二〇三九年七月二十六日 一四時二五分

沖縄県島尻郡座間味村阿嘉



 本部が用意したセーフハウスは阿嘉島のフェリーターミナルから徒歩で十分程度、小さな雑貨店の裏手にあった。集落のほぼ中心だ。

 おそらく毎年訪れる猛烈な台風に対抗するためなのだろう。建物の背は低く、コンクリートの壁は分厚い。

 屋根の上には大きな貯水タンクが置かれ、両側の門柱には沖縄風の狛犬、シーサーがそれぞれ鎮座している。入口のすぐ右がキッチン、反対側がダイニング。奥に居間、寝室が二つ。

 周囲に雑草が生い茂っている事を除けば、小さな要塞のような家だ。

 有難いことに、この家にはちゃんとエアコンが完備されていた。エアコンは今フルスロットルで室内の温度をなんとか二十五度に近づけようと唸りを上げているところだ。

 俺たちはセーフハウスに到着すると、いつもの習慣ですぐに居間のガンロッカーに収納されている装備品をチェックした。

 三一式アサルトライフル二丁、予備拡張マガジン六個、五.五六ミリライフル弾四百発、五.五六ミリタングステン徹甲弾百発、九ミリ強化強装弾百五十発、九ミリフランジブル弾百五十発、バレットM107A4対物ライフル一丁、予備マガジン六個、十二.七ミリ口径APFSDS徹甲ライフル弾五十発、十二.七ミリ口径フランジブルライフル弾五十発、七〇口径サーモバリック弾百発、七〇口径強装徹甲弾百発、電磁フレア・グレネード一箱、EMP爆弾三組、クレイモア一箱、プラスティック爆弾二十キロ、遠隔起爆装置三組、時限起爆装置三組、スポッタースコープ二基、携帯風向計二基、小型無人偵察グライダー二機、その他サバイバルキットと応急薬品一式、応急手術用器具一式、情報端末を兼ねた電子サングラス二組、暗視ゴーグルNVD二基、フェイスぺイント、それにボディアーマー二組。

 すべての装備品が整然とスチールのラックに収められている。攻撃を一回しか想定していないため弾薬が少ないが、装備としては十分だ。

 とりあえず裏庭にクレイモアを設置する。

 トラップワイヤーはセットしなかった。万が一ご近所様を吹き飛ばしてしまっては面倒だ。

 裏庭から戻ってくると、居間の隣の薄暗いキッチンでは早速マレスが小型無人偵察グライダーナイト・レイヴンを組み立てていた。

 全長五十センチほど、完全自律飛行機能を備えたこの紙飛行機のようなグライダーは、主翼の太陽電池で内蔵の二次電池を充電しつつゆっくりと上空を旋回し、搭載された高性能カメラとサーマルビジョン、それに高度な聴音能力で二十四時間地上を監視する。飛び立てば文字通りクレアの目と耳となるはずだ。

「はーい、できましたよー」

 マレスは組みあがったグライダーに声をかけると、今は黒く見える機体を片手に裏手のドアから外に出た。

「よろしくね」

 グライダーを右手でやさしく虚空へと押し出す。

 大きな透明のプロペラをゆっくりと回しながら、黒いグライダーは無音のまま上空へと舞い上がって行った。

 メタマテリアルの電磁光学迷彩を備えたこのグライダーは、上空の色彩を正確に機体下面に再現する。一度宙に舞い上がってしまえば機体は空に溶け込んですぐに地上からは見えなくなるはずだ。

そら君、やっぱり海が見えたほうがいいよねー」

 いつも持ち歩いている、亡くなった家族の写真を飾る場所をウロウロ探しているマレスを後ろに、俺は居間の片隅、一般家庭であればテレビが置かれているであろう片隅に設えられた通信コンソールを開いた。自衛隊の石垣島通信インフラを間借りする形で市ヶ谷地区と繋がれているこの光学通信有線ネットワークは通信傍受される心配がない。

「やっぱりここかなー」

 マレスが写真を窓際に飾る。

――着きましたか、和彦

 コンソールに火が入ったのに気づいたのか、早速クレアが話しかけてくる。

 画面の左側に開かれたウィンドウに映る白いスーツ姿のクレアは涼しげで、クレア専用の大容量インターフェースチェアに収まったその姿は実に心地よさそうだった。

 本部にいる限り、クレアはネットワーク資産も電子支援も使い放題だ。いつもであれば小型ターミナルやキーボードに頼らざるを得ないような操作も、この椅子に座っていれば脳内で――人工知性体に対して脳と言うのも変な話だが――処理できる。

――そちらはどうですか? 暑い?

「ああ、暑いな。気温三十二度、今日の予報では最低気温が二十六度だ。湿度も高い。那覇よりはまだマシだが最低だ。ベタベタしてかなわん」

――やはりその辺は日本ではないですね

「気候的にはな」

「やっほー、クレア姉さま」

 俺の椅子の背に両肘を預け、マレスが隣から割り込んできた。

「そちらはどうですか?」

――東京では雨が降りそうですよ。私は二十六階の遠隔指揮室にいるから関係ないですけど

「さっきナイト・レイヴンを上げました。データ、来てます?」

――ええ、入電し始めていますよ。住民と観光客のマーキングが始まったところです。今、百二十人マークし終わりました。そろそろ見えるはずです。マレス、データグラスをかけてごらんなさいな

「うん」

 クレアに促され、マレスがサングラス型のデータ端末を棚から取り出す。

「はい、和彦さんも」

「ああ」

 マレスに続いて、俺も渡されたデータグラスをかけてみた。

 なるほど、すでにデータが流れ始めている。

 眼鏡をかけた途端、壁の向こう、海際の道を歩く二人の人物の輪郭が描画され、そこにTDターゲット・ディスプレイボックスが表示される。表示は緑。敵性ではない。TDボックスには枝が生え、そこに顔認識で割り出されたそれぞれの氏名が表示されている。

「見えました。でも、全員ではなさそうですね」

 マレスが冷静に周囲を見回しながらクレアに言う。

「もっと周りにはもっと人がいるはずです。気配があるのに見えない人がいます。それに家の中の人もまだ表示されていないみたい」

――まだ特定が完了してない人は見えないから。それに、漁師の人とか、ダイビングインストラクターの人とかはまだ海に出ているみたいですね。お年寄りも暑い昼間は外に出ないみたいで、そういう人たちのマーキングも遅れています。でも、明日の朝までにはマーキングも終わるはずです

「ジジババはどのみち員数外なんだから、あまり気にしなくていいだろう」

――お年寄りです、和彦。あなたは本当に口が悪いですね

 クレアがいつものように小言を言う。

 俺はそれを聞き流すとデータグラスを外してテーブルに置いた。

「できれば今日の日没までには目星をつけたい。どれくらいで特定できそうだ? 特定できれば明日のくだらんダイビングツアーに行かないという選択肢が出てくるかも知れん」

「えー、行かないんですか? 楽しみにしてたのに」

 まだ透明なデータグラスをかけているマレスが頬を膨らませる。

「お前は一体何をしに来たんだ。あれはあくまで偽装だ。行かないで済むならその方がいい」

「それはそうなんですけどお……」

 ふくれっつらでマレスが口を尖らせる。

 俺は片手でマレスの顎を掴むと、少し力を入れて膨れた頬から空気を抜いた。

「そんな顔をするな。お仕事だろ?」

 東京から千五百キロあまり。

 カメラの向こうで俺たちのバカなやり取りを見ていたクレアが微笑を浮かべる。

 モニターの中でクレアは口を開いた。

――努力はしますけど和彦、今日中の特定は難しいかも知れませんよ。相手はどうやら隠れる気がなさそうなので見つけるのは比較的簡単だとは思いますが、なにしろ電子探査手段が効かない相手ですからね。それなりに時間がかかります

 クレアは俺に言った。

――第一、特定できたとしても作戦のブラッシュアップをしないといけません。大まかな作戦計画は策定済ですけど細かいチューニングが必要です。ブラブラ出かけて行って対処できるような相手ではないのでしょう? 和彦、明日の昼のダイビングは行ってきて下さい。午前中に二本潜ればいいだけの話です。偽装工作は重要です

 大田大佐を説得して投降させるつもりでいることを俺はクレアにも話していなかった。

 隠すつもりもなかったが、言う機会がなかったのだ。

「……了解」

 渋々クレアに答える。

「和彦さん、ひょっとして旅行、嫌い?」

 何かを誤解したマレスが、気遣わしげに背後から顔を覗き込みながら俺に尋ねた。

「いや、別に嫌いじゃあないんだが」

 何にでも感激し、明るいマレスと行く旅行はとても楽しい。

 それが任務でなければ、だが。

「状況が状況だ。今はとても楽しむ気にはなれん。それに、俺はダイビングはあまり好きじゃないんだ。アラスカの深海で凍死しかけた事を思い出す」

「明日行くところは綺麗みたいですよ。一本目に行く西浜は白い砂地で生き物が沢山いるみたい。二本目の儀名はマンタレイやウミガメがいるんですって。平均水深も一〇メートルくらいだし、楽しいと思うな」

「カメラ、持っていくか。大久保はマレスの水着写真をご所望だ」

「撮らないでくださいね。私、傷だらけだから写真は断固拒否します」


+ + +


 なるほど、阿嘉島の海底はとても美しかった。これは巨大な海中の宝石箱だ。

 米軍の放出品だという小舟のようなボートで沖合にまで連れて行かれると、俺たちは若い女性ガイドに連れられて海底に降りた。

 正直、一〇メートルならスキューバは要らない。俺もマレスも五分近くは無呼吸で活動できる。スキンダイビングのほうがずっと身軽で楽だ。

 俺はBCD浮力調整ベストからエアを抜くと、西浜の砂地にあぐらを組んだ。タンクを背もたれにして、楽しそうに漂うマレスをのんびりと下から眺める。

 水面から差し込む明るい陽光が無数の線を描いている。下から見上げる水面は波打つ鏡面だ。

 白く輝く水面を背景に、黄色や青色、それに半透明な身体の稚魚が塊になって群泳している。

 この水域は透明度が高いため、水中を遥か彼方まで見渡すことができた。遠くのほうにぼんやりと、赤や黄色のサンゴに彩られた大きな岩が見える。

 マレスが行きたがるのも無理はない。

 水温が高かったためウェットスーツは着なかった。水温が二十七度もあれば体温損失は気にしなくても問題はない。第一、スポーツダイビングだ。厳格に三十分の潜水時間が守られているスポーツダイビングなら、身体が冷えきる前に潜水時間が終わる。

 自分でも言う通り、赤いビキニを着たマレスの身体はところどころに大きな怪我の跡があった。今はBCDに隠されていて見えないが、右の脇腹にはえぐられたような銃創があるし、背中にもかなり大きな縫い跡がある。

 徐々に日焼けし始めているマレスの肌の上で左肩の細い傷跡が白く浮き上がっている。写真を嫌がるのも無理はない。

 いや、別の理由なのかも知れないが。

 ふいにマレスは俺の方に寄ってくると、ベルを鳴らしてから軍隊式のハンドサインで話しかけてきた。

 俺を指差し、立てた両手の人差し指を二度ほどぶつけて握った拳を上下に振る。ついで指で方向を指示。

 〈和彦さん〉〈一緒に〉〈早く〉〈あっちに行きましょう〉

――マレス、口で言え。何のために水中通話機つけたんだ

 言いながら広げた手のひらを上から下に下げる。〈隠れろ〉のサイン。

 こんなところで軍用ハンドサインを使っていたら怪しさ満点だ。

――あ、そうか

 マレスがレギュレーターを咥えた口元に右手をやる。

――なにがいるんだ?

