5.3.1 槍
頬に、何かが触れている。ゆっくりと、口へ向かって移動する正体不明の感覚からは、温度を感じられない。不快だった。だから、ハラルトは、目を瞑ったままに、くすぐったい右の頬に、右手で触れる。妙な感覚を追い払ってしまおうと考えたのだ。
ヌルっと、触れた指先が滑って、ハラルトの眉毛の辺りまで、指を移動させてしまう。でも、頬に神経を集中したら、どうやら、くすぐったい感覚を追い払えたらしい。もう、彼女が苛まれる事はなくなっていた。代わりに頬へ残ったのは、謎の温かさの後に来る、ひんやりとした感覚。
何かに触れた指先を丸めて、指同士を擦り付けたら、まだ指にくっついていた、滑るような気味の悪い感覚が、手の中で伸びた。
血だ。
確信したから、自分のどこに傷がついたのかを確かめる為に、億劫だったけれど、瞼をこじ開けた。倦怠感に支配されていたとはいえ、瞼は、すんなりと開いてくれた。
暗い。夜よりも、ずっと。
やはり、夜なのだろうかとも思ったが、よく見れば、そうではないらしい。ハラルトが見た先には、細い、いくつもの亀裂があった。上から下まで長く伸びる亀裂からは、目を潰すであろう、強力な光が漏れ込んで来ており、手を伸ばせば届く位置から、思い切り背伸びをしても届かない位置まで、様々だった。規則性とは違うが、亀裂に共通する事と言えば、全てがあまりにも細かいから、体は隙間を通れないだろう、という事だけ。要するに、外は明るくて、中は暗いのだから、夜ではなく、ハラルトが、亀裂を縫って外に出る事は、難しい。
傷を確認するにも、光が必要だから、仄暗い空間から眩しい外へと、脱出しなければならない。わかってはいたが、横になっていたら妙に心地よいから、体を支配する怠さもあって、すぐに動く気になれなかった。そんな訳で、目覚める前の出来事を思い返す。
姉妹の死。自らに宿った虚空。獣の消滅。
そして、白い女王。
天空の庭園の頂点に君臨していた白い女王。それを思い出した途端に、ハラルトの全身に力が戻ってくる。舞い戻ったのは、虚空。紫色の光をまき散らす腐敗は、暗澹として、しかし心地よい空間を一色に染めて、彼女の体から、噴き出し続ける。
外界への出力が、強力になる。
底抜けに、噴出し続ける。
もう十分だろうと思ったハラルトが、少ない隙間で四肢を動かして、虚空の塊に命令を出す。次の瞬間には、彼女を閉じ込めていた脆弱な檻が、纏めて吹き飛ばされ、そして、消される。大小様々な瓦礫の持つ、重さや応力、そして、放たれた腐敗に対する反力と言った、一切の抵抗力は、無意味。だから、すぐさま外光が、ハラルトを照らした。光だけは特別に、彼女に届いて、目を潰した。
全てを呑み込む腐敗を内へと収めて、ハラルトは、自身のふるった紫の暴力から、幸運にも逃れられた瓦礫の一片に、よじ登って、立つ。
穏やかで温かい風が、僅かに生えた草を揺らす。砂を巻き上げたそれは、下から、ハラルトの正面に飛来してきて、彼女の足首に纏わりつき、指の間を縫って、首をくすぐって、やがて、彼女の全身を包み込んだ。
紛れもない大地の感覚。この場所には、それがあった。
空の冷たい空気とは全く異なる穏やかなそれで胸を満たして、ハラルトは、目を瞑る。全身でそれを味わってから、素早く目を開いた彼女は、遠くに見える幾つもの巨大な瓦礫を見る。空の欠片だ。周囲に散らかる忌々しい破片の一つ一つを数えていたら、面白おかしくなってきた。だから彼女は両手を広げ、空に向けて、大きな笑いを投げつける。
――天空の庭園を、壊してやった!!
