートを改装する際にもこの区画には手を付けなかった。

 三階の片隅は平成の匂いを残した古臭い造りのまま、残りの部分にヨーロッパテイストを取り入れて超近代化されたこのアパートは非常に歪な状態となっている。植物園のように大きな窓を備えた新しい区画はモダンでしかも暖かいが、平成の香り漂う三階の俺の部屋がそれらをすべて台無しにしていた。

 吹きさらしだった通路のスペースは建家の中に取り込まれ、各階には移動のための螺旋階段が新設された。一階はそれぞれの寝室であり、二階は玄関ホールと巨大なリビング、それに使い勝手の良さそうなホーク専用のキッチンに改装されている。

 さらに三階はマレスの家のエンターテイメントセンターに完全改装された。ロフト風の三階に備えられた巨大なソファは映画を見ながら寛ぐにはちょうど良い。片隅にはクリスの趣味のピンボールマシンが置かれ、反対側に小さなバーカウンターが作られたこの部屋は来客を圧倒するには十分だ。


 俺が隣に慎ましく暮らしている事を除けば。


 まあ簡単に言えばだ、マレスは鉄筋構造だけを残してこのアパートを完全改装してしまったのだ。

 マレスは上から俺が眺めている事を気づくと、

「おはようございます、和彦さん」

 とひらひらと右手を振った。

 だが俺は素直に手を振り返す気分には到底なれなかった。

 しかたなく小さく手を振り返す。

「和彦さん、今日の午後はお暇ですかー?」

 マレスは両手を後ろに組むと、俺を見上げながらなぜかモジモジと俺に尋ねた。

「ああ、特に用事はないが」

「一緒に新宿行きません? 新しいテラス、見てみたいんです」

「俺は新宿にも特に用事はない。午前中は掃除と洗濯、午後は部屋にこもって一人静かにグライダーの機体を組み立てる予定だ」

 その言葉にマレスが拗ねたように口を尖らせる。

「……案内してくれたっていいじゃないですか。せっかく退院した最初の日曜日に、しかもこんな晴れているのにおこもりなんてなんか不健康」

 マレスは眼下でさらに身をよじらせた。

 このまま放っておいたらマレスの細い腰が捩じ切れてしまいそうだ。

「わかったよ、じゃあ新宿で昼飯でも食うか」

 仕方なく、俺はマレスに答えて言った。

「やった」

 眼下のマレスが小躍りする。

「じゃあ、十一時半出発でいいですかー? 着替えてきます」

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