災厄の元凶
5.1 災厄
ハラルトは、ゼィエヴを肩に乗っけて、冷たくて乾いた夜の空気を押しのけ、白い塔の入り口近辺まで駆けてきた。が、白い塔に入らねばならないというのに、とても入れる状況ではない。多くの人達が、怒声の波を作って、殴りあったり、蹴っ飛ばしたり、時には、太古の力を用いて、一帯に振動をまき散らしている。遠目で見ても、凄惨で、醜く、救い難い光景だった。
血が、舞う。人々が、伏す。
怪我をした人が、地面に身を引き摺りながら、後ずさりする。それを追いかけた人が、たかって、暴力をふるう。暴力の雪崩れを見た人々が、怒りに任せて、再びそこへと群がり、暴力をふるう。やがて、取っ組み合いになり、殴り合いになり、果ては、力を使った殺し合いに発展するのだ。
足が震える。この場所にいる事が、果たして正しいのだろうかと、疑問に思えてくる。立つ事すら難しくなったハラルトは、肩に乗ったゼィエヴを胸に抱き寄せて、どうしようもなくおぞましい現状を、ただ見つめるしかなかった。すると、胸元で大人しくしていたゼィエヴが、一言、
『行け』
と、震えるハラルトに、無茶な要求をしてくる。
「そんな事、いったって!」
叫んだつもりが、声までも震えてしまい、呟きへと変化した。それをしっかり聞いていたであろうゼィエヴが、ハラルトの胸を蹴っ飛ばして、腕から逃れ、流麗な身のこなしで、地面へと降り立った。
白い牙が、光る。
『お前に宿った力は、今や完全に、お前のものだ。奴らを薙ぎ払ってでも、進め』
ゼィエヴは、容赦なく吐き捨てた。
わかっていた。本当は、思い通りに腕を振るって、体を捩って、力を解放すれば、ここにある全ての物が、跡形もなく捻れる自信があった。しかし、行動に移せば、確実に誰かが死ぬ。だから、それを避けるために、ハラルトは力の解放を躊躇っていたのだ。にもかかわらず、白い獣は、容赦がない。人が獣に容赦しないように、獣も人に、容赦しないという事なのだろうか。
ゼィエヴの黒い瞳が、遠方で放たれる太古の力から生み出された光を反射して、白く輝く。強弱をつけて点滅するそれは、ハラルトの心を扇動する。揺らめく心を携えた彼女は、恐る恐る、腕を持ち上げて、入り口付近で争う人々に狙いを定めた。
『気を付けろ』
「え――」
白い牙の隙間から、空気と共に一言を漏らしたゼィエヴが、再び、流麗な動きで、ハラルトの胸に飛び込んできた。
それと、同時に。
一瞬、争う人々の真ん中で、まん丸い光が、浮き上がったように見えた。直後に、ハラルトの視覚は白一色に塗りつぶされて、聴覚は、強風が舞う砂の丘を駆けた時のように、高い音ばかりを拾って、役に立たなくなってしまった。ほとんどの感覚が、奪われる。立て続けに、長い浮遊感を味わう。そして、背中を、思い切り蹴っ飛ばされた。
いつの間にか瞑っていた目を、ハラルトはこじ開ける。すると、後頭部に硬い感覚がある事に気付く。それを触りながら立ち上がって見てみれば、いつからあったのだろうか、大きな木が、彼女の直近に生えていた。どうやら、蹴とばされたのではなくて、背中を木に強打したらしい。
『ハラルト。塔に入るなら、今だ』
胸にあった筈の温かい感覚がなくなっていたと思えば、ゼィエヴは地面に降りていて、体を塔の入り口に向けている。先ほどとはうって変わって、周囲一帯に席巻する轟音と光がなくなったものだから、ハラルトは、もこもこが捉えている目線の先を、見た。
すると、”全てが”、削られていた。
「あっ……!」
超巨大な驚愕が腹の底に湧いてきて、溜め込んだ空気と共に放たれる筈が、小さく絞られた喉に引っかかってしまって、滞った。今さっきまで恐ろしい争いが繰り広げられていた塔の入り口付近は、何か大きな玉が落っこちてきたかのように、綺麗さっぱり削り取られて、丸い痕跡を残すのみとなっている。当然、そこにいた筈の人々は、いない。と、思われたが、良く目を凝らしてみれば、丸い痕跡に、”こびり付いていた”。
吐き気が、せり上がってきた。何が起こったかわからぬ内に、唐突に現れた光の塊によって捻りつぶされた人の名残が、彼女の心に衝撃を与えてきたからだ。衝撃、などという安っぽいものではない。凄惨に凄惨が上塗りされた如きこの光景は、彼女の心に深く刻まれて、一生忘れられないのだろう。
冷え切って乾いた風が、ハラルトの体をまさぐって、前に立つゼィエヴの毛を、揺らした。
『どうした。ここで立ち止まっている暇があるのか』
淡々としたゼィエヴの唸りが、すぐに、冷たい夜空へと溶け込む。何もなくなってしまったから、もこもこの言葉だけがはっきりと浮かび上がって、行動に移せと、ハラルトへ決心させた。先ほどまでの震えなど、気が付いたら、自らどこかへと逃げ出していた。
誰もいなくなった白い塔の入り口。そこに、堂々と、彼女は躍り出る。白い塔とは名前ばかりで、中を覗けば、夜の空よりも寂しい暗闇が、延々と広がって、ハラルトを待ち受けていた。それでも、不思議と、余分な感情が舞い戻ってくる事は、なかった。だから彼女は、肩へと勝手に乗っかってきたゼィエヴにすら、全く気を取られずに、うっすらと浮かび上がった螺旋状の階段を、一段ずつ、のぼり始めた。
らせん階段を、長い事のぼる。かなり高い塔であるから、上にたどり着くまでに、結構な時間がかかる事は、容易に想像できる。行く先もわからず、何をすれば良いのかもわからない彼女は、しかし、自らに宿った力を、歪んだ空の庭に堂々と聳えるこの塔で、振るわなければならない事だけを知っていた。
階下から、収まっていた筈の音と振動が、いつの間にか蘇って、大きな塔の内部に反響する。低い音は、血に飢えた獣が獲物を前にして、唸りを上げるかのような、気味の悪いものだった。仄暗い塔の中だから、より一層、不気味さが目立つ。
せっせと足を動かしていると、ハラルトの目線の先――右上に、ひと際大きな踊り場が見えてくる。階下から見上げた時には、僅かな青い点が見えていたものだが、どうやら、大きな踊り場が、青い光を生み出していたらしい。その場所が目的の場所であるかはわからないが、とりあえず、広い踊り場へと、彼女は駆けた。
大地で見た、巨大な白い獣が十分に入れる位、大きな扉。踊り場には、それがあった。
どうやって開けるのかわからず、困惑したが、扉なのだから、引っ張ったり、押したりして、開くのだろう。そう思いなした彼女は、扉に近づいて、恐らくは、左右に分かれるであろう、丁度真ん中――扉と扉の割れ目の辺りを、確かめるように触ってみる。当たり前だが、硬い。そして、冷たい。まるで、他者の侵入を無言で拒んでいるかのようだ。しかし、思いがけずに、ガタン! と大きな音を周囲にまき散らして、扉は変化を見せた。
青い光が、真っ赤な光に変化した。伴って、踊り場全体は、心を掻き立てる危険な赤に染まりきる。警戒心から、一歩後ずさったハラルトは、シュー! と、今までに聞いたこともない位に甲高い音――それこそ、いつか見たつるつるの板よりも甲高いそれに、聴覚を蹂躙される。慌てて耳を塞いだ彼女に構うことなく、扉が、中央の割れ目を大きく左右へと広げる。隙間から漏れ出てきた光は、周囲を染める赤でなく、落ち着いた水の色だったから、音が完全に収まった事を確認したハラルトは、少々安心感を覚えて、扉が開き切らない内から、中にぴょんと飛び込んだ。ゼィエヴも、遅れて入ってきて、彼女の前に躍り出る。
部屋は、冷えた外と遮断されていたからか、ほんのりと温かい空気を蓄えていて、やや生臭い。一切流動しない、鮮度の落ちた空気に満たされた部屋のあちこちには、白くて薄っぺらい四角――紙と言う名前の、書いたり、読んだりする物が、散乱していた。開かれた扉が招き入れた外気によって、薄っぺらい本体を右へ左へと忙しなく移動させる無数の紙を踏みつけて、ハラルトは、奥へと進む。ゼィエヴも、進む。本当は、書いたり読んだりする物だから、踏みつけるのははばかられたが、今はそんな事に構っている余裕などない。何かをしなければならないのだからと、ハラルトは自分の行為に正当性を見出して、ひたすら奥まで歩んでゆく。
一歩。
大きな部屋の奥、真ん中からやや外れた位置に、謎の物体が転がっている。
一歩。
進むたびに、謎の物体が目立ってきた。
そして、一歩。
謎の物体は、いくつかに分かれて転がっており、ハラルトやゼィエヴと同じように、散乱した紙の上に、横たわっている。無造作なそれに近づく度に、強烈な臭気が勢いを増してハラルトの鼻を刺激したから、思わず、顔をしかめて、鼻をつまんだ。思い切り鼻を引っ張りながら、口で呼吸をしつつ、ハラルトは謎の物体に歩み寄る。