笑いが、止まらない。まるで自分が、天を打ち壊した無敵の反逆者かのように思えてならない。立っている場所だって、世界の中心だと錯覚してしまう始末だった。
ハラルトの腹部がだんだんと痛くなってきて、とうとう彼女は、自分のお腹を抱えて、瓦礫にしゃがみ込む。それでも笑いは、どこかから無尽蔵に湧き出てきて、彼女の呼吸を乱し続ける。苦しかった。でも、嬉しくて、愉快で、たまらなかった。
決して、ばかげた妄想などではない。ハラルトは、大地に戻ってきた。大地に生まれた彼女は、歪んだ空の庭を、打ち崩したのだ。
顔に引きつる笑いを残したまま、無秩序に散らかった純然たる事実の断片を望む彼女の心は、音もなく注がれた達成感に満ち溢れる。多くが失われ、そして、僅かを手に入れた今の彼女に残った目的は、たったの一つ。たったの、一つしか、存在しない。
白い女王。
もしかしたら、天空の庭園が崩落した際に、白い女王は死んでしまったかも知れない。ハラルトだけが生き残って、悪夢は、過ぎ去っていったのかもしれない。だが、根拠のない推測は、信用ならなかった。なぜなら、ハラルトは生きている。人の枠組みからかけ離れてしまった自分は、死ぬことなく、大地に返り咲いたのだ。それと対等にぶつかり合える純白が死んだなどとは、安易に思えないし、女王の死亡をちゃんと確認するのが、妥当である。
ならばと。
折りたたんだ足に力を込めて、再び体を直立させる。一歩踏みしだけば、足下に敷き詰められた細かい塵が、ジャリと、小気味良く鳴った。直後に、風が耳に舞い込んでる。それと同時に、遠方から、普段聞きなれない音も、飛来してきた。せっかく気持ちの良い一歩を踏み出したというのに、この騒音は、心に小さな苛立ちを生み出す。怒りに任せて反射的に、音源へと頭を向けると、なにやら、黒い点々がぶつかり合って、小さな光を生み出したり、消したりと、忙しなくしている。
今のハラルトにとって、それらは遊びでしかない。が、究極の反逆者たる彼女が、些末な遊びさえをも見逃すなど、自らの沽券を捨て去る行為に等しい。そんな思いから、ハラルトは先ず、未だに遊びに興じている、歪んだ庭の愚か者共を蹂躙するべく、歩き出した。
否。それは、初めの一歩のみ。
歩くという行為を行う必要がない事を思い出したハラルトは、自らの四肢に虚空の力を纏わせて、さも気軽に、跳躍する。それを受けた大地は、瞬間的な衝撃を受けて、しかし、衝撃すら呑み込む彼女の虚空にかき消されて、丸い痕跡を残す。既に宙を切り裂きながら進んでいた彼女は、それをチラリと一瞥すると、クスクスと笑った。何もかもを消し去る事が出来る、暴力の域を遥かに超越した、虚空。それを空の人間にふるえると思っただけで、愉快である。
あれこれ考える暇もなく、彼女は着地した。空から落下した際こそ、意識を失ってしまったが、上手に用いれば、長い距離を高速で移動したとしても、強烈な衝撃を殺し切る事が出来る。また一歩、自分の力を扱う事に慣れた彼女は、歓喜した。なんでも消し去ってしまう力で、何でもできてしまうのだから。
すぐそこで、茶色い服を纏った人々が、カラフルの衣服を纏った人々と、争っている。全部殺してしまおうかと思ったが、それは正しい選択ではない。茶色の人々は、大地の残滓の人々の、一般的な外套を纏っているのだから。
気付いた彼女は、正確に、カラフルな集団へと、右腕を掲げる。こちらは殺しても問題ないのだ。
頬をくすぐる感覚が蘇った。だが、後で確認すれば良い。彼女は、止まらない。
表情が、歪む。
そして、紫色の螺旋が、腕から吐き出される。
螺旋は、左右に大きくうねりつつ、茶色とカラフルの拮抗のど真ん中に、凶悪な身をもたげる。そして、獲物を吟味するかの如く宙を舞った後に、カラフルな人々の先頭から、最後尾まで、一気に呑み込んだ。放ったハラルトでさえも、圧巻を目の当りにし、興奮してしまう結末。
