コーヒーブレイク
「お待たせしました、預かった書物をお返しいたします。ご協力ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。さすが大図書館の方々…いつも通りの手際の良さで安心しました。それに…………『これ』もちゃんと元のまま返していただいたのですから」
6番埠頭にある、商船メリール号にラヴィアとフラーウスが戻ったのは、この船に立ち入ってから一時間後のことだった。押収――もとい、借り受けた書物のうち術調査された分はすでに兵士によって持ち主の元に戻っており、フラーウスが残りのものを彼女に渡せば、臨検は終了となる。
船主の女性も、提出した書物がすべて戻ってきたのを確認すると、一安心したのか先ほどよりも表情が柔らかくなり、口調も軽くなる。
「いつも通りだなんてそんな……あっ、そうだ! 証明書をお渡しいたしますね。こちらをどうぞ」
「はい、確かに受け取りました」
最後の仕事として、フラーウスから船のオーナーに、臨検終了済みを証明する木製の手形が手渡される。これを、港の役人に渡せば、晴れてこの船はこの海域を通過できるようになる。
「夫の両親から昔は……こういう本でも容赦なく原本を押収されたと聞きましたから、少々心配していたのですが……。よかった……ほんとうによかったです。ありがとうございます」
「ええっと……」
「大丈夫ですよ奥様。昔と違って今は法律により、持ち主の同意がないと原本を持ってきてはいけないことになっているんです。いくら私たち大図書館が国と同じくらい偉いといっても、国と同じように法律には逆らえませんからね」
「あら、そうだったんですね。この調子で臨検自体をなくしていただけるともっと助かるのですが」
「そうですね。将来技術が発達すれば臨検が無くても書籍の収集が出来るようになればいいですね。一応私たちもこういった作業は結構気が引けるものですから」
(どうしよう……話に入っていけない)
その後、とりとめのない会話を交わすラヴィアと女性。しかしフラーウスはキョトンとするばかりで、会話に入っていくことはできなかった。
××××××××××××××××××××××××××××××
東地区の港から大図書館に向かう道には、交易によって毎日大勢の人々が集まる商業地区がある。古今東西さまざまな品物が行きかう市場は商人たちの戦場であり、真夜中になるまで喧騒が絶えない。
ラヴィアはこの道を通らず、あえて裏通りを行くことにした。その方が人通りも少なく、スムーズに通行できる。裏通りと言っても、それなりにたくさんの店が軒を連ねており、怪しい雰囲気は一切ない。混雑を避けようとする馬車が何台か行き交い、喫茶店のオープンスペースでは、仕事に疲れた人々が一時の癒しを満喫している。
全ての作業を終え、ネルメルに報告を済ませたフラーウス。
今日の彼女の仕事は一応一段落となり、この後は大図書館に戻って本の整理や館内の清掃、または他の仲間の作業を手伝うことになる。
ラヴィアもまた新人教育が終わったので大図書館に戻るため、結局大図書館につくまで一緒に行くことになりそうだ。初めてのキチンとした任務を終え、ほっと一息ついた彼女だったが、その表情はどこか憂いを帯びていた。
「どうでしたか初めての臨検は? 楽しかったでしょう?」
「え!? えっと、はい……そう、ですね」
「私はもう司書長という立場ですから、こういったことをやらせてもらえる機会はそれほど多くないのですが、だからこそ毎回楽しみになってきたのでしょうね。今日はどんな人に会えるのか……楽しそうな人相手なら時間が許す限り直接話をしてみたいですし、捻くれている方だったら、ちょっと遊んであげるのもいいかもしれませんね。飽きないものですよ」
先ほどまで『気が引ける』なんて言っていた人間がいう言葉とはとても思えないが、ラヴィアの笑顔は心の底から楽しんでいるように見える。だが、その顔を見てフラーウスはさらに落ち込んでしまった。
「やっぱり私…………このお仕事向いていないのでしょうか?」
「おや、どうしたのですか急に」