――この先にチンアナゴの群生があるんですって。見に行きましょ?

 マレスの後ろについてチンアナゴの群生地へと向かう。

 ガイドよりも俺たちの方が泳ぐのが速い。俺たちが履いているのはフレキシブル・ポリカーボネートで作られた大型のジェットフィンだ。脚力を要するためレジャーではあまり使われないフィンだが、ちゃんと使いこなせれば恐ろしく速く水中を移動することができる。

 時折ガイドが追いつくのを待ちながら根を越える。

 マスクに内蔵されたダイビングコンピューターが示す水深は十五メートル。

 下がってきた水温が心地よい。

『チンアナゴ。その先です』

 五ミリのウェットスーツに長いフルフットフィンを履いた、完全武装のガイドが手にしたメッセージボードを水中で掲げる。

 俺は右手でOKサインを作ると膝から砂地に匍匐した。

 確かに砂地から白い草の芽か細いタケノコのようなものがたくさん顔を出し、水の流れにゆらゆらと揺れている。

――かわいい。もっと近寄れるかな

『ゆっくり。背中の黒丸が見えなくなったら止まって』

 ガイドが慌ててメッセージボードをボードをマレスにかざす。

 だが、ストーキングをマレスに説くのは無粋に過ぎるというものだ。

 マレスは全身を脱力させて水の流れに身を任せると、砂地に突いた右手の人差し指と中指でゆっくりと身体を前に押し出した。

 全身が完全に水に同化している。呼吸量もごく僅かだ。

 マレスは流れを読んで廻り込むと、うねりに揉まれながらゆっくりとチンアナゴの群生へと流されていった。

 寄せるうねりに乗ってチンアナゴに近づき、引くうねりは姿勢を低くしてやり過ごす。

 マレスの栗色の髪が海草のように柔らかく漂う。

――こんにちは

 見る間に三十センチほどまでに接近したマレスは、笑顔でチンアナゴの顔を覗き込んだ。

 水中を伝わる音波に驚き、チンアナゴが一斉に砂地の巣穴の中にその身を隠す。

 だが、一分ほど待つと、チンアナゴたちは再びゆらゆらと巣穴からその姿を現した。

 もはやマレスを人間として認識していない。チンアナゴたちはマレスの事をそこらに漂う藻屑か何かと誤解しているようだ。

 水のうねりに漂うチンアナゴと共に揺れながら、マレスは再び幸せそうな微笑みを浮かべた。


+ + +


「ウェット着ない段階でおっかしいなとは思ったのよね。あなたたち、プロ?」

 ダイビングボートに上がった後、タンクを交換して装備品を整理している俺たちにアケミという名のガイドが話しかけてきた。両手に持った暖かい麦茶のカップを差し出す。

 ここで隠すとかえって怪しい。麦茶を受け取りながら、俺は素直に認めることにした。

「ああ、防衛省だ。いまは休暇中でね、遊びに来たんだよ」

「ひっど。あたし、海猿と潜ったの? あたし要らないじゃん」

 海猿は海上保安庁だが、細かい事には触れないことにする。

 彼女は自分のタンク残量を示した。

「あたしは残圧130なのに、沢渡さんは150、霧崎さんに至っては175って、ほとんど使ってないじゃん」

「エアを使わない癖がついてるんだよ」

「泳ぐのだってあたしよりずっと速いし、教わりたいくらい。チンアナゴにあんな距離まで近づける人なんて見たことないわ」

 上半身をはだけた黒いウェットスーツの腰に両手をあてて頬を膨らませる。

 水色のビキニのアケミの色黒の丸顔には妙な愛嬌があった。いつも水に浸かっているためか皮下脂肪が厚い。メリハリがないわけではないが、首から丸い肩への線はまるでイルカのようだ。