大口を開けた獣が荒ぶるかのように、紫色は暴れまわって、飲み込んだ人々を内側から蝕んだ。腐敗に浸された人々は、内部からボロボロと、塵となって砕け落ちる。
呆気ない。空の愚か者共の、終焉。
ハラルトは、人々の暴力を遥かに上回る破壊を、さも軽々しく振舞った後に、紫色のうねりを引きもどす。それは、地面に身を引き摺ったり、空中で踊り狂ったりしながら、迅速で、彼女の腕へと滑り込んでゆく。やがて腐敗の色は収まって、彼女の肌は褐色の光沢を取り戻した。
周囲が、そよぐ風と踊る草の音を除いて、静寂に包まれた事を確認したハラルトは、両手の平を、パン! とはたいて、くすぐったい頬を指先で拭った。生ぬるい指先を見れば、血液が付着して、てらてらと、妖艶に輝いている。どうやら、怪我をしていたらしい。
尤も、どこにも痛みがないから、問題はない。それよりも、こんなに強い彼女に怪我をさせた存在を、早急に見つけ出し、殺害しなければならない。
黙り込んでしまった茶色の人々に、背を向ける。今度は力を使わないで、柔らかい草を避け、砂の部分だけを踏んで、歩く事にする。砂は、柔らかくて、温かい。履物を脱いで、素足で味わいたい所である。
ぴょんぴょんと、跳ねるようにして前に進む、ハラルト。その、軽快な動きに水を差すように、彼女の背後から、大きな男性の声が、追いかけてきた。
「おい」
低く鋭い、男性の声。それを受けて、跳ねながら移動する事を止めた。
やや、凄みを蓄えていたように感じたが、一体、どういうつもりなのだろうか。兎角彼女は振り向いて、声の主を探す。しかし、いちいち目を動かさなくても、彼女からやや離れた位置に、それはいた。
全身黒い衣に覆われた、男性。髪はさっぱりと短く、しかし、こってりとした汚れを所々に付着させて、彼は仁王立ちしていた。汚れていると言っても、大地の人々と同じ程度に、煤だか埃だかで、汚らしく見えるというだけである。
大地の人と、同じ程度に。
「お前は、空の人間か?」
口ぶりに、少女らしくない狂気を乗せて言ったハラルトは、瞳に獰猛を宿して、男の姿を焼き付けた。上から下まで真っ黒い男は、大地の人々と共にいる癖に、空の人間に見受けられたからである。仮に彼が空の人間だったら、彼女は、単一的な結果を、男に与えるだけだ。
男が、仁王立ちを崩さずに、口を動かす。
「そうだが、地上の者を率いて、女王と敵対している。女王の肩を持つ者は、見境なく人を殺す」
言って、厳めしい顔を、歪めた。どうやら困っているらしい。
女王と敵対しているらしい男を、穴が開くくらいに見つめたハラルトは、彼がどうやら敵でない事を知って、心を冷ました。敵でもなければ、取るにも足らない。
「女王は、ハラルトが殺す」
そう告げると、男性が困った顔のまま、
「ハラルトとは、君の名か?」
などと、どうでもよい質問をしてくるから、ハラルトはさっさと立ち去るつもりで、
「そう」
と、肯定しつつ、彼に背を向けた。
「待て、出来るならば好きにすれば良い。だが、俺の同胞達は、殺さないでくれよ。女王の肩を持つ者達のようにな」
精悍な声が、言った。
敵と、味方。男性は敵でないらしいが、分別が、ハラルトの中で、曖昧になってゆく。
ピタリと、砂を踏み荒らす事を止めて、彼女は再び、男へと向き直る。
ハラルトの目の前に立つ、男性。そして、その背後からハラルトを見つめる、多くのまなざし。数は、一〇や二〇では、きかない。彼らは、敵でないなら、味方なのだろうか。
「君自身も、無駄に命を散らすな」
男性が、ハラルトを視線で嘗め回しつつ、続ける。
「空の庭は、もうない。我々は、大地の残滓を率いて、避難する。良かったら、俺と来てくれないか」