急に切羽詰ったような悲しい顔でラヴィアの顔を見上げてくるフラーウス。しかしラヴィアは、落ち着いた笑顔のまま彼女のまなざしを受け止めた。まるで、彼女が思っていることを全部わかっているかのように。
「怖いのです……。まさか、見知らぬ人が持っている本をすべて取り上げて、場合によってはその人の意思に反しても作業を進めなくてはならないなんて……。こんな仕事をするなんて……思っていなかったんです」
「そうでしたか、それは困りましたね。でしたら、写本部門に転属します? ブルータスさんもきっと喜びますよ」
「い、いえ……わたしはその………昔から文字を書くのが遅くて。ああいった作業はもっと苦手ですから……」
「冗談ですよ。一応他にもいろいろ部門はありますけど、そう簡単には転属できませんから。大丈夫です、きっとやっていくうちに慣れていきますから。他の人だってみんなそうなんですから」
「………はい」
やはりというか、仕事の新入りにありがちなパターンとして、その仕事への憧れと現実の辛さのギャップに戸惑い自信を失ってしまうことがある。
彼女が今陥っているのがまさにそれで、ここで下手に矯正しようとしても結局仕事へのモチベーションが落ちたままになってしまい、最悪自分から辞めてしまうかもしれない。ラヴィアが言った「そのうち慣れる」とか「他の人も」などの当たり障りのない言葉も彼女の心には全く届いていないだろう。
ところが、こんな時でも我らが司書長は暢気なものである。
「いい匂いがしますね。この香りは珈琲(カフェー)……茶(テー)と違って挑戦的な香りですね。丁度仕事が終わって少し喉が渇きましたので、一杯頂いていきましょうか。フラーウスさんにも少し付き合っていただきたいのですが、いかがですか? お代は私が出しますので安心してください」
「ふぇっ!? わ、私なんかが……司書長とお茶させていただいてよろしいのですか!? で、ですが仮にも今は仕事中の身分ですが、だ……大丈夫なのでしょうか?」
「ふふふ、休むのも仕事の内ですよ、遠慮なさらずに。まぁ、嫌と言っても無理やり連れて行きますけどね♪」
「はいっ!」
二人がやってきたのは、小さな公共広場に面する小さな喫茶店だった。
店の設備だけでフロアの7割近くを占めてしまっているほどコンパクトな店であったが、人通りがあまり多くないことをいいことに公共広場の一角を店の机と椅子で占領し、ちゃっかりオープンスペースを作ってしまっていた。
とにかく土地が狭く地価も高い古都アルカナポリスでは、こうした風景は日常茶飯事ではあるが。
四つあるオープンスペースのうち、二つは他の客に使われていた。ラヴィアは、とりあえず席がとられないようにするためか、フラーウスだけを席に着かせると、自分はカウンターに注文しにいった。
店のマスターは、褐色肌にややごつごつした印象がある灰色の髪の毛と、髪の毛までつながった濃いひげが特徴の、異邦人風の男性だった。
「ゆくさ~、ご注文―――――っと、うへぁっ!?」
「コーヒーを二つお願いします」
「は、はぁあぃっ! ヨロコンデー!!」
ラヴィアはここでも、その人間離れした容姿で店の人を緊張させて見せた。
やはり知らない人が見ると、とんでもなく偉い人が来たと思われるらしい。まあ……実際とんでもなく偉い人なのだが。
若干南方語が混じる口調で対応してくれた店主はいそいそと珈琲豆を臼で砕き、それを熱湯で濾してカップに注いだ。安物だが、手入れが行き届いた小さなカップに流し込まれた茶色い液体は、お茶とは違う独特の重さを持った香りを漂わせていた。
「ありがとうございます。ですが……今更言うのもなんですが、実は私今お金を持っていないんです。また今度来たときに手持ちからお支払いいたしますので……」
「なんと!?」
と、ここでラヴィアがまさかの一文無し宣言。一見高貴そうに見える服装をまとっている上に、一生お金には困らなそうな美貌なだけに、人のよさそうな店主は目玉が吹っ飛びかねない勢いで驚いた。
「い、いえ……結構でごんす! ツケで結構でごんすから! い、いけんぞお飲みくいやんせっ! 自分はっ、貴女様のような方に、素晴らしかお方に飲んでんらゆぅだけで、光栄でごんすからっ! 自分はっ、お客様の感謝のお気持ちだけで、お腹は膨れましてんっ!」