「水と同化しちゃえばどうってことはないですよ。流される先にチンアナゴがいるようにすればいいんです」

「そんなことできるのって霧崎さんだけですって。あんなの初めて見たわ」

「そうかなあ」

 両手で握った麦茶のカップを傾けながらマレスが言う。

「簡単ですよ? 流されてるだけだもの」

「簡単じゃないってば。そんなこと聞いたら日本全国のダイバーさんが怒っちゃうよ」

 アケミが怒ったようにいう。

「えー、そうなの? 簡単なんだけどなあ。どうやって説明したらいいんだろう?」

 マレスが困惑した表情を浮かべる。

 おそらく、マレスにしてみたら『どうやって息をすればいいんですか?』と聞かれたようなものなのだろう。自分にとっては簡単な事を説明する言葉を探して困り果てている。

 そんなマレスを見ながら、ふいにアケミは笑みを漏らした。

「やっぱプロは違うわね」

 俺たちが乗っているダイビングボートは、米軍の海兵隊が放出した小型の上陸用舟艇を改造した船のようだった。

 ガンメタルグレーのダイビングボートは小さく、船長とアケミの他には俺たちしか乗っていない。船首部分には折りたたみ式のダイビングデッキが備えられ、乗降は普通の漁船よりもはるかに楽だ。キャビンはなく、甲板の上には青と白の縞模様のキャンバスが張られた手製の天蓋が取り付けられている。

 アケミはデッキに座った俺たちの身体をまじまじと見つめると、感心したように鼻を鳴らした。

「フーン、防衛省ってやっぱり大変なお仕事なのねえ。二人ともすごい身体。腹筋バリバリに割れてるじゃん。傷だらけだし」

「やー、見ないで下さいッ」

 慌ててマレスが大判の黄色いバスタオルを身体に巻きつける。

 確かに、俺の身体も傷だらけだ。右肩には大きな火傷の跡があるし、あちらこちらに銃創や切り傷もある。

「えー、いいじゃんいいじゃん、格好いいよ」

 アケミは大口を開けて笑うと、

「それみんな勲章じゃん。恥ずかしがることなんてないよ」

 とマレスに言った。

「だって」

 涙目のマレスが隣で口を尖らせる。

「うー」

「軍人さんって、怪我すると勲章もらえるんでしょ? いいなー、あたしらなんて怪我しても誰も褒めてくんないもん」

「日本にはパープルハート章はないよ。それにあれはもっと大怪我しないと貰えない。死んでしまうような大怪我をした人だけがもらえる特別な勲章なんだ。たとえば手榴弾の爆発を自分の身体で防いだとか」

 俺はアケミに言った。

「へー、そうなんだ。それにしても美男美女カップルよねー、あなたたち。自衛隊も悪くないかも。沢渡さん、若い頃のクリスチャン・ベールに雰囲気似てるとか言われない?」

 アケミは俺が知らない俳優の名前を挙げた。

「あー、言われてみればちょっとそうかも」

 マレスがアケミに同調する。

「いや、そんなことを言われたことはない。いつもオッサン扱いだ。だいたいそいつ、名前からして日本人じゃあないじゃないか」

「そういえば話し違うけどトム・クルーズがまた映画撮るみたいですね。今度はどこから飛び降りるのかなー」

 クリスチャン・ベール氏の事は放っておいて、いつものようにマレスがころりと話題を変える。

「この前の映画よりも高いところって、どこだろ?」

 とアケミ。

「エクアドルで建設中の軌道エレベーター、かなあ。でも空気ないですね。まだ係留ワイヤーも地上に届いてないし」

「トム・クルーズなら空気なくても死なないよ。でもあの人もいい加減歳よねえ。もう八十近いんじゃない? そろそろ飛び降りるのやめればいいのに」

「ですよねー、今度こそ本当に死んじゃうかも」

「ま、本望かも知れないけどね。何しろ俺って最高って人だから」

「クリスチャン・ベールもかなり無茶してたけど、トム・クルーズには負けますのものねえ……」

 穏やかに揺れる船の上で二人の緊張感のない会話を聞きながら、どこか俺は心が軽くなるような気持ちを味わっていた。

 今日の天候は快晴。水平線のあたりに白い雲がまばらに浮かんでいる。

 俺は船べりに両腕を預けると、太陽が眩しい紺碧の空を見上げた。

 頬を撫でる海風が心地よい。

「こういうのもいいもんだな」

「ね? 来て良かったでしょ?」

 まだタオルを身体にきつく巻きつけているマレスが隣でニコニコ笑う。

 こんなふうにリラックスして見知らぬ人と接した記憶はついぞない。

 青い海に浮かぶこの島には、人の心を開かせる何かがあるのかも知れなかった。

 この島のどこかに大田大佐がいる。

 逃げるつもりなのだったら、他にいくらでもやり方はあったはずだ。

 しかし大田大佐は顔も変えず、姿を隠すこともせず、堂々と民間の移動手段でこの島にやってきた。

 大田大佐はこの島に何を求めたのだろう。

 大田大佐はこの穏やかな島で一体何をしているのだろう。

 音を立てて風にはためく青と白のダイビングフラッグを眺めながら、ぼんやりと考える。

 この島に何があるのだろう。

 ふと俺は、隣でマレスがなにやらごそごそやっていることに気づいた。

 黄色いバスタオルを羽織ったまま、防水バッグを開けて中を覗き込んでいる。

「あれー? どこかな?」

「何を探しているんだ?」

「えへへ。アケミさんにきいてみようと思って……あ、あった」

 マレスはようやく見つけたスマートフォンを操作すると、画面をアケミに差し出した。

「ね、アケミさん、この人を知らないですか?」

「誰だれ?」

 アケミがスマートフォンの画面を覗き込む。

 画面に写っていたのは国連監察宇宙軍の軍服姿の大田大佐の写真だった。

「沢渡さんの昔からのお友達なんです。最近こっちに引っ越してきたんですって。ひょっこり尋ねて驚かしたらどうだろうって話してたの」

 またマレスに先回りされた。

 こんなに小さい島だ。確かに上から探すよりは地元のツテを辿ったほうが早いかも知れない。

「んー、誰かな? 会った事があるような気はするんだけど。ケンちゃーん、ちょっと来て」

 アケミが操船コンソールでタバコを吸っていた船長に声をかける。

 ケンちゃんと呼ばれた若い船長は舵輪から手を離すと、「んー?」と、くわえタバコのままスマートフォンを覗き込んだ。

「ああ、シンさんじゃん、ほら、外れの方に最近越してきた」

 シンさん。心。大田心。大佐の名前だ。

 良く日焼けした細い身体にピンク色の開襟シャツを羽織り、麦わら帽子をアミダに被った若い船長は、灰皿替わりにしているインスタントコーヒーのガラスの空き瓶に今まで吸っていたタバコを押し込んだ。

「知ってるんです?」

 ガラス瓶の蓋を閉めながら俺に尋ねる。

「ああ、昔からね。最近リタイヤしてこっちに引っ越したって連絡があったから、休暇ついでに来てみたんだ」

「あー、サプライズパーティだ」

「そうなの。内緒ですよ?」

 マレスがウィンクしながら立てた人差し指を唇に当てる。

「判ってますって」

 船長が日焼けした顔に人のよさそうな笑みを浮かべる。 

「良く、話をするのかい?」

 俺は船長に尋ねた。

「いやあ、挨拶程度。でもほんと、いい人ですよ。この前タンクを軽トラに一人で運んでたら手伝ってくれました。脚が悪そうなのに悪いことしちゃった。そうか、軍人さんだったのか、それならわかるなー、すげー力強かったもの」

 得心したようにひとり頷く。

「知らなかった。あたし、まだ話したことないや」

「下の名前で呼んでるから、よく知ってるのかと思ったよ」

「いやー、この島に住んでる人っておんなじ苗字の人が多いんすよ。人数も少ないし。だからあだ名とか下の名前とかで呼ぶことが多いんです。苗字だとわかんなくなっちゃうから」

