第2章:薬草畑の境界騒動

序幕:騒動はノックもなしにやってくる

アルカナ大図書館、司書長ラヴィアの朝は早い。


「んーーっ!! はあぁぁっ…………。ふぃ…」


 自室のベッドで目を覚ました彼は、視界をふさぐ自らの銀髪を振りほどこうと、一度大きく首を振った後、伸びをして深呼吸をする。

 時刻は午前5時ぴったり。空から出たばかりの太陽の光が、カーテンの隙間から部屋に差し込んでいる。今日はいい天気になりそうだと思いつつ、ラヴィアはゆっくりとベッドから離れた。


 ラヴィアが朝起きたら真っ先にやることは、髪の毛の手入れ。


「今朝もヒドイですね。なぜこうなるのでしょうか」


 何がヒドイって?寝癖のことだ。部屋の隅にある鏡台の前に腰掛け、鏡を覗くと、そこには名状し難い妖怪のような何かが映っていた。ラヴィアご自慢の銀色の長髪は、四方八方に伸び放題となっていて、顔の周りにもウザったいように絡みついている。

 なぜかラヴィアは寝癖が悪い。たとえどんな手入れをしようとも、次の日の朝にはあり得ないほど乱れてしまうのだ。しかも、今朝はこれでもまだマシな方らしく、髪の毛が完全に視界を奪うことも珍しくない。一度他人と同じベットに寝た時には、危うく相手を窒息死させるところだった。


 30分ほどかかって髪の毛の手入れを終えると、部屋の窓を思いっきり開放し、そこからバルコニーに出て外の空気を吸う。これもまた朝の習慣の一つで、一日中大図書館に籠りきりのことが多いラヴィアにとって、外の新鮮な空気を確実に取り入れることが出来る貴重な時間なのだ。

 彼の部屋は東向きで、窓の外にはよく手入れされた生け垣と、その向うに城壁が見える。城壁の向こう側は海であり、ここからだと向こう岸が見える。



「…………………よしっ」


 外の空気を十分堪能したラヴィアは、最後に身だしなみが乱れていないかもう一度鏡を確かめ、私室を後にした。そして、私室から出た瞬間、彼は仕事場に到着するのだ。


 ラヴィアが居を構えているのは、アルカナ大図書館の奥にある、司書たち専用の部屋の一つ。私室と執務室がつながっている、今でいうなら2LDKマンションのような構造であり、代々大図書館に勤めた司書たちは四六時中仕事に対応できるようになっている。

 憧れの大図書館の中に住むことが出来ると云えば聞こえはいいが、仕事場にはしょっちゅう部下や関係者が遠慮なく入ってくるので、プライベートはないに等しい。



「司書長、起きていらっしゃいますでしょうか?」

「ええ、どうぞ」


 この日も、昨日やり残した書類をチェックしている最中に、廊下の方の扉からノックの音と声がかかる。ラヴィアが入室を促すと、一人の女性が入室してきた。

 藍色染めの長袖と白い布地が合わさったエプロンドレスを着用している彼女は、大図書館直属の侍女であり、一部を除いて館内の清掃や手入れ、炊飯などを行う。部署的には、司書プリシラの配下となっている。


「毎日朝早くからご苦労様です」

「いえいえ、ラヴィア様の仕事に比べればどうってことはありません。お洗濯ものはいつもの籠の中のもので大丈夫ですか?」

「はい。それとお花に水をあげておいていただけますか」

「かしこまりました」


 侍女に二・三言指示を出した後、ラヴィアは彼女だけを部屋に残して執務室から出て行ってしまう。

 ラヴィアはこれからすぐにやることがあるので、部屋の管理を侍女に任せているのだが、重要な書類やプライベートなものがそこらじゅうにあるにもかかわらず一人に任せっきりにしているといのは、よほどこの侍女はラヴィアに信頼されているのだろう。


 侍女は言われたとおり、まず水場から汲んできた水を、部屋にある観葉植物にやり、それから掃除や洗濯に取り掛かる。掃除は毎日欠かさず行っているうえに、ラヴィアも結構こまめにきれいにしているので、部屋は十分綺麗なのだが、それを保つために毎日掃除しているというのだから恐れ入る。

 さすが、ラヴィアの部屋の掃除をする権限を得ている侍女だけあって、その仕事ぶりは完璧、かつ素早い。開始から20分後にはほとんどの作業を終えてしまった。


 しかし―――――



「さて、最後に洗濯物をお片付けいたしましょうか…………ふふふ♪」


 今まで無表情で仕事をしていた侍女の顔が、突然妖しい笑顔に変わった。

 ベットメイキングの終わった後の、使用済みのシーツや寝間着が洗濯かごの中に入っている。侍女はあたりを見まわし、人がいないことを確認すると、籠の中にあったシーツを手にとって自分の顔に押し付けた。


「あぁ………ラヴィア様ぁ……」


 それは侍女にとって至福の一時。シーツから香るラヴィアのやさしい匂いが彼女の鼻腔にひろっがっていくのを感じる。彼女が朝早く起きてラヴィアのために尽くすのは、このご褒美が待っているからだ。

 300人以上いる大図書館専属の侍女の中で、ラヴィアの部屋に出入りできるのは彼女だけであるが、本当ならラヴィアは自分で部屋を片付てしまうので、部屋の管理を任されるために誰よりも朝早く起きて、ラヴィアのサポートを自分から願い出なければならなかった。

 夜遅くまで続く重労働にも関わらず、誰よりも早く起きるのは確かに辛いが、彼女はラヴィアの匂いを一人占めできるだけで十二分に幸せだった。


「ラヴィアさまぁ♪ 私は幸福ですぅ……。幸福です幸福です幸福ですううううううぅぅぅぅぅぅぅっ♪」


 シーツの次は、寝間着に手をかける。侍女はしばらくの間、世界でも有数のぜいたくに溺れ続けることだろう。


 今日も大図書館は、人々の優秀な知性と、寝る間も惜しむ忍耐と、飽きることのない欲望で動いている。





××××××××××××××××××××××××××××××



 この日もラヴィアの仕事は膨大な量だったが、彼はいつも通り淡々とそのすべてをこなしていた。

 相変わらず寝落ちしていた館長を起こし、ラヴィア以外の者が滅多に入らない館長室の清掃と館長の服の洗濯、館長が読んで読みっぱなしで部屋に溜めている本を書架に戻した後は、執務室に戻って経理の最終チェックと、各研究機関の進捗状況、問題行動の処罰経過といった書類を採決していく。


「とりあえず日課は終わりですね。後は何事もなければ昨日残してしまった作業の続きをしましょうか……」


 普通の人なら丸一日はかかりそうな仕事量を午前中に片づけてしまったラヴィアは、昨日中断してしまった別の案件を始末しようかと考えた。


 しかし、残念ながら今日は、平穏無事に終わる運命にはなかったようである。



「ラヴィア!!」



 大声と共に、ラヴィアの執務室の扉がノックもなしに勢いよく開いた。

 入ってきたのは、乱雑に切られた燃えるような赤毛が特徴的な、藍色のローブを羽織った中年男性。中年と言っても顔にはまだ皺があまりなく、髭も生えていないのだが、やや細い目つきと堀の深い顔立ちが彼をおっさん臭く見せている。


 中年は、かなり慌てた様子でラヴィアの机まで来ると――――


「頼む! マンドラゴラを助けてくれ!!」

「何事ですか、藪から棒に」


 落ち着きのない男性とは対照的に、ラヴィアは特に驚く様子もなく淡々と相手をしている。


「まずは落ち着きましょうか。深呼吸をしましょう、はい吸って」

「すぅ~~~…………」

「吸って」

「すぅ~~~…………」

「吸って」

「す………って、オイ!! 殺す気か!? 吐かせてくれよ!!」

「落ち着いたようですね、で……何事ですかサビヌスさん」


 この男は司書4人組の一人―――サビヌス。主に『図書館の維持管理』を担当しており、大図書館の修復や工事、研究所や広場の整備など、肉体労働が必要な任務では彼の出番となる。いわば緊急時に本領を発揮する部門なので、平時は臨検の写本など人手が必要な部門を手伝うのだ。



「実はな、今朝中庭の薬草園を見て回っていた時の話なんだが………」


 何とか落ち着いたサビヌスは、ここに来るまでに至ったことの顛末を話し始める。

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