言い終わった男の似合わぬ困り顔は、元の厳めしいそれへと戻った。
「フッ……」
思いがげない。だから、息が漏れた。
「フフ……ハハハ」
そして、肥大した。
『アッハハハハ――――――――!』
喜怒哀楽のどれにも属さぬ笑いが、止まらない。強烈に噴出したそれは、静まり返る周囲を完全に置き去りにして、四方に広がった。
余りに笑い過ぎて、ハラルトは、空を見上げたままそり返って、涙を流す。腹はヒクヒクと痙攣して、首の血管は脈打つ事で彼女を刺激し、足はガクガクと激しく震える。体が崩れ落ちないように必死にこらえて、彼女は腹を抱きかかえ、男へ瞳を向ける。
「どこに……?」
無数の視線が、刺さる。伴って、意味不明な笑いが、怒りに変わった。
「どこに、行くの? お前達を殺す、腐敗を連れて!! お前達も見ただろう、ハラルトには、腐敗が宿ってるんだ――!」
絶叫した。
大地に戻ってきた黒い少女は、しかし、二度と大地には帰れない。多くを失ったハラルトは、その事実に、ひょんなところで気付かされてしまった。人々が彼女の敵でなくとも、人々からすれば、ハラルトは敵なのだ。
そんな、絶望から生み出された絶叫を、周囲の人々は、終始静かに、見ているだけだ。ため息すら、出てこなかった。忌避の視線を向けられるのは、当然だ。人を殺す腐敗を連れ回したい人間など、いるはずもないのだから。
「そんな事は、ない」
だと言うのに。
「君は、腐敗を宿している。そして人間だ」
男は、きっぱりと言い切った。
男の眼に宿る毅然が、ハラルトを突き刺す。しかし、彼女は素直に受け止められない。何しろ男は、ハラルトと同じように、人を殺していたのだ。自分と同じく、人を殺めた男など、ハラルトには信用出来なかった。
もしハラルトがカラフルな人々を殺さなければ、男は争いを続け、もっともっと、殺していただろう。だから、男を睨みつけて、吐き捨てる。忌むべき行為を行った、自分に向けるように。
「人を殺したお前が、何を言ってる!」
体を前のめりにして拳を握ると、そこは灼熱を帯びた。だが男は、構わず、「その通りだ」と言った。
堂々と開き直る態度が癪に障るが、男は落ち着いた様子だ。負けた気分になったから、赤く染まった心を誤魔化すように、ハラルトも男を真似て、毅然を装った。
男が、黒い衣服を風にはためかせる。見た目よりも柔らかい素材で出来ているらしい。
「俺は、人々の楽園の為に、同じ人間を排斥する者達を、殺した」
同じ人間を排斥する者達。ハラルトには、覚えがあった。言うまでもない、穢れた、空の人々である。空の人であるのに、同胞を悪く言う男を見て、ハラルトは鼻で笑った。しかし、男は揺るぎない。
「望んで殺している訳ではない。人が、人である権利を守るために、戦わねばならなかった。結果として、人を殺したのだ」
笑う余裕に限界が来て、「言い訳をするな!」と、男を責める。それでも男は、臆する様子など見せない。
「落ち着け、ハラルト。我々は人々を救いたい。だが、楽園は失われてしまった。次に成すべきも、初めから何も変わっていないのだ。弱きを救う。必要があれば、殺す。それだけだ」
男を、睨む。
せり上がってきた感情に任せて、地面を乱暴に蹴っ飛ばす。砂が、男の足にかかった。
「じゃあ、お前はハラルトを殺す必要があるじゃないか! 腐敗だぞ、腐敗は、みんなを殺すんだ!!」
吐き捨てた。
ハラルトの鼻息は、いつの間にか、荒くなっていた。歯をむき出しにして、額を真ん中に寄せ集めて、彼女は男へ、一歩踏み出す。
男は、仁王立ちのままだ。ハラルトは、男に負けてしまったのだろうか。
「何を言っている。俺は弱きを救う。自身の姿をよく見ろ。君は人間だし、だいぶ弱っているではないか」
男が、嘯いてくる。
許しがたい思いが、込み上げて噴き出した。
