【?】 再誕の時代

 第3次大破壊――――それは今から1000年以上も前に勃発した、文明滅亡寸前となるほどの災禍。


 一般的に『大破壊グランドスラム』と称される文明滅亡危機 (※ここで言う文明とはあくまでレス・プブリカを含む西方諸国のことを指す)は過去に第5次まで発生しているが、第3次は数ある大破壊の中でも最も文明が滅亡に近づいた事例であることは間違いない。



 一口に『大破壊』と言っても、その内容は非文明の蛮族の侵略であったり、魔獣の大量発生だったりさまざまだが、第3次大破壊の内容は「不死者の大軍」による終わることなき破壊であった。

 そもそもの発端は、禁忌である死者を操る術を研究していた一人の人間の存在だった。

 彼は、当時西方を支配していた王国から危険視され、すったもんだの末処刑されそうになり逃亡、そしてある時術を完成させた彼は王国……いや、すべての生者に復讐戦を仕掛けてきたのである。


 各地で小競り合い等はあったが、比較的平和だった王国とその諸侯たちにとって、不死者たちの侵攻は寝耳に水の事態だった。不死者の軍勢ははるか北方の荒野からじわりじわりと南下。諸侯はこの不浄の軍団を追い返すべく戦いに臨んだのだが…………死体の品揃えについて、この大陸は目下過剰在庫状態であり、いくら倒しても全く減らないばかりか、背後や陣中に亡者の群れを呼び起こされ、王国軍の士気をあっという間に崩壊させられてしまう。

 開戦から1年……残す領土は西にある王国の臨時首都とその周辺、それと分断された東側領土のみ。不死者の数は以前にもまして増え続け、文明の滅亡までの時間は刻一刻と迫った…………だが、人間たちにはまだ希望は残されていた。


 それは――――――神々に選ばれし『勇者』の存在であった。



 【太陽の勇者】ソルといえば、この時代でもとくに有名な勇者の一人であることは間違いない。

 腰まで届く波打つような紺碧の髪に、サファイアのようだと例えられる深海のような色の瞳、うっすらと飴色をした健康的な肌に、「我こそは正義」と言わんばかりの凛とした顔が特徴的だった。


 先祖に勇者や聖女を何人も輩出した名家の生まれで、正義感が強く、弱きを助け強きをくじく立派な性格の持ち主。幼いころから何事も人一倍優秀だった彼女は、すぐに勇者候補として王国に召集され、光の神殿で洗礼を受けた。

 彼女の優れたところは、その才能だけではなく自ら努力を怠らなかったことだろう。王国の剣術だけではなく、修業のために時折隣国に出かけては数多くの流派の剣術や魔術を学び、瞬く間に自分のものとしていった。それもわずか12歳の時だというのだから恐ろしい。

 本来であれば彼女は18歳の成人になって初めて正式な勇者を名乗れる予定であったが、時は彼女を待ってはくれず、何人もの勇者候補が不死者たちとの戦いで散った中、最後の希望として幼くして戦場に立つことを余儀なくされたのだった。

 けれども彼女は嫌な顔一つせずに、不死者討伐の任を引き受けた。


 神殿から『聖剣・ソル』…………彼女の名前を冠した最強の聖剣が手渡され、神族のお告げにより勇者としての加護をその身に宿した。

 彼女が持つにいたった加護の力は、類を見ないほどの強力なもので、その効果に王国の聖職者のだれもが驚きを隠せなかったという。


 光の神の加護を受けた勇者ソルは、太陽が出ている時間……それは例え曇っていようが雨が降ろうが、例外なくその身体能力は大幅に強化され、力が最も強くなる正午には通常の3倍にもなるという。

