現世妖怪奇談/過去世抄

麻谷あをい

月下美人

「まあ、なんと可愛らしい」


 それが彼女の中にある一番古い記憶だった。


 乳飲み仔だった彼女を覆っていた闇が四角く切り取られ、そこから青白い肌の女が見下ろしている。

 整った顔に薄氷のような微笑みを浮かべそっと手を伸ばす。

 小さな彼女が身体を動かしたのはそれから逃れるためではない。

 冷たい、けれどもしなやかなその手に包み込んでもらうためだった。

 ぺたんとおしりをつけたまま、好奇心に満ちた瞳が周囲に向けられる。

 青々とした畳。ひさしは古い唐絵からえの屏風で広く仕切られている。

 妻戸つまどが開放されているのだろう、白地しらじあや銀糸ぎんしの縁取りがされた壁代かべしろが心地よい風を受けてゆるやかに裾を動かしている。

 時折覗く濡れ縁の外は眩しい光で満たされ、小さな黄色い赤方喰あかかたばみの花が白く滲んでいた。

 女の手の上で大きな頭と大きすぎる両の眼をせわしなく動かしていた彼女の視界に、一瞬、人影がちらりと映った。

 ほぼ真後ろのその影をもう一度視界に捉えようと、頭を大きく傾ける。

 まだ不均衡な幼な児の身体は、その動きに耐えかねて、女の手の中でころりと器用に引っくり返った。

「おや、まあ。ふふふ」

 その様子に女が頬をほころばせる。

 薄氷を耀かせる午前の日差しのような、たおやかな笑顔。

 見る者を惹き付けてやまない。

 呪縛のような、笑顔。

「六角堀川の君が」

 だが呪いはすべての者を縛ることはできない。

 実際、几帳きちょうの外に膝をつく青年は、眉毛一本とて動じた気配を見せずに言葉を続けた。

「返歌をお待ちで居られます」

 変わった風体の青年だ。

 浅葱の狩衣かりぎぬに緑の指貫さしぬきをまとってはいるが、艶やかな肌と端整な面立ちは女性と間違われてもおかしくはない。

 立烏帽子に垂髪すべしがみという出で立ちも、この青年がすると不思議と違和感を感じさせないのだった。

 女は、すぐには答えなかった。

 まだふわふわと動きたがる彼女を胸元で押さえながら、優雅な仕草で右手を伸ばす。

 開けられた黒漆くろうるしの小箱。

 その傍らの蓋の上。

 きちんと折り畳まれた檀紙まゆみがみを手に取り、広げる。

 あの透明な面を張り付けたまま一読すると、女は青年に微笑みかけた。

「なれば、しばしお待ちを」

 立ち上がり、滑るように畳を歩く。

 背後の文机には既に墨がすられ、檀紙が広げられていた。

 丁度何か書き物をするところだったのか。

 それとも、この成り行きを最初から予見していたとでもいうのか?

 軽い衣擦れをたてながら筆を動かす。

 そのかすかな動きは、膝の上に乗せられた彼女にひどく居心地の悪い思いをさせた。

 彼女を覆う柔らかな毛皮と硬く滑らかな絹は、どうにも相性が悪いのだ。

 辛抱できずに滑り落ちる。

 その先にあったのは暗闇だった。

 もがけばもがくほど方向感覚は失われ、幾重にも重ねられた豪華な袖が、まるでこの世の終わりのようにのしかかる。

 闇雲に身体を動かし続けていると、わずかな隙間から光が見えた。

 全力で頭を突っ込む。

 袂から、文字通り弾けるように飛び出てきた彼女に、女は見向きもしなかった。

 彼女はそれに気が付かなかった。

 青年は冷静に観察していた。

 彼女は、それにも気付かなかった。

「時に」

 明るい世界では、ついさっきまでの暗闇の恐怖が悪い夢だったかのようだ。

「綾部内麻呂殿は息災でしょうか」

 女の、澄んだ声を聞きながら大きく欠伸をする。

「ご健勝ですよ」

 答える声は素っ気ない。

 素っ気ないまま、言葉を続ける。

「車持の御方も順調に見つかってます。あとは右足と腹の一部で全て揃うとか」

「まあ、それは何より」

 祝福を込めて女が言う。

 それ以外どんな感情も含まない声音で。

 つい先頃、今年の桜の開花は早そうだ、と嬉しそうに告げてきたおうなに対する返答と少しも変わらぬ口調で。

「随分と長居をさせてしまいましたね」

 外からは墨が見えないように手元の紙を畳むと、女は文机の前を離れた。

 蔀戸しとみどが切り取った陽の光の真ん中でまどろむ彼女の横で膝を正し、文を差し出す。

「お言付け、くれぐれもよろしくお願いいたします」

 青年は懐から取り出した薄絹で、恭しくそれを包む。

 夢うつつなままで、彼女はその様子を見るともなしに眺めていた。

 陽光の外で交わされる二人の言葉は届かない。

 そして青年が辞去する頃には、睡魔の心地よいかいなに抱かれていたのだった。


 次に目が覚めた時、彼女を抱いていたのは女の白く冷たい手だった。

 小さく丸まっていた身体を思い切り伸ばし、欠伸を一つ。

 剥き出しになった、まだ何も知らない小さな牙を見つめながら、女は無言で彼女の頭を撫でている。

 ふと、畳の上に無造作に広げてあった文に目を止めた。

 それは、彼女を閉じ込めていた漆塗りの小箱に添えられていた短い恋文。

「……逢えぬ夜を」

 憂いを含んだ声が詠み上げる。

「逢えぬ夜を

堪え忍ぶ目に 月白の

影霞みなん 住吉の松」

 にゃあ、と。

 彼女は小さく鳴いた。

 鳴いたことに、取り立てて理由などない。

 小さな獣を贈られた女の困惑など、彼女には知る由もないのだから。

 だからそれは、言ってみれば単なる合いの手。

 無責任な相槌に過ぎない。

「この歌の意味が分かるの?」

 再び彼女は鳴き声を返す。

 質問に対する返答ではなく、女の声に応じて。

「そう……お前に名前を付けてやらなければ」

 それだけなのに。

「ね……?」

 女は、すう、と眼を細めた。

 唇の両端が持ち上がる。

 それは、紛うことなき魔性の笑み。

 白くしなやかな指先で文字をなぞる。

 その指を彼女の小さな額に置いた。

「住吉……」

 甘く語りかける声。

 眉間を優しく愛撫する。

 そっと、すべらせるように。時に強く。

 心が震えるほどの指使いで彼女の全身を刺激する。

 眉間から頭の後ろを通り。

 骨ばった背中の中心をたどって、腰から尾の付け根へと。

「お前の名は、住吉よ」

 自分の意思に反し、尻尾の毛が逆立つ感覚。

 たまらず彼女は大きく身震いする。

 それを合図としたかのように女の手が離れた。

 ふいに、彼女は言い様のない不安に駆られた。

 あと一歩のところで大事なものを取り逃してしまったという焦燥。

 自分の不注意のせいで、与えられるはずだった何かを手に入れ損なった絶望。

 そんなもの、まだ味わったことなどないはずなのに。

 形にならない恐怖を振り払うように、彼女は女を見上げて鳴き声を上げる。

 か細い声を。何度も、何度も。

「まあ、住吉は甘えん坊ね」

 女は楽しげに住吉の頭を撫でた。

 頬を、背中を。

 でも違う。そうやない。

 欲しいのはそれやないのに。




 住吉には知りたいことがある。


 今でもあの人は、あの時のように、うちを愛でてくれはるやろうか……――

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現世妖怪奇談/過去世抄 麻谷あをい @Asagaya-Awoi

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