「ハラルトは弱ってなんか――」「嘘を言うな!」
男が、初めて冷静を崩し、怒鳴った。それでも男は、ハラルトのように息を荒げたりしない。情動もない。顔つきだって、穏やかそのものだ。ただ、低い声だけが荒ぶり、ハラルトに刺さった。
「少女がなぜ、人を殺す。少女がなぜ、哀愁を纏う。少女がなぜ、自らを忌む。少女が、なぜ! 進んで孤独を選ぶというのだ!」
ハラルトの持つ乱暴さとはかけ離れた、静かな怒気。気おされた彼女は、言葉など紡げる状況ではなくなってしまう。ひたすらに怒りと暴力を振り回していた自分では、どうやら、男の芯を折る事は出来ないらしいと、観念したからだ。
似たような信念を、何度も見てきた気がする。でも、思い出せなかった。
不意に男が、肩の力を抜いた。
「俺の知っている少女とは、そうではない。ハラルト、君が弱っている事は明らかだ」
踏み出した足を、ハラルトが引っ込める。続けて、無数の瞳を見る。
その全てを。
ハラルトに集まる人々のまなざしには、忌避など、一片も宿っていなかった。それらは、失われた姉達の瞳と、全く同じだ。そして、男もまた、真っ黒い瞳に、善性を宿している。
自らを忌み嫌い、人を見下し、殺めた。気付けばハラルトは、人々に宿る心を見抜く力も、失っていたらしい。何が、無敵の反逆者か。何が、究極の反逆者か。
男が、何の躊躇も恐れも見せず、ハラルトの肩へと、ゴツゴツした手を置いた。それは、彼女が知る誰よりも重い。彼女は、自らの心と向き合っていたから、何かを言う余裕など、心のどこにも残っていなかった。
多くの人々を先導する形で歩く男から、少しだけ距離を取って、ハラルトはひたすらに歩いた。気が付けば、陽光は弱まって、夕方となっている。これから夜が来るが、大地は準備万端らしく、風を強めて、冷えた大気をどこかから運んできた。
男は、どこへ向かおうというのだろうか。今更、彼らに行く場所など、ない筈だ。ハラルトに至っては、殊更である。だから、遠方で未だに残る争いの光や、腐敗の象徴たる紫色の光の方が、よほど自分に合っているのではないかと考えずには、いられない。
しかし彼女は、どこか見覚えのある砂地を歩んでいる事実に気が付いてからというもの、それに思考を割く余裕も、生まれていた。
見覚えがあるのは、砂ばかりではない。
日が身をひそめるにつれて、前へ前へと進めば、多くの緑色が見えてくる。この、砂と緑の曖昧な境も、彼女には見覚えがあった。
遠くを、望む。そして、うっすらと見える点を、凝視する。彼女の記憶が正しければ、点は、ひと際大きい大地の残滓である筈だ。
やがて、ハラルトの記憶を裏付けるかのように、巨大な大地の残滓と、いつもより賑わう人の流れが、確認できた。紛れもなく、ハラルトの所属していた大地の残滓である。
今は、故郷へと帰りたい。
素直に、ハラルトは思った。体こそ、人からかけ離れてしまったが、心は未だ、大地の残滓に縛られている。捨てきれない未練が、前を歩く黒い男と同じように、”ハラルトは人間だ”と、教えてくれているように感じた。
男が、歩みを停滞させる。
「彼らも避難させよう」
言葉とは裏腹に、警戒している様子である。慌ただしい故郷の様子は、男にもよくわかっているらしい。だとしても、警戒する必要など、全くない。何しろハラルトは、人間の――あらゆる生き物の天敵たる虚空を、自由に扱えるのだから。
「早く、行こうよ」
言って、男の背中をつつき、前に躍り出る。すると男は後ろから、ハラルトの頭をポンと、軽く叩いた。
自分と、男と、それに続く大勢の、足音。ザクザクと、削るような音を出しながら大地の残滓に近づいたら、無秩序にあちらこちらへと忙しい人々の端っこから、順繰りに、頭をこちらへと向けてきた。そうしつつも彼らは、止まるつもりがないらしく、集落の奥に入ったり、出てきたりと、相変わらずだ。