「へー、面白いですね」

「店に戻ったら地図書いてあげますよ。行けばわかると思います」

「ああ、ありがとう」


 二本目の儀名でのダイビングは不調だった。

 待てど暮らせどマンタレイはついに姿を現さなかったし、ウミガメは一目散に逃げ去る後ろ姿をはるか彼方に見ただけだ。

 もっとも、俺たちはマンタレイにもウミガメにもさほどの執着はなかったので別段残念な気持ちにはならなかった。

 マレスは珍しいウミウシを見つけて大層ご満悦だ。マレスが小瓶に詰めて眺めているパンダツノウミウシなる白黒の小さなウミウシは、アケミによればたいそう珍しいのだと言う。

 ダイビングショップでの仕出し弁当の後、三本目で名誉回復させて欲しいという二人の誘いを断り、俺たちはダイビングギアをショップに預けたままセーフハウスに戻った。

 すぐに通信コンソールを開き、クレアを呼び出す。

「クレア、どうだ?」

――ああ、和彦。どうにも不本意です

 クレアの表情は曇り気味だ。

「どうしたんだ?」

――何もかも不調です

 珍しく機嫌が悪い。人工知性体の機嫌が悪いというのも不思議な話だが、クレアの背中から欲求不満の黒いオーラが吹き出している。

「どういう事だ」

 俺はクレアに尋ねてみた。

――言葉通りの意味です。こんな小さな島です、大田大佐を特定する程度なら簡単なお仕事のはずだったんです

「まだ見つからないの?」

――そうなんです。サーマルビジョンも使っているのですが、成果ははかばかしくありません。誠にもって不愉快ですが、まだ成果はほぼゼロです

「まあ、相手はM6だからな」

 俺はクレアに言った。

「隠れるのはお手の物だろう」

――それはそうかもしれませんが……それに、この島にいる人たちも悪いんです

 まるで八つ当たりでもするかのように責任を島の住人に転嫁する。

――阿嘉島と慶留間島に現在滞在している人の数は島の人口と観光客の出入りで完全掌握できます。阿嘉島の人口は二百九十一人、慶留間島に至っては七十三人ですから、住人全員をマークしてしまえば残りから大田大佐を特定できたはずなんです。でも、数が合わないんです

「どれくらい違うんだ?」

――だいたい四十人です。全員マークしたにも関わらず、観光旅行客を除外しても約四十人多すぎるんです。未知の人が紛れています

「その程度だったら上出来だ。この島は思ったよりも懐が深い。浮浪者みたいな奴が紛れていてもおかしくはないようだ。大田大佐は正しい場所に来たのかも知れん」

 アケミの話だと、観光で来てそのまま居ついてしまうものもいるらしい。それに漁船をヒッチハイクして来島するような若者もいる様だ。離島では都会の常識が通用しないという事なのだろう。

――だとすると、これは問題ですよ、和彦。インプラント・トラッカーもIFF敵味方識別装置も死んでいる以上、大田大佐を見つける作業は思ったよりも大変です。ビジュアル情報だけで追うには限界があります。もう一機ナイト・レイヴンを上げないといけないかも。あるいは電子戦巡視艇を向かわせるか

 こんな小規模な作戦にアルゴス艦を呼ぶわけには行かない。確かに有効かも知れないが、百の目を持つ電子戦巡視艇は運用にとんでもない金がかかる。

「いや、そうでもない」

 俺は手にした紙切れをカメラの前に広げて見せた。

「ダイビングショップの船長さんが大田大佐と顔見知りだったんだよ。すぐに家までの地図を書いてくれた」

――それを、和彦が?

 モニターの向こうでクレアが驚いた表情をする。

「ああ、簡単に教えてくれた。書いてもらった地図がこれだ」

――あなたにもソフトスキルがあったんですね。驚いた

「マレスが助けてくれたんだよ。それに、たまにはそういうこともあるんだ」

 なんとなく失礼なことを言われたような気もしたが、気にしないことにする。

――了解しました。地図に書かれた場所に行ってみます

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