0.1 空の終わり
太陽が地平線から、ほんの少しだけ、姿を見せる。周囲には、一本の木を除いて、一切遮蔽物がないから、新しい朝を告げる光が老いた男性に届くには、全く問題がない。大地が生み出したごく当たり前の光景を見ていた男性へと、遥か遠く――空高くから、体の芯まで響く音が流れてくる。確かにそれを受け取った男性は、直近に座る老婆から視線を外し、音源へと、まなざしを移動する。すると、にわかには信じられない現象が、起こっていた。
遠くに浮かぶ、天空の庭園。それが、大地の残滓に見られる住宅の壁の如く、ボロボロと、崩れ落ちてゆく。一驚を喫したものの、老婆の言う通りの結末だったからと、あまり良くない腰を、男性が抜かす事は、なかった。老婆の横へ静かに腰かけて、崩れゆく空の庭を共に眺めつつ、男性は、彼女に問う。
「バホゥツ。なぜ、姿を消したのかね?」
バホゥツと呼ばれた老婆は、男性の問いにしばらく閉口した後、こう答えた。
「イリオスを救えないと、わかっていたからです」
歳に似合わぬはっきりとした声を漏らしたバホゥツは、手近にあった木の棒を掴んで、愛おしそうに撫でてから、それに頬をすり寄せた。
男性は、半分以上崩れ落ちてしまった天空の庭園から、目を離さないで、口だけを動かす。
「人類を、見捨てたのかね?」
「いいえ」
バホゥツは、男性の質問を、即座に否定した。木の棒を、手中で優しく弄んだ彼女は、男性と同じく、崩れゆく天空の庭園を見て、目を細める。
「イリオスを救う事は、誰にもできない。イリオスは、王を失うと共に、失われるべきでした」
「馬鹿な事を」
男性は、長い夜を経て、冷やされた空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。もう、天空の庭園は、残り三分の一程度にまで、小さくなっていた。
「イリオスは、世界を変えてしまった。環境が変われば、死に絶える生物、適応して進化する生物がいます。人類は新しい世界に向き合い、進化するべきだったのです」
「……」
男性は、バホゥツの言う事に意見するつもりなど、毛頭なかった。なぜなら、彼は自分の立場が、ちゃんと見えているからである。バホゥツは、かつて天空の庭園に――いや、イリオスという文明そのものに、間違いなく、新しい風を吹き込んだ人物だ。だから彼は、極めて優れた彼女に意見をする必要などないし、出来ないと、判断したのだ。
「イリオスが、人類の進化の枷となる事は明白でした。ですから、イリオスは滅びるべきだった」
優れた女性の言葉を受けて、老人は、現在の天空の庭園を統べる、女王ウトゥピアの姿を思い出す。そして、再び、バホゥツに問う。
「ウトゥピアはどうなる? 君の言いつけを守り、イリオスを守ろうとしているウトゥピアの人生は」
女王に対して憐憫を抱いた男性は、苦難を強いたバホゥツに対して、強く言い放った。
「あの子が尽力しても、イリオスは必ず滅びます。その時に初めて、あの子は自らの存在意義や、世界の全てを知るのです」
男性は、理解できないと、ありったけの嘆息をついた。バホゥツの話を聞いていると、いつも男性はこうである。彼女の話は、男性にとって、複雑すぎるのだ。
「ウトゥピアの、存在意義かね?」
男性は、歳相応の貫禄と美麗さを湛えた、バホゥツの黒い瞳の奥底を、覗き込んで言った。
「イリオスが滅びた時、生き残った人類の全てを統べる資質を持つのが、あの子なのです」
バホゥツが、輝く瞳に太陽の明かりを取り込んだから、男性にはそれが、まるで宝石かのように映った。
「環境に適応できず、多くの人が死ぬでしょう。ですが、それでも人類は生き残ります」
バホゥツは、真剣な面持ちのままに、続ける。
「生き残った、大地を見捨てた人々と天空を憎しむ人々を結び付け、人類を存続させる。あの子の役割とは、命ある限りそれを遂行し、たとえ命がなくなっても、人類を存続させられる仕組みを作る事なのです」
太陽の熱で徐々に暖められてゆく大気が、どこかから、風を運搬してきた。それに乗って、天空の庭園が朽ちる音が、男性の耳に入る。つられた男性が空の庭を見ると、もうそこには、楽園など、なかった。天空の庭園を構成していた破片が、地上へと、虚しく降り注いでいるのだけが、確認できる。
「君は、一体何者なのかね?」
男性は、静かに言った。
彼に宿っている、力。それは、人の心を読み解ける能力だ。そんな便利な力を用いても、バホゥツの心を読み解く事が、彼にはできなかった。だから彼は、バホゥツに、その正体を直接問うたのだ。
バホゥツが、やっと、天空の庭園から、視線を、男性へと向ける。宝石のような瞳の中には、今の世界と対照的な、安寧の色が湛えられていた。
「私は、世界の内と外を、繋ぐ事が出来る者です。この身には、腐敗の力と、太古の力が宿っています」
バホゥツが、微笑んだ。
「脈々と続いてきた太古の力は、歪み。人類が腐敗と呼ぶ、新しい力は、虚空。それらは、世界の内と外にあった力です。世界とは、虚空に生じた歪みそのものなのです」
「……」
男性は、バホゥツの信じられない話を、黙って聞いていた。
人であって、人の枠組みを超えた、バホゥツ。彼女は、男性に微笑みかけたまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「歪みと虚空の均衡は、人々によって崩されました。世界は、虚空へ還ろうとしています。ですが、世界は生きている。生きている者は、寿命以外の死に、抗います」
完全に、周囲の大気は温まった。それに身を震わせて、男性はひたすらに、目の前の女性へ見入る。その視線を受けているバホゥツは、再び、握った木の棒を、さも愛するわが子のように、丁重に取り扱う。
「虚空に飲まれぬように抗う、世界の抵抗力として生まれたのが、私なのです」
言って、バホゥツは、立ち上がった。男性の正面に来た彼女は、木の棒を両手に持って、それを眺める。
「全ての生物は、世界の一部です。私とて、それは同じ事。ですが、どうやら私は、不要になったようです」
バホゥツによって慈愛を受けていた木の棒が、男性の目の前に落下した。転がる木の棒が、皺の多い彼女の両手を、すり抜けてしまったのだ。伴って、バホゥツの体から、紫色の光と白い光が、粒になって湧き出す。
「世界は新しい力を生んで、均衡を取り戻そうとしています。私の役割は、終わりました」
「待ってくれ」
男性は、バホゥツの体に起こっている異常にようやく気が付いて、慌てて立ち上がる。そして、震える手を、砂の粒子のように崩れてゆく、バホゥツに伸ばす。だが、触れた途端に、その場所から、彼女の体は、宙へと舞ってしまう。
「私は、全ての人々の導となるウトゥピアと、新しい世界に適応できる姉妹を、世界に残しました。もし、私の子供達が生きていたら、それをあなたに託します」
「待ってくれ! バホゥツ!」
触れる事さえも、許されない。そんな状況だが、男性に宿った力では、バホゥツの崩壊を食い止める事など、当然できない。だから彼は、膝まづいて、自分の無力に打ちひしがれつつ、微笑みながら崩れゆくバホゥツの姿を、ただ見つめている事しか出来なかった。やがて、彼女の体が完全に空気へと混ざりこむと、纏っていた茶色の衣だけが、地面に落ちる。
楽園も、希望も、失われた。
膝まづいた彼は、徐に立ち上がって、彼女の纏っていた茶色い衣を拾い、綺麗に畳んで、わきに抱える。温かい向かい風を受けつつ、大きな哀惜に包まれた男性は、いずこへと歩き出した。
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