明らかに、いつもと違う。
ハラルトは、自分の故郷に何が起こっているのかを確かめる為に、集落の奥へと、進んだ。
間もなく、原因はわかった。
横たわる人々が、行儀よく並べられている。みな、一様に血を体のどこかへと付着させていたが、反応は、呻き声だったり、暴れてみたり、黙って呼吸する事に徹してみたりと、様々だった。
ハラルトがそれを確認していると、黒い男が脇から前に出てくる。いつの間にかついてきていた黒い男は、手近にいた、しゃがんでいる若い男性に声をかける。
「ひどい有様だ。何があった」
広い集落だが、どこかで見た覚えのある若い男性が、黒い男に応じる。
「空で争いがあったらしい。空の庭が落ちた。見たろ? 下に逃げてきた奴らやら、争いに巻き込まれた奴らやらで、手一杯だ」
「そうか」黒い男が、ため息をついた。
「アンタ、ここも危ないぞ。生き残った連中は、好き勝手に争ってる。俺たちはこれから、逃げる所なんだ」
若い男性が、興奮気味に言う。横たわった怪我人は、簡易的な治療が施されていたが、逃げられない者も出るだろう。ハラルトは、目を細めた。
黒い男が、周囲を見回す。
「俺は、大地の残滓の人々と共に避難している所だ。空の人間だが、地上とのつながりもある。遠くに離れるなら、私についてこい」
「ああ……」
若い男は、力なく応答して、立ち上がる。恐らくは、どこへ逃げても無駄だと、彼もわかっているのだろう。
ふと、ハラルトは、若い男性と目が合った。その瞬間にピタリと止まった彼は、ハラルトの顔をじっと覗き込んで、割合濃い顔を近づける。
「お前、ハラルトか!?」
至近距離で大声を出すから、ハラルトの鼓膜がビリビリと震えた。
特に意味はないが、ハラルトは、黒い男に、この場所が自分の故郷であると開示するつもりがなかったから、黒い男は感が鋭いと、感心してしまった。恐らくは、思うところがあるのだろう、黒い男は、若い男と同じく、ハラルトの顔を凝視している。が、そうだった所で、特に教える事など、ハラルトにはない。
「マオテは」
姉達と共に、一等最初に記憶から湧いてきた医者の青年の名を、ハラルトは口にした。
しかし若い男は、
「わからん」
と、即答し、話題を変えた。
「旅から戻ってきたのか! 姉ちゃん達はどうした?」
ハラルトは、若い男からそっぽを向く。
「空の女王に殺された」
静かに言った。
若い男の表情が、凍り付く。
「おい、本当なのか」
「本当。だからあいつを殺そうとした。それで、空が落ちた」
包み隠す必要などないと、ハラルトは思った。真実を隠匿した所で、何も損しないし、特もしない。
姉達は、帰ってこないのだ。
唐突に、ハラルトの肩が、黒い男の強い力で、掴まれる。彼は、背けていたハラルトの視線を、強制的に正面へと移行させる。
「空を落としたとは、どういう事だ……?」
黒い男が、慎重な声音を漏らした。その顔には、僅かながら、驚愕の色が浮かんでいる。真実を知りたいのだろう。
ならばと、ハラルトは、空での出来事を簡単に語る。
「みんなを殺した女王と戦った。塔で。そしたら、空が割れた」
純白の塔で相対した真っ白い女王の姿が、ハラルトの脳裏に張り付く。
姉妹を殺した、狂人。
全身が熱くなる。血が滾り、視界は赤に染まり、無尽の殺意がハラルトの体を支配しようと、しゃしゃり出てきた。数舜後には、周囲が紫色に染まる。ハラルトは、黒い男の厳めしい顔に紫色が反射したのを見て、自分の体の隅々から、腐敗が湧き出てきた事を知った。
ザッと、擦れる音がする。見れば、若い男が、ハラルトから後ずさっていた。
「お、おい、ハラルト、お前」
肩に乗っかった黒い男の手を振り払って、ハラルトは、徐々に後退してゆく若い男の前に立った。
「これ? ハラルトには、腐敗が宿ってる」
光る腕を、足を、ハラルトは、怯えている若い男へと見せびらかした。やはり自分は戻れないのだと、思った。
男が、後ずさりながら、両手をハラルトへとかざす。
「もしかして、災厄の元凶ってのは――」
男の語尾がかすれて消えたから、ハラルトには良く聞こえなかったが、怯えている人間に喋らせる必要も、改めて聞く必要もないと思って、いい加減で、彼にとっては忌々しいのであろう光をひっこめた。すると周囲が、妙に静まる。
理由なんて、ハラルトにはわかっていた。
「落ち着け! 災厄の元凶とは、なんだ」
黒い男が、ハラルトと若い男の間に入りつつ、彼を見て言った。若い男は、些か安心したのだろうか、声音を若干落ち着かせる。
「逃げてきた空の奴らが、言ってたんだ。腐敗をまき散らした災厄の元凶が、空を壊したって」
静まった周囲が、徐々に騒がしさを増してきた。元に戻ったのではない。不穏に対するひそひそ声で、騒めいているのだろう。ハラルトには、それが敏感に感じられる。
黒い男が、大木のような腕を広げる。
「待て。それはこの少女じゃない」
どうやら黒い男も、周囲の感情に、鋭敏らしい。なぜそうしたのか、ハラルトにはわからなかったが、彼は庇ってくれたようだ。だが、黒い男の謎の気持ちは、無駄に終わる。人々の中で生み出される騒めきが肥大して、ハラルトの四方から、のしかかってくる。重みを増したそれは、やがて、ハラルトと黒い男を包囲し始めた。
冷静だった黒い男は、
「落ち着くんだ!」
と、うろたえた様子で、大きな身を左右に動かし、叫んだ。
しかし、止まらない。騒めきは加速の一途を辿る。気が付けば、ハラルトを中心として、円形の人の壁が出来上がっていた。
黒い男に追い打ちをかけるかの如く、集団の中から、誰かの声が飛ぶ。
『お前も災厄の元凶に加担するのか!』
それに、誰かが応じる。
『災厄の元凶は、女王でしょう! その子は、襲われた私達を助けてくれたのよ!』
『そのガキも、災厄の元凶だろうが!!』
怒声の応報が、集団の中から飛び交って、周囲を支配する。
ハラルトを擁護した女の声は、黒い男が連れてきた空の人のそれだろうか。少なくともハラルトには、わからない。人々の壁に囲まれた小さな彼女では、埋もれた各人を見通す事は、難しい。ただ、黒い男がハラルトから離れて、懸命に人々を制止している事だけは、見える。
空を落とした、災厄の元凶を非難する者。
女王に加担した者達の凶刃から、災厄の元凶に命を救われた者。
ただ、見ているしかない者。
とにかく、周囲から伝わってくるのは、敵意と、恐れ。それらが蔓延って、壁となってハラルトに迫った。相反して、取り囲んでくる人々は、ハラルトとの距離を徐に引き離してゆく。要するに彼らは、自分達と違う少女を排斥したいのだろう。
些末な苦痛が、ハラルトの心に生まれた。次の瞬間には、ハラルトの立つ円の中に、石が投げ込まれた。やがて、波紋が広がるように、あちらこちらから、円に石が飛び込んでくる。幾つかは、ハラルトの体に当たって、彼女に傷をつけようとしてきた。
その内の一つが、目的を達成して、ハラルトの頭から、血を噴出させる。
――痛い。
側頭部に熱が生まれる。ハラルトは、静かに熱源へと触れた。指先が、地上で目覚めた際と同じ感覚を彼女に伝えたから、彼女は、わざわざそれを見る事をしなかった。やがて、血液が垂れた。時間をかけて頬をなぞったそれは、途中で分岐して、一方は顎に溜まり、一方は首筋をなぞって、衣服に吸い取られる。
脳に反響する罵声の応報を受けつつ、空を見上げる。次に、地面に、目を落とす。最後に、憎しみ合う人々を、見回す。全てが無意味で、無価値で、空虚に感じられた。