 また、魔法の腕もそこらの上級魔道士も裸足で逃げ出すほど強力で扱いにくい魔法をいとも簡単に使って見せた。

 光に弱い不死者の軍勢に対して、彼女の力は相性抜群だった。

 彼女の初陣からわずか3か月ほどで早くも王都奪還は成り、生きる気力を失っていた人々は徐々に活力を取り戻しつつあった。


 すべては順調に進んでいるように見えた。

 だが…………世界の命運という期待は、十代の少女にとってあまりにも重すぎた……





 そのころ、不死者の蹂躙により王国との連絡が寸断された東部では、辺境領主連合の必死の抵抗により、なんとか生き残りに成功していた。

 もとより彼ら辺境領主たちは、王国に侵入してくる蛮族や魔獣の撃退を担っていたため、常時ある程度の軍備と訓練がいきわたっていたのが幸いし、何とか食い止めることができていたのだ。

 しかしながら、彼らの土地は貧しく、王国中央部の食糧や資源が命綱だったこともあり、備蓄は徐々に減り始め、連日の戦闘で死傷者も右肩上がり…………そこへ、とうとう不死者たちの今までにない大規模な攻勢にさらされることとなった。度重なる消耗戦に防衛線は次々に崩壊。とうとう最終防衛ラインにまで追い詰められた東部連合軍は「もはやこれまでか」と誰もが死を覚悟した。


 そんな中、彼らに朗報がもたらされる。


「王都を開放した勇者が助けに向かってきてくれている!」


 この報を聞いた東部の人々は喝采を上げた。

 噂の最強の勇者が来てくれるのなら、もはや不死者の軍勢も怖くない。

 もうこれで、いつ終わるかもわからなかった戦いから解放されるのだと。


 勇者ソルが、東部連合最後の防衛ラインであるアキンクム砦に到着したのは、不死者の大軍勢の総攻撃が始まる3日前だった。

 アキンクム砦を抜かれてしまったら、あとは最東端の要塞都市ニーチュに籠るほかなくなる。それは、東部領全土が荒廃することを意味し、たとえ不死者の軍勢を撃破できても、もはや復興も絶望的なものとなるだろう。

 わずか2000人弱にまで減った東部領の兵士たちは、勇者ソルが到着するや否や盛大に歓迎し、同時に必死に彼女に助けを乞うた。もはや頼みの綱は彼女のみ…………連日の戦闘で気力を失っていた人々は、まるで勇者ソルを神の如く崇め、縋った。


「みなさん、もう大丈夫です。人々に降りかかる不幸は私が盾となり防ぎます。人々に仇為す邪悪な手は私が剣となり打ち払いましょう。だから、決して…………希望を捨てないでください。闇の軍勢は、私が必ず倒し、世界に平和をもたらして見せます」


 ソルの言葉に、人々は勇気付けられ、再び活気を取り戻した。東部の人々は……久々に暗雲の隙間から晴れ間を見たような気持になったという。

 人間の心というのは不思議なもので、自分たちは助かると思うと徐々に活力が湧いてくる。兵士たちの士気は一気に熱狂し、今まで立ち上がる気力もなかった者まで、自ら武器を取り城壁に立った。

 誰もが明日への希望を持ち、生きる気力に満ち溢れていた。



 だが、誰も気が付かなかった。

 東部連合の人々はもとより……

 勇者ソルのパーティーメンバーたちですらも…………

 彼女の心は……責任の重みで今にも潰れてしまいそうだということに…………




 いやだ―――― たすけて―――― もうかえりたい―――――――




 そして運命の日……アキンクム砦に予期せぬ援軍が駆け付けた。

 東部連合軍の中心勢力の一人であり、数々の戦線を多大な犠牲を払いつつも維持し続けた――――

 王国領最東端ニーチュ領主アンカレット。


 白銀に輝く髪はひざ裏まで届き、痩身で雪のような儚く白い肌、ただしその表情は人形のように固く、視線は氷のように冷たかった。戦場ではおそらく体重の3倍ほどはありそうな藍色の重装甲に身を包み、その上これまた嵩張る大盾に、普通は両手で持つ重さの突撃槍を振るう超人でもある。

 そんな彼は、北方で取り残された村や町の救出活動にあたっていたのだが、予定より早く終わったため、強行軍でこの砦に駆けつけてきた。アンカレットの下に、アキンクムに勇者が来たと報告が入ったのが1日前だったこともあり、本来であればここまでくる必要がなかったのに、偶然来てしまった面が強い。