「冗談ですよ冗談。ちゃんとお金は持っていますから安心してくださいな。確か一杯につき1アスでしたね。では二杯で2アスです」
「そ……そうでごわしたかっ! あいがとうございますあいがとうございます! 確かにお代は頂きましたけんっ! あいがとうございますあいがとうございます!」
…………もちろん、お金を持っていないというのは冗談だ。
「ふふふ、お店はお客様からお金を頂かないと成り立たないのですから、たとえ私のような人がお代を踏み倒そうとしても、ちゃんと対応しないとダメですよ。ましてや、感謝の気持ちだけでお腹いっぱいになるなんて、そんなことを経営者が言ってはいけません。ご店主様だけならまだしも、一緒に働いてくれる方や奥様などがいらっしゃいましたら、その方々に迷惑をかけてしまいますからね。でも、気持ちは嬉しかったですよ、ありがとうございます」
ラヴィアは珈琲二杯を受け取り、なぜか店主に優しく説教した後、フラーウスの待つ席に戻ってきた。
「お待たせしました。さあ、どうぞ」
「ありがとうございます……ですが、なぜあのような冗談を?」
「ふふふ、私だって普通に相手してくれれば普通にやり取りで済ませます。ですが、あのような反応をされたら、どうしても弄りたくなってしまうのです」
「初対面で司書長相手に普通の反応が出来る人なんて、いるんでしょうか?」
「達人プロたるもの、如何なる相手であっても動じてはいけません。それこそ相手の思う壺ですからね。さっきのやり取りも、その気になれば私は堂々と無銭飲食することが出来たかも知れません。まぁ、その境地に至るまでには経験値を積み重ねていかなければいけませんが」
「ですが私には到底………」
「出来ないと決めつけるのは早計ですよ。さあ、せっかくのアツアツの珈琲が冷める前に頂きましょうか。フラーウスさんは珈琲を飲むのは初めてですか?」
「はい……このような飲み物があると初めて知りました。いただきます……」
ラヴィアは珈琲の味を知っているのか、カップを傾けて優雅に口をつける。一方、フラーウスは未知の飲み物から発せられる強い香りに怯みつつ、恐る恐る口をつけて口に含んでみた。
―――苦くて渋くて辛い
「――っ!!!??? けほっ、けほっ……! な、なんですかこれ!? 舌が…痺れちゃいそうですっ!?」
「ああ、やっぱり苦いみたいですね。おめでとう、フラーウスさんもこれで大人の階段を一歩登りましたね」
「信じられません……なぜこのような飲み物が………。私の口にはとても……」
「大丈夫ですよ。愛用する大体の人は一度は経験する洗礼の様なものですから。
ですがまぁ、はじめからブラックで飲むのはさすがに厳しいですね。牛乳がありますから、これを少し混ぜて口当たりをまろやかにしましょう。そうすれば少しはおいしさが分かるはずです」
珈琲のあまりの苦さに悶絶するフラーウス。
そこで、ラヴィアは追加料金を出してミルクをもらうと、カップギリギリまで注いで珈琲の味とよく混ざるようにかき混ぜてあげた。本来の旨みからは遠ざかるものの、格段に飲みやすくなり、ようやく彼女も味わえるようになった。まぁ、それでもまだ十分に苦みや酸味は残っているのだが。
「どうですか、少しは飲めるようになりましたか」
「はい……まだ結構苦いですけど、でも不思議な味がしますね」
「この飲み物は、南都からさらに南にある地方でつい最近発見されたばかりの植物からできたものです。なんでも、その植物の実を食べると夜も眠ることなく活動できるのだそうです。それからは主に薬として扱われていたのですが、そのうち嗜好品としても利用され始めるようになりまして、栽培が広がった結果、最近ようやく庶民の手が届くくらい安く供給されるようになりました。南部大陸とこの国以外ではまだ高級品ですが、栽培農地は年々広がっているそうなので何時かは他国でも幅広く飲まれる日々が来るかもしれませんね。もしかしたらフラーウスさんも、将来毎日でも飲む日が来るかもしれませんよ」
「そうでしょうか……。今の私にはただただ苦いとしか思えなくて……」
「ふふふ、さあどうでしょう」
