第111話 お金払うから同情してくれ!
昔の某ドラマの名台詞で
「同情するなら金をくれ!」
というものがあるが、私はこの言葉を聞くたびに
「いやいや、お金あげるから同情してよ」
と思っていた。
多分、四十代になる手前ぐらいまでずっと私の宝くじが一億円当たった時の夢は
「私に同情してくれる人に使う。お金払って多くの人に同情してもらう」
というようなものだった。
それぐらいに同情に飢え、同情を懇願していた。
何かの物語で「同情しないで!」というセリフを見聞きすると
「同情がいらないなんて信じられない」
と思っていた。
何にそんなに同情してほしかったのか、それは私自身だ。
私の人生に同情してほしかった。
あまりに同情してほしくて、二十代後半以降は私の人生をカミングアウトしまくりだった。
けれど誰も同情してくれない。
そっか、私は同情に値するほどには大した人生を歩んでいないんだなと
「お前甘いんだよ!」
と空想の中で自分で自分を殴って律していた。
そうしないと私だけが私を可哀想だと思っても、本当に自分が自分に甘くなってボロボロになってダメになっていくような気がして
「人に同情してもらえるぐらいもっと頑張れよ」
という心の支えの元に三十代後半までを生きていた。
二十代後半ぐらいから、自分の人生をカミングアウトしまくりと言ったが、元々そんなに人と仲良くなれる方じゃないし話すと言ってもSNSで出会った人にぐらいだった。
けれど話すと、私が嘘をついている、作り話をしていると思われるか
「ふーん、それぐらい、いやもっと私の方が大変だったけどね」
というマウントを取られるかのどちらかだったのだ。
当時の私は今よりも素直というか、バカ真面目なところがあったからマウント取られても
「そっか、私は大したことない人生だったくせに同情ほしがろうとするなんてやっぱり自分に甘々なんだな」
などと思ったものだった。
なのにふとした時にやっぱり同情がほしくなる。
だからお金払ってでもいいから同情してもらえたら救われるんじゃないかと考えるようになったのだ。
そんな私が昔のように同情をほしがらくなったのは(とはいえ今だって全く欲しくないわけじゃない)結婚したからだと思う。
夫は同情は全くしてくれるどころか、私に対してガンガン「甘い」と言う人だ。
優しく抱きしめて「辛かったね」などとは天地がひっくり返ってもしてくれないだろう。
それであっても私の同情への渇望が薄くなったのは、結婚というものが出来た事によって過去うんぬんが、ほとんどどうでも良くなってしまえたからだと思う。
それぐらいに私にとって結婚というものが大きくて、同情以上の自己肯定であり過去の自分への慰めにすらなったんだと思う。
今でも、同情されている人を見ると嫉妬してしまう事はあるけれど、それでも宝くじで1億円当たった時の使い道は「同情してくれた人に使う」では無くなっている。
という同情してほしくて仕方が無かった私の毒親との生活も連載していますのでぜひに。
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