5.3.2 願い

 刺された。ただ、それだけの事。

 だからハラルトは地面に突っ伏した。身悶えなど、ない。

 倒れるだけならば、まだ良い。心地が悪いのは、マオテと同時に貫かれたから、何本かが彼に引っかかっていて、彼にのしかかられるような恰好になっているという点。でも、居心地が悪い、というだけの話であり、覆いかぶさるマオテの温かみは、相変わらず好きだし、手放したくない。

 槍を伝わって垂れてきた赤が、ハラルトに触れる。それを彼女は、細くした目で、確かに見た。

 何本刺さっているのだろう。数える事もバカバカしい。それに、空は夜色に包まれ始めたから、星の明かりだけではよく見えない。

 周囲の音が間延びして、頭に響く。精査する如く、一個一個の台詞を拾ったら、ハラルトへの侮辱だったり、彼女と共に伏すマオテへの憎悪だったり、様々だった。やがてそれらは、再び二つに割れ、互いを侮蔑し合った。

 敗れた。彼女は、自らを穿った槍を震える指でなぞりつつ、自分は槍に敗れたのではなく、どうしようもない厭世観に敗れてしまったのかも知れないと、思う。人はどこまでも醜いもので、決して争いを止められない存在なのだと。

 悲哀など、生まれなかった。この状況に対しての当惑も、なかった。

 ただ、全てを、憎しんだ。


 空を。大地を。自分を。醜く争う人々を。意思に反して死んだ、愛する者達を。そして、この運命を。

 だから、目を瞑って、ハラルトは願った。その願いに、応じた者がいた。




『――――良いのか、ハラルト』

「もういい。こんな世界、なくなっちゃえばいい」

 白い獣。いや、紫色の、獣の姿をしていた、虚空の意思。

『無限にも思える時間を経て、ようやく手に入れた歪みを壊されてしまえば、私が困る。世界は、私と対を成す、言わば私の裏側だ。裏があるから、私は存在できている。お前に表裏があるように。お前は、私を消そうと言うのか』

 呆れたように、それは言った。構うものかと、ハラルトは思う。

「そんな事、知らない」

『では、今のお前は、私の敵だ』

 吐き捨てた虚空の意思へ向けて、ハラルトの感情が爆発する。

「人は。世界は。歪んでる。何もかもが、歪んでる。こんな世界があるから、苦しいんだ。もう、何もかも消えてなくなっちゃえばいい。だって、そうでしょ? ハラルトは虚空で、こいつらはみんな、歪みなんだ。じゃあ、ハラルトの敵だ。全部、全部、ハラルトの敵だ。ハラルトにしかできない事、やっとわかったよ。世界の均衡なんて、難しい事はわかんない。でも、そうじゃないんだよ。世界をなくしちゃわないと、いけなかったんだ。だから、ハラルトはみんな壊すよ。空も、大地も、人も。この世界のみんな。全部を。元に戻すんだ。それがいいでしょ? 何もないって、きっと素敵な事なんだ。誰にも喜ばせないし、誰も悲しまない。こんなに素敵な事が、他にあるの?」

 しばしの沈黙を湛えた虚空の意思が、呟く。

『本当に、良いのか』

 決まっている。

「ハラルトは、世界を愛してない」

 意思が、言葉を継ぐ。

『世界は、再び長い時間を経て、生まれる。何度でも。その度に、お前が経験したような”悲劇”が、形を問わずに起こる』

「その度に、全部消してやる」

 ハラルトは、即座に応じた。

 すると虚空の意思が、

『再び世界が生まれるまでは、お前とは長い時間を共にする事になるな。敵というのは誤りかもしれない』

 と、意味不明な事を言った。

『人々の希望や呪いは、事象に溶け込み、各々の目的は、万物の原理に溶け込んだ。世界は歪曲を分離させている。新しい力で、均衡を取り戻そうとしている』

 単なる、言葉の羅列にしか思えない。うんざりしたハラルトは、無駄な話に終止符を打つ。

「どっちでもいいよ、そんな事――――」




――上下がねっとりと張り付く瞼を持ち上げてみたら、嗜眠状態に陥ったマオテがぐったりと項垂れてきたままであった。少々窮屈故に手間取ったが、ハラルトは横を向いて、自分と彼を接続させていた槍を、抜き捨てて立ち上がる。続いて、自分の体に残った鬱陶しい槍も、丁寧に引っ張った。

 一本。

 二本。

 三本。

 四本。

 貫通したものも、あった。

 よくもこんなに刺さったものだと感心しつつ、彼女はマオテに近づいて、彼に刺さったままの槍も、抜いてあげた。それは、全てを憎しんだハラルトに僅かだけ残る、人らしい最後の情念だった。

 槍を引っ張った際に、彼の体がピクリと、些かばかり震えた気がしたが、”彼は”助からないのだからと、構わずに続ける。マオテから凶器を抜き取った時、彼の傷口から多くの血液がこぼれ出して、地面へ染みを広げた。赤い染みの表面には、空の光が瞬いて、小さな星空が広がっていた。

 ハラルトは、マオテの顔の横で、徐に膝まづく。刺された時に苦悶の悲鳴を上げていた筈の彼は、相反して、穏やかな表情だった。内心ホッとしたハラルトは、彼の頬を両手で固定して、静かに、彼の唇へと、自分の唇を重ねる。まだまだ、温かかった。


 人らしい情念の、ちっぽけな欠片。マオテから唇を離すと同時に、それが、失われた。


 取り留めなく、周囲からの雑音がぶつかり合う。立ち上がったハラルトは、それらを鬱陶しいと感じつつ、自身の熱い傷口に触れて、そして、目撃した。大きな穴に、小さな穴。そこから、紫色が頭を出している。

 すぐに、大量に漏れ出した虚空の勢いが、砂嵐のそれよりも、遥かに強烈となる。まさに、噴き出すという表現が相応しい。

 それに気づいたであろう人々が、再びこちらへ向けて、悪意の言葉や、石ころを投げつけてきたが、ハラルトには、どれも届かない。ひたすらに噴き出した紫色が、ハラルトの傷口と繋がったままに、彼女の周辺――空中へと、溜まってゆく。やがて、一帯を紫の光一色に染め上げる位まで虚空を噴出させたところで、彼女は、自らの意思でもって、死の塊を漏らす事を、中止した。

 虚空が、獣の形に変化する。これは、ハラルトの意思に関係がない。ただ、彼女の意思は、固かった。

 人々が、騒めく。

 ハラルトと繋がった獣状の虚空の塊が、空中で唸り声をあげる。あらゆる怨嗟が込められた唸りは、衝撃と風圧に形を変え、周囲の大気と地面を振動させた。

 人々が、おののく。

 広がった衝撃と風圧の波が、ハラルトの背中から、彼女を飛び越して、前方に群がる人々へと触れた。瞬間的に、多くの人々がお尻をついたり、姿勢を低くしたりして、虚空の塊を凝視し始める。警戒をしたところで無駄だと、ハラルトは憫笑した。

 ハラルトは、人々の壁に歩む。追従した獣状の虚空が、ゆっくりと歩く彼女を素早く追い越して、人の群れに頭をもたげる。


 そして、大きく広がった後、人々へ噛み付いた。


 巨大な頭が人々を巻き込みつつ地面へと到達した瞬間に、着地した場所が大きくえぐり取られて、周囲に破片をまき散らす。同時に、衝撃の中心点から、視界を揺さぶる程に強烈な振動と、前のめりにならなければ立っている事も辛い程の、暴風が生み出されて、全ての音を、順次消滅させた。

 その一片が、ハラルトに届いて、髪の毛を揺さぶる。自分の肩に連続的に触れる感覚がくすぐったくて、首を竦めて身をよじらせたが、それも一瞬の事。ハラルトの心が、眼前の圧倒的な光景に感化されて、彼女へと、ほんの僅かの快感を伝えた。

 触れた全てが、無へと、還る。

 獣が、逃げ延びた人々の塊を、迅速でかっさらう。駆けまわる如く周囲を席巻したから、オンボロの家まで、吹き飛んで細かくなり、紫に触れた瞬間に、ぐずぐずに崩れて消えた。数秒もなかった。人々の群れが、大地の残滓が、まるで初めからなかったかのように消え去った。

 何かの痕跡というものすら、残らない。単なる更地と、獣を従えたハラルトだけが、ポツンと、そこに取り残された。

 心地の良い静寂が、人々の悲劇を洗い流す。でも、彼女の心の中にこびり付いた毒の痕跡までは、洗い流されない。寧ろ彼女は、先ほど感じた快感はいずこへやら、静寂を生み出す世界そのものへ、憎悪する始末である。

 無味無臭の景色と対照的な、荒ぶる心を携えて、それに従う形で、歩き出す。どこへ行くかなど、わからない。しかし、遠くに光った星のような白い光が視界に入ったから、とりあえずはそちらへ向かう。

 いや、向かう必要など、ないのかもしれない。その光は、ハラルトへと近づいて来た。


 白い点。

 白。

 彼女は確信した。

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