4.4 FULLY UNLOCKED

 ピキっと、何かが割れた音がする。

 ハラルトは、慌てて起き上がって、自分の頭にそっと両手を置いてみた。頭の深い所から聞こえてきたものだから、自分の頭が割れてしまったのではないかと、ヒヤッとしたのだ。

 でも、髪の毛の触感と、ベッドに押し付けられていたからか、ほんのり温かい感覚しか伝わってこないものだから、ハラルトは安心して、変てこな事を考えた自分に、思わず笑ってしまった。

 部屋が真っ暗いから、触れば明かりがつく硬い四角――スイッチに触れる為、起き上がろうとしたのだけれど、足が重くて、動きにくい。まだまだ寝ぼけている頭を足元へと向けてみたら、ゼィエヴが脚の間に陣取って、窓の外を見ていた。

「寝ないの?」

 一言、もこもこに言う。当たり前だけれど、もこもこは何も返さずに、こっちをチラリと見てから、再び、頭を外へと向けてしまった。相手にされていないと思ったら、ちょっぴり悲しくなってしまって、ハラルトも同じ土台にたとうと、足をゼィエブから上手に引っこ抜き、窓の外を見た。夜空の下では、いつもより明るく照らされた街が、天高くまで光を届けていた。

 地上が恋しい。地上の人々が、恋しい。でも、マオテは空には来ていない。だからハラルトは、寂しい気持ちを埋める為に、姉の部屋に行くことにした。

「おいで」

 起きたばかりのはっきりしない体を無理矢理に動かして、ハラルトは、ゼィエヴの柔らかくて温かい体をそっと持ち上げ、窓からこっそり忍び込んでくる光を頼りに、気を付けて履物を履く。今度は、左右あべこべにならないように。

 左の腕に抱きかかえたゼィエヴの元気が、どこかに抜けてしまったように見えたけれど、きっと、姉の所へ行けば、ちょっとは良くなるかもしれない。そんな事を考えつつ、彼女は扉を静かに開けて、外に出た。

 隣にある、スィルの部屋の扉の前にたったら、ようやく、風がひんやりとしている事に気が付いて、彼女の肩は、ブルリと震えた。早く部屋に入りたい。

 扉を、叩く。だけど、中からは、音が聞こえない。寝ているのだろうか。

 ハラルトは、スィルの部屋の扉をそっと開けて、中を覗き込む。窓にかかった布が、外の光を絶対に入れないと、誇らしげにしているものだから、ハラルトは、大きく扉を開く事で明るくして、奥まで覗いた。でも、スィルはいなかった。衣服も、ベッドの上も、綺麗に掃除されていて、まるで、初めから誰もいなかったかのようだ。

 諦めて、そっと扉を閉めてから、彼女は、隣の部屋の扉を叩く。トゥァカシーヴの部屋だ。

 本当は、トゥァカシーヴの部屋に入るのは、ちょっぴり遠慮したかった。どうしてかと言えば、部屋に入ったら、トゥァカシーヴはハラルトの匂いを嗅いだり、顔を強く擦り付けてきたりするからだ。でも、姉が嫌いなわけではないし、今は、そうしてくれたら、逆に嬉しい。そんな訳で、ハラルトは、部屋の扉を慎重に開けた。

 今度も、部屋の中に姉はいないらしい。

 夜が深いから寝ていると思ったのに、みんな、外に出て行ってしまったのだろうか。ハラルトは、街に出て行って欲しくなかったから、姉が嫌な思いをしているのではないかと考えて、ほんの少しだけ、不安になった。

 外気のように冷たい不安に心まで震わせつつ、ハラルトは隣の部屋の扉を開く。もう、叩く事はやめた。

 真っ黒い部屋。同じだった。スィーンは、大抵部屋にいて、夜は遅くまで起きており、朝はとても早い。開ければ絶対にいると思っていたのに、人恋しい今日に限って、姿が見えない。

 だんだん、不安が大きくなってくる。心がギュッと絞られている事がわかってしまったのだろうか、ゼィエヴが、小さい顔を持ち上げて、ハラルトを見つめている。

「大丈夫」

 ハラルトは、ゼィエヴの欠けた耳をつまんでから、丸っこい頭を撫でる。冷えてきた指先と手のひらが、少しだけ温まった。

 最後に、ハラルトの部屋から一番遠くにある、コアの部屋の扉を開く。ちょっぴり、臭った。色々なものがあちこちに転がって、汚れていないのに、汚く感じられる。もし、地上でコアが一人でいたら、何でもかんでも放りっぱなしにしてしまうのだろう。スィルを見習うべきだ。

「ねえ」

 中まで頭を突っ込むのが、躊躇われる。どうしても臭いが気になって、仕方がないのだ。だから、ハラルトは思いついた。頭を奥まで入れないで、呼びかければ良いのだ。少しうるさいかも知れないけれど、コアが片付けないのが悪い。

 声は、部屋の奥で虚しく響くだけ。

 仕方ないと、ハラルトは扉を大きく開けて、臭いに耐えつつ、中を覗き込んだ。だけれども、他の姉達と同じように、部屋の中には誰もいなかった。

 ハラルトは、がっくりして、自分の部屋に戻り、靴を適当な所に放り投げて、つるつるの椅子にお尻をつける。どっと疲れてしまって、ため息が、お腹の底から湧き上がって、口を押し広げた。

 茫然と、窓の外で動いている光を見る。光は、強くなったり、弱くなったりして、部屋の中に入ってくる。壁に反射するから、部屋に置いてある物の影を伸ばしたり、縮めたりして、忙しない。姉もいなかった事だし、今日の街は、何か面白い事でもあるのだろうか。

 もしも、面白い事があっても、ハラルトは絶対に街には行きたくない。また、嫌な思いをするに決まっているのだから。姉が街にいたとしたら、今すぐ部屋に帰ってきて欲しいくらいなのだ。

 ため息が、尽きない。

 と、部屋の隅っこで、ゼィエヴがこちらをじっと見つめている事に、ハラルトは気が付いた。白いもこもこは、ハラルトが目覚めた時と同じように、きちっと座って、少しも動かない。いつもなら、隅っこでなく、ベッドとか、膝の上とか、柔らかい所に来る筈なのに。

 何だか、気味が悪かった。ハラルトは、自分の膝をポンポンと、軽く叩いて、ゼィエヴを呼ぶ。

「おいで」

 でも、ゼィエヴは、こっちには来なかった。その代わりに、座っていた姿勢から、スッと立ち上がって、ハラルトの目の前の机へ、ぴょんと、身軽に飛び乗った。

 欠けた耳を触ろうと、ハラルトが手を伸ばそうとして――。


 ピキっと、音が鳴った。それは、連続して、ハラルトの頭を渦巻いた。合計、三回。

 金属だ。間違いない。何かが外れた音。金属製の何かが砕けたような、ひどい音。


 ハラルトは、自分の頭を強く押さえつけて、二度とこの音が聞こえないように、もがいた。なぜだか、聞こえてはいけない音だと思ったのだ。それを見ていたゼィエヴが、ゆっくりと座る。

 次の瞬間、ハラルトは耳を疑った。


『――人間』


 何者かが、喋った。だからハラルトは、自分の頭を押さえつけるのを止めて、周りを見回す。でも、声の主はいなかった。

『こちらを見ろ。お前がゼィエブと名付けただろう』

 抑揚がない声。しかし、少々呆れた感じの、声。その声の持ち主が、机の上にのっかったまま、黒く輝く瞳を、ハラルトへと向けている。

「ゼィエヴ、喋れたの!?」

『形に意味はない』

 ゼィエヴが、言う。一瞬だけ、何か悪いものに体を乗っ取られてしまったのかと疑ったが、どうやらそうではないらしい。白いもこもこ――耳の欠けた白銀ノ獣ガ、何かヲ。

「お前、ハ?」


 視界が歪む。強弱のメリハリをはっきりさせて部屋の中に侵入してくる光が、ハラルトの眼底へと、歪んだ状態で届いて、全ての色をかき混ぜる。それは、彼女に正しい認識を許さず、彼女の視覚を確実に奪い去っていった。余りにも異常な光景を目前にしたハラルトは、心のどこかから湧き出してきた猜疑心に駆られ、自分の認識が、果たして正しいのだろうかと、重厚な疑問を胸に抱く。彼女の心を占拠した圧倒的な疑問は、やがて、自分が生きてきた大地での出来事、天空の庭園での嫌な出来事、姉妹に対して感じていた感情、医者の青年との思い出、眼前に座す白い獣、果ては、自分自身が生きていて、今もこうして何かを感じているという事実さえも、彼女に疑わせ、思考を圧迫する。押しやられた思考は、ただでさえ曖昧な認識を精査しようともがく彼女から、一切の余裕を奪い去って、やがて、勝手にどこかへと、流れ去ってしまう。結果として、彼女の頭の中は純白の塔のように真っ白に染め上げられて、とうとう、何も考えられず、また、何もできなくなってしまった。要するに彼女は、自らでは何も生み出す事が出来ない状態になってしまい、外界からの、視覚以外の刺激しか、受け付けなくなってしまったのだ。だが、些かばかり残った感受性も、すぐに消える事となる。なぜなら、先ずは音が死んだから。伴って、香りも、消え失せたから。口は、常軌を逸する程に干上がったから。皮膚は、寒さや暑さを一切感じなくなったから。終いには、彼女の体から、全ての力が抜け出て、彼女は地面へと倒れ伏す。しかし、この段階に至れば、倒れた、と言う認識が、そもそも正しいのかどうかも疑わしいが、僅かに残った何らかの感性曰く、体から力が失われると、結果として倒れるのだから、倒れたと言う結論を出す事が正しいと、彼女に教えた。最後に残った極めて小さい意識で、彼女はそれを把握すると、極小の意識までもが、まるで風化してゆくように体から抜け出てゆく感覚を、崩れ去る極小の意識そのものでもって、最後まで味わった。必然的な結果だ。つまるところ、彼女からはすべてが失われたが、彼女の外にあるものは、残った。残ったのは、鍵。彼女を解除した、鍵。それだけが、ただ浮かんでいた。尤も、それを彼女が見ているのか、あるいは見ていないのかは、彼女自身にはわからない。見るという行為は、目から光を取り込むことで、そこにある、何らかの存在を把握する事であって、今の彼女には、それが実行できない筈だ。理由は、今の彼女から五感の全てが失われている筈であるから。それでも、彼女に残った鍵は、彼女に存在を把握させたのだから、どこかしらに感覚が残っているのだろうが、一体なにが残っているのかなどを調べようとしても、手段は当然ないから、ひたすらに、彼女は鍵を、把握している。

 自分を解除した、鍵を。


『こちらを、見ろ』


 目を開ける。するとハラルトは、ちゃんと椅子に座って、白い獣の真正面で、視線を受け止めていた。倒れたという認識は、間違っていたらしい。何が真実であるかを見極める事が難しい状況だが、とりあえず彼女は、今現在の自分と、付随した感覚を信じる事にした。

 ゼィエヴが、白い牙を覗かせる。

『お前は解放された。世界の理から、外れた。世界の理から外れた者は、世界を壊す。同時に、世界を救う事もできる。お前は、どちらかを選択できる』

「何を、言ってるの」

 スィーンのような冷静さで、言った。直後に、失われていたどこかの感覚が、彼女に戻ってきた。

『世界を、愛しているか』

「決まってる!」

 トゥァカシーヴのような力強さで、机を叩いた。直後に、失われていたどこかの感覚が、彼女に戻ってきた。

『ならば、お前は世界を救えば良い』

「ハラルトにしかできないなら、やるよ」

 コアのように、笑った。直後に、失われていたどこかの感覚が、彼女に戻ってきた。

『世界がどのような形になっても、お前は許せるか』

「わからないけれど、受け入れるよ」

 スィルのように、穏やかな声で、告げる。直後に、失われていたどこかの感覚が、彼女に戻ってきた。

『では、白い塔へ向かえ』

 もう、ハラルトは何も言わなかった。

 白い塔。天空の庭園を見守る、白い塔。彼女は、自分に宿っている力が、自由自在に扱える自信を持っていた。そして、白い塔でそれを使わなければならないとも、不思議と、理解していた。

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