布が、見えた。
着々と謎の物体に接近する彼女は、歩む速度を落として、布をよく見る。それは、セゴルの花のような綺麗な植物が描かれた、茶色い衣服だった。
いや。違う。茶色ではない。
ハラルトは、どこかで見た事がある衣服を、知っている。だからこそ、この衣服が、茶色でない事が、想像できた。元々、この衣服は、真っ白い下地に、青い花の柄が描かれていた筈である。それに気づいた彼女は、近づく速度をぐっと落として、身震いした。
臭気が、いよいよ、つままれた鼻の隙間から、ハラルトの鼻腔へ届く程度まで、勢いを増してくる。耐えがたい匂いに身を包まれながら、いつからか震え出した両膝に力を込めて、彼女は歩み寄る。
そして、とうとう、それの正体を、把握した。スィルの、亡骸だった。
――――。
周囲の色が、なくなった。音も、なくなった。ハラルトの中で滾った感情は、何かに練り混ぜられて、様々な形へと姿を変える。その過程で、何をどうしていいかわからずに、布を茫然と見つめて、彼女は立ち尽くす。そこそこに使った足の疲労を感じる事も出来なくなってしまった彼女は、やがて、何かに形を変えてゆく心に身を任せた。
「――――――!」
ある形に変化した心に突き動かされて、ハラルトの喉から、あらゆる音をも切り裂く、特大の絶叫が、無尽の勢いで湧きだす。部屋全体を駆け巡ったそれは、彼女自身の鼓膜に入る事はなく、ただ、周囲を漂って、やがてどこかに消えた。
憤怒。
それが、ハラルトの体の隅々まで、染み渡った。
両膝を力なく地面にへばりつけて、亡骸を、抱き寄せる。無残な姿で、生ぬるく寂しい場所に放置されていた姉は、どれだけこうしていたのだろうか。思えば、ハラルトは、いつも姉に守ってもらっていた。保護され続けてきた彼女は、一度だって、姉を守ってやる事など、出来ていなかった。
悔恨の塊が、彼女の瞳を満たして、滴る。それは、亡骸の纏った汚れた衣服に滴って、染み込んだ血液を流して、衣服本来の白い下地を、少しだけ浮き上がらせた。綺麗な白を見たハラルトは、そこに頭を押し付けて、目を、固く、瞑る。残った感情の片鱗が、更に絞り出されて、目の周囲にこびり付いた。
やがて、二度と元へ戻らない事実を理解したハラルトは、亡骸を静かに横たえ、立ち上がる。自らの纏う衣服に、姉の血液がこびり付いて、しっとりとした感覚を彼女に伝えたが、不快感はない。寧ろ、今生の別れを終えた証が、何より彼女の心の支えになった。
「ばいばい。スィル」
二度と会えない姉への別れの言葉は、不思議と、すんなり、彼女から出てきた。
踵を返す。この部屋で、彼女ができる事など、何もない。
白い獣が、部屋から去らんとするハラルトへ、背後から、言う。
『女王が、お前の姉妹を全て殺した』
全てと、ゼィエヴは、言った。呆気ない、たったの一言。それで、ハラルトは、自らの使命を確信する。後ろなど、振り返らない。振り返りたくない。だから、扉に向いたまま、彼女は背に問う。
「女王?」
『ウトゥピアだ』
地上へやって来た、ハラルト達を招いた、純白の女性。揺蕩う白を纏った彼女の姿が、脳内に這い出てきて、ハラルトにこびり付いた。狡猾な欺瞞でもって、姉妹を地獄の庭に招き、あろうことか殺してしまった、恐ろしく醜い、白い女。薄々、姉妹を奪った正体に気付いてはいたが、どうやら、思った通りであったらしい。ハラルトは、確信もないのに、人を疑ってはならないと、最後の最後まで踏みとどまっていたが、その必要性を、この瞬間に、なくした。いや、最早、空に蔓延る愚者共の事など、慮る必要性すらないと、結論付けた。
鮮血のような、明るい赤。彼女は、染まった。
どうしようもなく歪み切った天空の庭園を統べる、イリオスという文明の女王たる、忌々しい白を蓄えた、殺しても殺し足りない、ウトゥピアを、確実に殺害する。天地がひっくり返ってしまう程の強烈な憎悪を抱いた彼女は、白い獣に応じる事を止めた。ハラルトよりも詳しくを知っているであろう獣と問答していても、彼女の使命が変わる事はないし、誰にも変えられない上に、変えるつもりもない。
何がどうあっても、白い女の魂を、刈り取らなければならない。
揺るぎない決意を胸にして、気味が悪くて腹立たしい水色の部屋を後にする為、扉へと歩む。だが、扉は、この鬱陶しい部屋に蔓延った温い空気を、ハラルトが出る前に、排出した。
新しい来客だ。
それは、男だった。傷だらけで、体の至る所から血を噴き出し、扉の前に立ちはだかっている。
「君は……どこに行くのか」
息も絶え絶えに、男は言った。
ハラルトは、この男に見覚えがある。空の庭に来たばかりの頃、通貨や衣服を持って、部屋にやって来た、お喋りな男だ。一体彼は何者で、何の目的があってここに来たのかは不明であるが、今のハラルトには、彼の問に答える道理も、余裕も、一切ない。加えて、忌々しい空の庭に住む者など、取るに足らない。
お喋りな男を見下したハラルトは、彼に構わずに、立ちはだかる彼から軌道をそらし、脇を通過しようとする。しかし、お喋りな男は、ハラルトの道を邪魔する如く、身を乗り出してきた。
扉が、閉まる。再び、この広い空間が、外と隔離された。
「なぜ君は、無口なのか」
一瞬で、ハラルトの心が真っ赤に染まり上がって、肉体を駆け巡る不可思議な力に火をつける。伴って、彼女の両腕は、紫色の煙が上がる如く、人々が忌み嫌う腐敗の軌跡を、宙に残留させた。
「消えて」
僅かに残った良心が、彼女に無下な行動をとるなと、訴えかける。善性に囁かれる彼女は、しかし、心の大部分を赤熱させているから、腕の動きを抑えるので、精一杯だ。
傍から見れば、明らかに、危険。にもかかかわらず、お喋りな男は、ハラルトの言う事を聞かずに、前にせり出たまま、一歩も動かない。強固な意志を宿しているであろう彼は、あろうことか、両方の腕を大きく広げて、道を阻み続ける。敵対する意思がある事は、彼から出る弱々しい力を見れば、明らかだった。
「君が女王に敵対するなら……私は、退けない」
男が、苦しそうに、続ける。
「私は、女王に使える者だからだ」
お喋りな男が言い終えた瞬間。
ハラルトの瞳孔が、完全に開き切る。そこらの獣とは一線を画す位に血を欲した彼女は、全身に力を込める。紫が、いよいよもって、腕から漏れ出し、足から漏れ出し、体から漏れ出して、彼女を包み込む。それでも、視界には、ちゃんと獲物が映っている。
”女王に、使える男”。この事実だけで、十分だった。
腕を、振り上げる。たったのそれだけを、彼女は行った。一秒でも、二秒でもない。悠長に数える暇など、そもそも存在しない。瞬間よりも、ずっと短い暇の間に、体からあふれ出た紫色の凶器が、男性の胴体に食い込んだ。だから、男性は、上下に身を分離させて、扉の前まで吹き飛んだ後、ドサリと、地面に落っこちた。男の残骸に反応した扉が、忙しなく開かれる。
何の情もない。至極簡単な行動に、情念を抱くなど、バカバカしい。ただ、この部屋に、崇高な姉と、汚らわしい空の人間が共にいる事だけが、許せなかった。故に、ハラルトは、鮮血を垂れ流して目を見開いたままに、口を少しだけ動かしている男へ、再び紫色を振り上げて、開きっぱなしになった扉の奥へと、押し出す。すると男の残骸は、血液の跡を長く伸ばしつつ、滑るようにして、塔の暗澹の奥深くに溶け込んで、消えた。地面に残った男の痕跡を、淡々と乗り越えて、部屋の境界を、またぐ。再び踊り場に出た彼女の目の前には、長いらせん階段が、高くへと続いていた。
渦を巻いてハラルトを導く階段は、踊り場の赤い光に照らしあげられていたかと思えば、背後の扉が、シュー! と、小うるさい音と共に閉まったと同時に、再び青く染め上げられた。それを見上げて、楽に上へと昇れる仕組み位、用意しておいて欲しいものだと、ハラルトは思う。
まどろこしい。
再び熱を帯びてきた心に身を任せて、彼女は、”飛んだ”。膝を曲げて、らせん階段を頼りに、真上に飛び上がった。瞬時に、彼女の華奢な体が、膨大な力に包まれて、塔の上へと、一直線に突き進む。風を割り、幾らかの物体を巻き込んで”無”へと還し、そして、彼女は妙な彫刻が置いてある広場に、到達した。
奥で、光が見える。
ハラルトは、顔を歪めた。全て壊すつもりだし、それができる自身があったから、自然と顔が、歪んでしまったのだ。
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