しかし、飲んでいると確かに心なしか目が冴えてくるような気がする。
ついさっきまで緊張しっぱなしで、緊張の糸が切れてこの椅子に腰かけたとたんに、若干眠気を感じ始めたフラーウスだが、珈琲を飲んでからは眠気を全く感じなくなってきている。本人にまだその自覚はないが、効果は確実に出ている。
「そうですね……。この珈琲も、仕事も……似たようなものかもしれませんね」
「珈琲と、仕事が似ている……ですか?」
「本来苦い味とか辛い味というのは、人にとっては苦痛なはずです。しかしながら、珈琲の旨みは苦みや辛みが無ければ成り立ちません。苦くて酸味があって……でも、それ以上にコクや甘みもあって、香りも豊か。珈琲を愛好している人たちはそれらすべてを受け入れているのです。仕事だってそうです。この世の中に辛くない仕事なんか一つもないのです。疲れますし、失敗すれば怒られますし、怖いお客様もいますし、怪我をするかもしれません。しかし、同時に嬉しいこともありますし、褒められることもありますし、お金も入ります。そして……長い間仕事をしているといつしかそれがは全部、愛すべき自分の生活の一部となるのです。今はまだ珈琲を飲み始めたばかりのような時期です。嬉しい事よりも辛いことの方が、敏感に感じられるかもしれません。人間辛いことが嫌なのは当たり前ですから、仕方のないことです」
「司書長………」
「いいんですよ、言いたいことがあったら何でも」
フラーウスは少しの間、視線を伏せて悩んだ。言いたいことがあるようだが、本当に言ってしまっていいのだろうか? 正直に話すのが怖いというより、失望させてしまうかもしれないという思いが強かった。
「―――情けないかもしれませんが、私が思っていたような仕事と違っていて、戸惑っているんです。この仕事をやりたいと思ったきっかけも、貴族である父の伝手ツテで雇っていただけると聞いただけでした。その頃の私は、図書館の職員なんて簡単で楽しい仕事だと思っていました。首都の学問所にある図書館のように、静かで知的な空間でゆったりと本を扱う。そんな想像しかできませんでした。しかも……この国が誇る大図書館で働けるというのですから、あまりの嬉しさに夢のような生活ばかりを考えていたのです! 私は甘かったんです! 生半可な気持ちで……誇りある大図書館の一員になるだなんて! 許されないことなのでしょう……!」
「…………なるほど、そういうことだったのですね。泣くほどまでに思いつめていたなんて、さぞかし辛かったでしょう。さ、涙は私が拭いてあげますけれども、その涙は本当は流してはいけない涙ですから、泣くのはその辺でやめてくださいね。
大丈夫です、臨検員の仕事は難しいことも多くてつらいでしょうけど、君には仲間がたくさんいますから、はじめのうちは彼らを頼ってみてください。何事も先達に教わることが、上達の近道なのですからね。それでもまだ辛いときは………いつでも私を頼ってもいいですから、ね」
「は……ぃ……」
ぽろぽろと流れる涙を優しく拭いてあげるラヴィア。
大図書館の職員の出自は実に多種多様だが、彼女のような温室育ちの貴族の子女は、実は一番扱いに困るらしい。そのほとんどは親または親類縁者のコネで来るのだが、全員が全員許可されるのではなく、採用は館長またはそれぞれの担当の司書に一任されている。
その中でもネルメルの管轄である臨検員は、『臨検員の仕事を通して鍛えなおしてほしい』という理由の者を採用する傾向があるらしく、その現場主義の職場環境についていけないと弱音を吐く者が多いのである。
ラヴィアもそれを承知しており、現実に打ちのめされた新入り達のケアはちゃんと心得ている。そして、虫をも殺せない彼女もいつか…………海千山千の商人たちすらアルカイックスマイルであしらう、りっぱな臨検員ブルーコートになっていくのだろう。
「そこのお前たち、なにをしている!!」
「へっ!?」
「おやこの声は……」
二人がまったり珈琲を飲んでいるところに、いきなり女性の甲高い声が響いた。
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