 勇者が来たと聞いて、ようやく自軍を休ませられると安堵したアンカレットだったが、どうせ近くまで来てしまったのなら、その勇者の戦いぶりを見てみたいという思いもあり、昼前にはアキンクム砦に到着した。しかし…………そこで彼が見たのは、何やら困り果てていたり慌てていたりして緊迫した様子の諸侯たちの姿だった。


「おい、これはどういうことだ。何をそんなに慌てふためいている」

「おお……ニーチュ伯! な、なぜここに!?」

「いまはそのようなことはどうでもいい。勇者様が来ているというのに、貴公らはなにを見苦しく慌てふためいている? それとも何か、勇者様が戦死したわけでもないんだろう?」

「それがその…………」


 場にいる領主たちはなかなか訳を話そうとしない。

 だが、魔獣より恐ろしいと言われるアンカレットに一睨みされると、彼らは耐えられず事情を離した。


「勇者様が……今朝から部屋に閉じこもってしまっている……。朝食も召し上がられない……いったいどうしてしまわれたのか、不安で不安で……」


 なんと、勇者様が突然部屋に引きこもってしまった!

 これには、期待していた東部連合の人々は大慌て。彼らやパーティーの仲間たちの必死の説得むなしく、一向に表に出ようとはしない。

 空には暗雲が立ち込め、不死者の軍勢が迫っている。

 頼みの綱の勇者様がこの有様ではいったいどうすれば……


「戦いの前に怖気づくとは、それでも勇者か。大勢の人々の危機だという自覚はないのか。こうなれば私自ら説得してくれる」

「ま、まった……今ニーチュ伯が向かったら怖がらせるだけで逆効果だと……」

「悠長に回復を待っている暇はない、通せ」


 東部領主たちは必死にアンカレットを止めたが、彼は無理やり押し通り、2階にある勇者ソルが滞在する部屋に向かった。オーク材で出来た厚い扉には鍵が掛かっている。だが、アンカレットは躊躇することなく、ノックもせずに扉を強引に蹴破った。

 そして彼がそこで見たのは――――――――――



「やだ…………いやだ……………もう、たたかいたく、ない……………」



 指揮官が宿泊する上等な部屋―――――その片隅で、青髪の少女が震えながら床に座り込んでいる。

 全身を冷や汗が伝い、声は掠れるほど小さく弱々しい。

 アンカレットからは見えないが、涙を流すその表情は、悲しみでもなく恐怖でもなく……どこか引き攣るような痛々しい顔だった。傍らには聖剣が無造作に放り出され、両腕は暴れ狂う心臓が飛び出さないよう、必死に胸を押さえつけている。



(この娘が……勇者……………)



 一歩近づく。

 カツンと床を踏む音に、少女の身体はビクンと小さく跳ねた。

 彼が近づくにつれ、少女の震えは大きくなっていく。

 領主たちが危惧した通り、ただでさえ人に恐怖を抱かせる生きた彫刻アンカレットは、近づくだけで少女を圧迫した。こわい、こないでと呟くも、極度の緊張で咽から声が出ない。きっと自分は彼によって叱責され、場合によっては罵倒や失望の声が降り注ぐ。そう…………『今までと同じように』



 変わり果てた、太陽の勇者ソル――――――

 アンカレットはそこに、かつて自分の姿を見た。



 もう剣は持ちたくない

 もう鎧は着たくない



 幼少の頃、思い出される地獄の日々。

 少女は今……自分以上に過酷な世界を生きている。

 ならば、今少女が必要としているものは何か?

 戦わない勇者を責める怒鳴り声か? 活気を取り戻すための精一杯の応援か?



「よく頑張ったな」

「……?」


 アンカレットは、ソルの小さな体を後ろから優しく包み込むように抱きしめた。そして、まるでわが子をあやす様にゆっくりと、紺碧の髪を撫でる。


「疲れただろう。怖かっただろう。家族が心配だろう。大丈夫だ、君は十分よくやった」

「あ……ぉ、おかあ……さん?」

「…………私は女じゃないが、この際母さんでも構わん。今はもう何も我慢しなくていい、今は私がお前を守ってやる。甘えたいなら好きなだけ甘えるといい。泣きたければ好きなだけ泣け」


 勇者ソルはゆっくりと顔を上げた。彼女の前にいる人は、誰もが恐怖する東部連合屈指の戦鬼。それなのに、彼女の目には女神のように見えた。それはきっと、アンカレットが、誰も見たことがないような穏やかな表情をしているせいだろう。


「うわぁぁっ!…………ぐひゅっ! うあぁぁっ!」


 ソルは、アンカレットの胸板に顔を埋め、溜めこんだものを吐き出すように泣いた。

 誰にもわかってもらえなかった……いや、自分でも分からなかった、得体のしれない苦しみ…………それを、見ず知らずの人にようやく理解してもらえた。それが、たまらなくうれしかった。


  ――――よく頑張った――――


 この一言で、彼女のすべてが報われた気がした。

 頑張れと言われたことは数えきれないほどあるが、頑張ったと言われるのは初めてだった。



「おかあさん、おかあさん! 私は……勇者なんかじゃなかったのっ! 戦うたびに、怖い、死にたくないって、ずっと思ってて…………でもっ! 私は勇者にならなきゃいけないからっ、いつも笑っていなきゃ、みんなを守るために……世界を、守る……ために」

「…………ソル」


(そうか……私たち大人はあまりにも無責任だった。勇者と言えど人間だ。いくら聡明とはいえ、我ら大人は彼女に重荷を背負わせすぎた。応援していると言いつつも、実はただただ、勇者様がすべてを解決してくれるのを安全なところから見ているだけ。そうして……危うく自分たちで『希望』を壊すところだった)


 窓の外は、まるで夜のように暗くなり、部屋に殆ど光が入らない。

 しかし、今は還って彼らにはそのほうが落ち着ける気がした。

 早鐘を打つように暴れていたソルの心臓は落ち着きを取り戻しつつあり、全身を伝っていた冷や汗も、溢れ出す涙もいつの間にか止まっていた。


「震えが止まったな。だが、無理はするな。私の故郷にはたちどころに傷が治る温泉がある。少しの間、そこで休むといい。なに、骸骨どもの群れはしばらくは私に任せておけ、な」


 不死者の軍勢が迫っている。蹴破った扉の外から不安や怨嵯の声が聞こえる。

 アンカレットは、これ以上は危険だと判断すると、最後の最後に笑顔とともに頭をやや乱暴にくしゃくしゃと撫でた。そして、呆然とする勇者を残して部屋を後にした。



「ニーチュ伯! 勇者様の様子は……!」

「そのことも含めて諸侯に話がある。急ぎ作戦室に将を集めろ」

「ただちに!」


 アンカレットは諸侯に急ぎ招集をかけた。その顔にもはや先ほどの穏やかな表情は微塵も残されていない。

 見張りの報告では、不死者の大軍はすでに城壁から見える地点まで近づいてきているそうだ。もはや一刻の猶予もない。


「諸君、残念ながら勇者様は連日の戦闘による無理が祟り、体調を崩している」


 アンカレットの一言で、場が一気にざわつく。


「そんな勇者様が!」

「我々はもうおしまいだ!」

「いったいどうすれば!?」

「静まれ! 最後まで話を聞け!」


 パニックに陥る諸将だったが、アンカレットの一喝で静けさを強引に取り戻す。


「残念ながらこの砦では防衛は行えない。よって、この砦は放棄し、ヴァレリナエ右岸の街バラールまで後退する」

「しかしそれではニーチュ伯の所領の一部が……!」

「仕方あるまい、緊急手段だ」

「それに今砦を放棄しても、すぐに不死者の騎兵に追いつかれてしまい、さらには足の遅い住民たちが逃げ遅れてしまいます!」

「そうならないように…………わが軍がこの場で食い止める。最後の一兵まで全力で押し返す覚悟だ。その間に各諸侯はバラールで態勢を整え、勇者様が回復次第、反撃に移れ」

「ニーチュ伯が……殿しんがりを……? まさか、ここで玉砕する気か!?」

「当然みすみす死んでやるつもりはない。我が精鋭で半分くらいは道連れにしてくれる。さあ、もう時間はほとんどない! 異論は認めぬ! 私が死んだら領土は適当に全員で分けろ! 動ける支度してある軍から急いで撤収に移れ! 勇者様の付き人たちは、急ぎ勇者様を後方の街に連れて行き、最低3日は休ませるんだ、いいな!」


 まくしたてるように指示を出したアンカレットは、大慌てで右往左往する諸侯を後目に、待機させていた自軍兵士の下へ向かった。彼が連れてきた精鋭部隊1000名は、昼夜を問わない強行軍の後に少ない時間で食事を済ませ、わずかな休憩しかしていなかったにもかかわらず、整然とその場に整列していた。

 藍色のマントで鎧を包み、右手に幅広の剣を、左手に紫に染めた長方形の盾を掲げた、歴戦の精鋭たちがそこにいる。


「兵士諸君! 喜べ! 貴様らは本日、一人一人が伝説の勇者となる! 諸君の一歩後ろには、大勢の戦えない人間がいるが、彼らの中からまた諸君のような勇者が生まれる! 彼らが剣を持てるようになるまで、我々は敵を押しとどめるのだ!」

『応!』

「行くぞ! 諸君に守護神イシュタルの加護の有らんことを! そして、仇為す敵に災いの有らんことを!」



 こうして、数十万の不死者の軍勢との死闘が開始された。

 城門の前に陣取るのはニーチュ軍に加えて、逃げずに戦うことを選んだカレル伯軍、シロディ伯軍、ザームラン伯軍の三軍が城壁に射手をのせ、援護の構えを見せている。


 骸骨騎士ボーンナイトの突撃が押し寄せる。

 死を振りまく笑いとともに、骨の人馬が剣を振り回す。


「構え!」


 対するニーチュ軍は盾を前面に構え、ハリネズミのように槍を突きだした。


「死者たちよ! そろそろおねんねの時間だ!」







 一方、勇者ソルは、パーティーメンバーの一人、女性賢者のエステルとともに、馬車で砦を後にした。まだ茫然としているソルを、エステルは優しくなだめている。


「アンカレットさんに言われてようやく気が付きました。私たちは勇者様を助けるはずが、逆にいつも頼ってばかりいました。大丈夫ですよ、今は誰も「逃げた」と後ろ指を指す人はいませんから。疲れが取れるまで、ゆっくりと休みましょう」

「エステル……その、アンカレットさんは……?」

「…………全員の避難が済んだら、戻ってくると言っていました。今はその言葉を信じましょう」

「……………」


 エステルが言った通り、住民とともに馬車に乗って避難するソルを非難するものは誰一人としていなかった。心の奥でどう思っているかどうかは別にして、少なくとも諸将は、アンカレットの言うとおり自分たちが一人の少女に荷を負わせ過ぎたことに負い目を感じているのだろう。

 それに、ここでソルが逃げたからと言って、人類はまだ敗北したわけではない。これはソルの力を取り戻すための措置であり、戦略的撤退なのである。

 さらには、戦略的撤退を指示した本人であるアンカレットが、自ら命を捨ててまで作戦をこなしている。この場に文句が言えるものがいたなら、直ちに彼らの下に送り返されることだろう。


「ねえ………エステル」

「どうしたの、ソル?」

「私は………勇者になりたい」

「ソルはもう立派な勇者よ。神様にも王様にも、国のみんなも認めてくれているじゃない」

「ううん、私は…………っ」

「ソル……?」


 エステルは不思議な感覚にとらわれた。

 隣で小さくなっていたソルが…………光を失っていた太陽が…………急激に光を取り戻すのを感じた。





「はああぁぁっ!!」


 アンカレットが巨大な突撃槍を棒切れか何かのように振り回すと、真空刃が巨大な竜巻となって、群がるスケルトンを数百体まとめて木端微塵に打ち砕いた。それでもなお目の前には、ゾンビやスケルトン、それにリッチ―などの不死者たちが地の果てまで群れを成しているのが見える。

 不死者たちには知能はないが、故に恐怖もない。これだけの暴れぶりを見せてもなお、彼らはひたすら立ち向かってくる。


「諸君! 離れるな、しっかりとついてこい!」

「了解! 地獄までもついていきます!」


 アンカレットだけでなく、部下の兵士たちもまた誰もかれもが一騎当千の強者たちだった。

 魔獣撃退の最前線で戦ってきたニーチュ伯軍は、大人になればだれもかれもが一人前の戦士となる。平和な世でも、ただひたすらに戦い、戦う力のない者たちを守る。今日の相手は「少し」量が多いが、問題ない。


 だが、砕いたスケルトンの骨粉が白い霧となり、ゾンビたちの破片が悪臭とともに雨となって降り注ぐ凄惨な戦闘は、戦士たちの体力を徐々に奪っていく。


「おらぁっ! 貴様らなど所詮前に進むことしかできぬ生き物ですらない存在だ! 我らニーチュを蹂躙するにはまだ足りぬぞ!」

「だが、我らニーチュ軍も敵の前で後ろは向かぬ! この目は二度と城壁を映さないだろうが、貴様らの死にざまはしっかりと目に焼き付けてやるぞ!」

「少しでも生前に腕に自信があるなら我らを倒して見せよ! 地獄でも永遠に相手してやる!」


 口では強がりの言葉が次々に出るが、骨の剣槍が、ゾンビの爪牙が鎧を削り、皮膚を裂き、戦士たちは血に染まっていく。だが彼らは勇者だった。例え片手を失おうとも、たとえ立て無くなろうと、その眼は倒すべき敵を常に射抜く。


クソがメルド ド畜生がメルドッ ボケナスがメルドーッ!」


 戦いが始まってからどのくらい経つのかもうわからない。

 一向に減らない敵をひたすらなぎ倒すアンカレット。砕いたスケルトンや引き千切ったゾンビの数は、そろそろ万を数えるかもしれない。

 口から吐く息が荒い。わずかながらも疲労で動きが鈍ってきている。

 ご自慢の藍色の鎧と盾は、どす黒く染まっている。血肉のある不死者を屠った返り血が何度も上から塗りなおされてしまったのだ。


「まだまだァっ!」


 魔術を使う不死者の放つ火球が彼に襲いかかる。それを彼はすべて盾で防ぎ、逆に自分を丸焼きにしようとした不死者に一瞬で肉薄し、瞬きする間に数十もの敵を串刺しにした。

 が、それでも押し寄せる不死者とどこからもなく飛んでくる魔術は、時折彼の肉体にダメージを与え、時間がたつにつれて蓄積されていく。盾の一部は欠け、鎧の凹みが小さな穴となる。


 そしていつしか…………彼の周りに、味方がいなくなっていた。


「あのバカども…………大口叩いた割にはあっさり死にやがって……。地獄に行ったら一から鍛え直してやる、覚悟しておけよ」


 そういう彼も、そろそろ限界が近いことを悟っていた。

 だが、この期に及んでもなお、彼の頭に敗北の二文字はない。彼にとっての敗北はそれすなわち、戦略的撤退した味方すらも打ち負かされたときであり、彼らさえ無事なら、アンカレット自身が死のうと勝利となるはずだ。だからこそ、彼は動きを止めない。例え心臓がとまろうとも、体の一欠けらでもあれば……



 光が一筋、敵の群れを薙ぎ払う。


「な…………」


 アンカレットは、目の前に起きた出来事をすぐに信じることができなかった。


「不浄の者たちよ! 恐れるほどの心があればすぐに退け! 私は光の勇者ソル! 人々を苦しめる闇を打ち払い、光をもたらす者なり!」


 城壁から自分の目の前に飛び降りてきた一人の少女が、不死者の軍勢を前に大音声だいおんじゃうをとどろかせる。青空を思わせる紺碧の髪に、光り輝く白の鎧、彼女の立つ場所を中心に不死者の大軍が呼んだ分厚い暗雲が切り裂かれ、太陽の光が照らす。

 塗りつぶしたはずの暗黒の世界が、小さな太陽によって浄化される…………破壊することしか能がない不死者たちが、珍しく混乱している。


「せえぇぇいやあぁぁぁっ!!」


 彼女が聖剣ソルを一振りすると、剣筋は光の束となり、不死者の群れを半分近くごっそり消し飛ばした。さらにダメ押しで左手に術を込め一気に放つと、撃ち漏らした不死者たちを片っ端から追跡し、直撃弾を浴びせた。


「グググ…………ギギギ…………」


 不死者の大軍があらかた消し去った大地。わずかに残った往生際の悪い不死者の中に、勇者が真に討ち滅ぼすべき敵がいた。死者の王アンデットキングに仕える死霊術士ネクロマンサーの一体が、彼女の一撃を受けて瀕死になりながらも、闇の中に撤退しようとしている。奴こそ、この不死者の大軍を率いていた元凶である。

 ソルは闇のゲートに入ろうとする死霊術士を、その聖剣で容赦なく背中から真っ二つに切り裂いた。普通の剣で斬られても再生するのだが、光の神の加護を受けた聖剣の前に、そのような小細工は通用しなかったようだ。


 そして、術者を失った不死者たちはその場に崩れるか、何をしていいのかわからず彷徨うかする間に、ソルの術によって一掃された。

 空を覆っていた暗雲は完全に晴れて、後には綺麗な青空が残った。



「終わった……んだな」


 ソルの活躍を呆然と見ているだけだったアンカレットは、彼女が術士にとどめを刺したのを見届けると、受け身もとらずに、真後ろに倒れ込んだ。

 かつてなく鎧が重たい。全身の力が抜け、彼はもう一歩も歩けない。

 真上に広がるのはどこまでも続く青い空…………彼はいまだに、自分が生きていることが信じられなかった。


 逃げたはずのソルは戻ってきた。

 ソルは馬車の中で、自分と向き合う中で、一つのことを見出した。

 それは…………自分が本当に命を懸けて守りたい存在。


 勇者になるまで、厳しい英才教育を受けて育ち、叱責と痛みの中で幼少期を過ごした彼女にとって、世界を守るという使命はあまりにも漠然としたものだった。もちろん彼女は、自分が人類最後の希望であり、神々に選ばれし勇者であることは疑う余地はなかった。それでも…………彼女はどこか心の底で、自分が弱音を吐ける相手を探していたのだろう。

 自分の理解者は、親でもなく、国王でもなく、パーティーメンバーでもない。

 出会ったばかりのアンカレット、ただ一人。


(あの人を守りたい! あの人が死ぬのは私が死ぬよりも嫌だ!)


 その思いがソルの心に火をつけた。

 かくして勇者ソルは、仲間の制止を振り切り、砦に戻るや否や、今までにない力を振るってあっという間に敵を打ち破ったのであった。


「アンカレットさんっ!」

「なんだ、もう私はお母さんじゃなくなったのか」

「そ……それはっ! 仲間の方から、その……」

「そっか。まあいい、それよりも―――――」


 ソルがアンカレットのところまで駆け寄ると、倒れ込んでいる彼の体を起こして安否を確かめた。

 彼の身体はあちらこちらに傷を負っているが命に別状はなさそうだ。だが、それよりもムリのし過ぎで疲労が激しい。その証拠に、彼の目はすでに睡魔との戦いに移っている。


「やればできるじゃないか」

「うん! 私、勇者になれた!?」

「大丈夫…………君はもう、一人前の勇者メルドだ」


 そう言ってアンカレットは、瞼を閉じ、安らかな寝息を立て始めた。

 三日ぶりの睡眠は、勇者の腕の中という世界でも類を見ない極上の寝床だった。


「ありがとう……」


 勇者ソルは、仲間と僅かな生き残りのニーチュ兵が駆け付けるまで、アンカレットの身体をずっと抱え続けていた。


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