ハラルトの時間が止まる。そして、周囲は突然色あせて、灰色一色に染まった。精神と肉体に傷をつけられたハラルトは、帰る場所を失った実感を、噛み締める。どうしようもなく救えない事実に絞られた彼女は、好き放題石ころを投げつけられるままに、ひたすら立ち尽くした。
そんな、無秩序な灰色の世界の中で。
「ハラルト――!」
彼女の名を、叫んだ者がいた。その声は、彼女の時計を、いとも容易く動かす。
ハラルトには、聞き覚えのある声。無色の雑音の中に光ったその声が、彼女には、はっきりと聞き取れた。反射的に、彼女の頭が動く。灰色の中に埋もれた声の主を、探そうと思って。
そして、見つけた。
「マオテ……マオテ!」
医者の青年だった。
てっきり、全てが失われてしまったものだと、思っていた。だが、ハラルトの視覚は、確かに色を取り戻した。
マオテが、駆け寄ってくる。
「聞いてたよ。もう、いいんだ」
息を切らせて、言った。
マオテは、ハラルトを抱き寄せる。ハラルトの後頭部に手を置いて、自分の胸へと、押し付けた。忘れかけていた感覚がハラルトの中に蘇って、彼の抱擁と同じように、心を強く締め付けて、温めた。
懐かしい感覚。それに抱かれたままに、ハラルトは呟く。
「女王を、殺さなきゃ」
しかし彼は、
「いいんだ、ハラルト。もうやめよう」
それだけ言うと、ハラルトを抱いた状態で、人の壁へと進んで行った。
罵声が止まない。投石も、そこそこに続いている。それでも、ハラルトは満足だった。
二人が人の壁に近づいたら、壁はそそくさと左右に割れて、一本の道を作る。奥へと進むつもりはなかったが、人の壁に囲まれたままでいるのも嫌だし、一本道を進めば、やがて罵声から離れられる。そう考えたハラルトは、大人しくマオテに身を委ね、導かれた。
やがて、まばらな投石を背後から受ける程度まで人々の群れから離れた所で、マオテが再び両肩に手を置いて、ハラルトを抱きしめてくれる。彼は、何も言わなかった。
マオテに顔を押し付けたままに、大きく息を吸う。すると、仄かに彼の香りが鼻に入り込んで、彼女の傷を埋めた。彼の背中へと手を回し、ゴワゴワの衣服を強く掴んだら、ハラルトから微笑みがこぼれる。真心から笑う事が出来のは、いつ以来だろうかと、彼女は懐古する。
愛する姉妹を失い、自分の人間性を失い、帰りたいと願った故郷をも、失った。けれども、ハラルトには、確かに残ったものがある。それを全身で味わって、彼女は静かに目を瞑る。これからどこに行けば良いのかなど、見当もつかない。加えて、生きて行けるかどうかも怪しい。しかし、切迫した問題は、今のハラルトにはどうでもよく感じられた。
一つでも、残った。
ただ、それだけが、ハラルトを支えた。
風がすり抜ける。多くの人の熱気をかっさらったそれは、二人を包み込んで、渦を巻く。人々の汗の香りが染み込んでいるのだろうか、蒸した空気が、ハラルトへ臭気を感じさせる。
鉄臭い。そして、腹部が、猛烈に熱い。
指先が、震える。ハラルトの頭を抱えている彼の手も、僅かに振動している。
『やってやったぞ!』
声の主が、良く見えない。だから、たっぷりの時間をかけて、慎重に、マオテの手を解いて、音源へと目を向けた。そこには太った男がいて、腕を上に掲げて、人の壁へと溶け込もうとしていた。一体何が起こったのか理解できないハラルトは、自分のお腹へ、静かに視線を移し替えた。
一本の、槍。狩りに使用する槍が、刺さっている。
小刻みに震えてしまって落ち着かない手で、それに触れようとした瞬間、ハラルトの全身は、至る所から酷熱を生み出して、彼女を蝕む。
「っぁあ――――!」
誰かが、叫んだ。
自分が無数の槍で貫かれたのだと理解したのは、叫び声がマオテのものであると、把握した時だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます