5.2.2 歪曲と虚空
太古の力――歪みの塊を、天罰の如く空から降らして、イリオスに害を成す、大勢の愚民の命を刈り取ったウトゥピアは、再び街中で生まれた光に向かって、歪みの槍を、一直線に解き放った。遠方まで邪魔される事なく、迅速に到達した天の一撃は、争いの元凶達を、空間ごと歪めて、消し去る。人類が立つ最も高いであろう場所からでも、街の一画が丸ごと消える様子が、良く見えた。天罰の跡に残るのは、争いの光でも、音でもない。発展の象徴たる、人工的な光など、微塵も残らない。雑然とした瓦礫の山だけである。
延々と続く争いに鉄槌を下すウトゥピアは、自らの存在意義を証明し続けている現状に、満足も、不満も、何もかも、感じていなかった。空虚な心は、充足を欲していたが、しかし、感じられないのだから、仕方がない。
充足。
一体、どう満たされたかったというのだろうか。
そう思って、神の如き彼女の一撃は、一瞬だけ留まった。持ち上げた腕から、力を抜いたら、歪みの槍が宙へと霧散してゆく。後戻りできない現状を、どうひっくり返すか、じっくり考察する必要があると思った所で、ウトゥピアの背後から、カタンと、誰かが立ったであろう虚しい音が、ひとり歩きして、周囲に散った。
当然、振り向く。この場所に立てる者など、無能の側近だけだから、彼とは違う足音は、自らを敵であると、主張しているようなものだ。
血まみれの、黒い少女。それが、立っていた。
大地で初めて会った時とは、随分印象が違う。べとつく血液を衣服に染み込ませている少女は、純真だった表情など、どこにも残していない。狂気に満ちて、醜く歪んだそれは、今まで出会った誰よりも黒く、汚く、人情味がない。ひたすらに澄み渡っていた瞳だって、ドロドロに溶けて、どこへまなざしを向けているのか、判断し難い。そして何より、少女は、世界を食い荒らす虚空の象徴たる、紫色の光を、全身に蓄えている。
少女が一歩、フラリと、前に出る。直後に、彼女の背後に、巨大な紫色の塊が、舞うようにして、出現した。どこから現れたのかなど、ウトゥピアには説明できない。とにかく、光が寄り集まったように見えた瞬間、大地で相対し、彼女に傷を残していった巨大な獣が、現れたのだ。
ウトゥピアは、真正面から、”それら”に向き合って、ひんやりとした空気を吸い込む。
「なぜ、ここへ?」
巨大な白い獣が、壮絶な唸りで空気を振動させる。
『世界を壊すお前を、殺しに来た』
間抜けな獣である。侮蔑の視線を向けたウトゥピアは、ため息をつく。
「世界を壊しているのは、虚空を身に宿した、お前達でしょう」
『宿しているのは、私ではない。ハラルトだ。私は、世界の外側にある虚空の意思、そのものなのだから』
獣が、黒い少女を指し示すかの如く、大きな顔を少女の横へと近づけて、鼻息を漏らした。風圧に衣服を揺らしたハラルトは、一歩踏み出したままに、閉口して、全く動く気配がない。
「なるほど、良くわかりました。ですが、お前はハラルトをアンロックしたのですから、世界を危険に晒した罪を、償って貰いましょう」
『アンロックとは、なんだ』
「世界の法則から、外したのでしょう」
『妙な事を言う。アンロックとやらは、お前がした事だろう』
獣が、ハラルトに寄せた頭を高く持ち上げて、ウトゥピアを見下ろす。
『鼻の優れぬお前では、わからなかったろう。ハラルトの姉妹達は、存在するだけで、ハラルトに眠る強力な虚空を、抑え込んでいた』
「……」
人類の脅威たる、紫色を蓄えた獣が、長くて白い、重厚な牙を光らせた。
『お前は、ハラルトの姉妹を殺した。ハラルトをアンロックしたのは、お前だ、女王ウトゥピア』
憐憫にも聞こえる口調で、獣は言い放った。しかし、その説明は、到底納得できるものではない。
「虚空は、人を殺します。ですが、ハラルトは死んでいない。その時点で、世界の法則から外れている筈です」
獣の鋭い睥睨を、臆す事なく受け止めて、ウトゥピアは言った。獣は、それを聞いて、しばらく口を閉ざした後、凶悪な目を細くする。
『優秀な女王とは、笑わせる。世界は、常に流動する。故に、虚空を宿した生き物だって、やがては生まれる。それが、この姉妹だっただけの事だ』
笑うとは、よく言ったものである。紫色の獣は、全く笑っていない。声も、憐憫を纏ったそれから、元の猛々しいそれへと、変化している。
『だが、お前達の躍進は、目まぐるしい。恐るべき速度で、虚空を生み出す。だから、世界の変化が間に合わずに、世界は壊れる』
獣が、前へと踏み出した。
『故に私は、世界を壊すイリオスを、お前を、壊す。お前達が無くなれば、変わってしまった世界の、自己修正が間に合う』
発光が、強まった。踏み出した獣の産んだ風が、ウトゥピアの白い衣を揺らす。距離が縮まったが、彼女は一歩も後ろに退かない。退く必要が、ないからだ。
「それでは、遅いのです。私は誰よりも早く、世界を救えるのですから。これ以上は無駄です。お前には、罰を与えます」
獣の全身がぎらついて、紫に染まり上がった剛毛の一本一本が、何かに引っ張られるかの如く、大きく持ち上がる。更に、巨大な頭部では、鋭角の牙が静かに開かれて、死の深淵を覗かせた。
直後。
『表裏も無き者が、神を気取るか。お前は万能ではない。驕るなよ、人間――』
獣の語尾が、瞬間的に伸びる。
すぐに、全ての景色が、停止した。猛る虚空の塊が、紫色の軌跡を飛び散らせて、ウトゥピアの中央へと飛び込んでくる。厳密に言えば、飛び込むなどと言う生半可な勢いでなく、部屋を構成する硬い地面を、壁を、彫刻を、その身に巻き込んで、”消滅”させた。無論、それらの欠片は愚か、塵も、埃も、何もかもが、初めから存在しなかったかのように、跡形もなく消える。歪みと相反する力を宿した、虚空。紫色の獣が身に纏ったそれは、以前とは比較にならない”無”を凶器としており、触れるだけで存在という概念そのものを食い荒らす事は、容易に見て取れた。
腐敗の泉など、比較対象にもならない、濃密な、無。獣がウトゥピアとの距離を、詰める。手を伸ばせば、獣の体に触れて、手先は消えてしまうだろう。
だが、ウトゥピアは、何の躊躇もなく、紫色の獣に向かって、手を伸ばした。突き出した腕よりも、先に行ってしまった衣の端が、獣に触って、消える。
数舜。
長く伸ばした腕の先を中心として、景色が、まるで集まってくるかのように、歪んだ。強烈な歪みは、鼻先を彼女へと押し付ける直前だった獣を巻き込んで、ビリビリと、何もかもを振動させる。
何もかも、だ。
紫色の光が、放たれた歪みの中で、飛び散った。放たれた歪みは、世界に、一本の線として、出現した。まるで描かれるように出現した線は、速度、距離、長さという概念を、一切含まない。唯一あるとすれば、方向。直線状に存在したあらゆる物体――いや、概念すらも、歪みに巻き込んで、凝縮して、引き延ばして、破壊する。だから、世界の外側にある、虚空の意思を宿した紫色の獣は、線に貫かれて、歪められて、頭から尻尾の先まで、大きな穴を穿たれる。
穴から、紫色の光が、血液のように噴き出す。獣は、ウトゥピアから見て、彼女が紅茶を啜る際にカップを置く程度の、極めて至近距離でもって、動きを完全に止めて、黒い睥睨だけを残した。
滑稽だった。
何しろ虚空の塊は、まるで生き物のような形をしていて、生き物の血液の如く虚空を噴出させ、生き物のように縦横無尽に動き回って、生き物のように死んだ様相で、停止しているのだから。概念でしかない”虚空”の存在が、命を宿したように振る舞うのは、違和感しか感じられない。黒い少女だって、同じだ。世界を維持するために必要な道具が、まるで感情を宿しているかの如く、意思を持って、”ウトゥピアに迫る”必要など、ないのだ。
どのような意思であるかは明白。黒い少女は、徐に、確実に、迫る。
四肢から紫色の光を放出する黒いエクスクルーシヴが、獣と全く同じように、ウトゥピアへと一直線で、向かってくる。ゆっくり歩いていたかと思った少女は、ウトゥピアが瞬きを行う間に、大気を割る勢いで、加速した。
凶悪な瞳を蓄えた少女を前に、ウトゥピアは、逡巡する。獣を葬り去った時と同じように、少女を貫くべきであるかどうかを。もし、少女のパーツに傷がついてしまえば、”NO.V-A”に、全てのプランを任せるしかなくなってしまう。だったとしても、準備が整っている訳ではない。
その一瞬の迷いの内に、少女の姿が視界から消失する。残ったのは、風化するように散ってゆく獣の紫色が、空に向かって、持ち上がる光景だけだ。吸い寄せられる紫色の光に、自然と目が行く。それを追っかけて、ウトゥピアは天へと頭を向ける。
そこに、黒い少女がいた。世界の法則から外れた少女は、しかし、世界の法則に従って、ウトゥピアへと落下してくる。狂気の表情を前に突き出した少女の後ろには、残像として残る、虚空を宿した肢体が、当然付随している。それを、黒い少女が、ウトゥピアへと、素早く突き出した。
パーツの保存などと、悠長な事を考えている余裕など、全くなかった。
目の前が、紫色一色に染まる。それは、少女の接近に伴って、徐々に色を失う。やがて、腐敗の象徴たる虚空は、名前の通り、色さえもを消し去り、全てを呑み込む黒として、完成した。
絶対的な、黒。それを間近に見るウトゥピアも、衝突の準備を終えていた。
極限まで圧縮した力の塊を、黒い少女へと突き出す。それは、周囲に存在する全ての風景を強力に歪める。やがて、力の中心部に落下してきた光が、限界まで蓄えられる事で、ウトゥピアよりも遥かに無欠な、純白を生み出した。
衝突の瞬間、二人の中心から、部屋全体を破壊する程の衝撃が生み出され、直後に、一点へと収縮して、全てが呑み込まれる。何もかもが、常識外――それこそ、世界の理から外れた圧倒的な暴力で、打ち壊された。間断設けずに、地面が、塔が、大きな亀裂を生み出す。足元に暗闇が発生して、間もなくウトゥピアは、そこに吸い込まれた。
落下する直前、目の前で拮抗していた黒い少女も、ウトゥピアから徐々に離れてゆき、瓦礫の中に溶け込んで、完全に消えた。もう、無残に破壊された、イリオスの象徴たる塔の残骸しか、視界に残っているものは、ない。強烈な浮遊感を味わうウトゥピアは、完全な前後不覚に全身を乗っ取られたままに、ふと、思う。一体、自分はどこに向かっているのかと。しかし、下らぬ疑問が解消される事はなく、彼女の意識は、それを片隅に追いやってから、ゆっくりと、穏やかに、薄れてゆく。
このまま落下すれば、自身の命と共に、永遠に、人類の未来が失われる。絶望的な状況に危惧したウトゥピアは、意識と共に消えかかる視界の片隅で小さく輝いた、”NO.V-A”の眠る円筒形の装置に向かって、手を伸ばした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます