4.3.1 狂人の庭
眼前の光景を見て、女王ウトゥピアの側近を務めているイヴァルは、にわかには信じられないと、身を震わせる。彼は、体を壊す位に一生懸命な女王の為、少しでも力になろうと考えて、地上の腐敗を太古の力に還元する装置を点検しようと、複雑な仕組みに知恵が及ばないとわかっていながらにして、朝一番に、この一画へとやって来たのだ。
詳細な部分までは、彼にできる事ではないが、普段から女王と共に水色の装置を点検していたから、ある程度のメンテナンスはできると思った、矢先の事だった。
この装置は、普段から嫌な音を上げ、時たまガタガタと、内部が蠢く。大抵、全てを集中管理しているパネルを見れば、ガタガタとした異音を上げる装置に限り、エラーが出ている。その都度、女王は何らかの操作を行うのだが、女王の知恵に少しも及ばない彼は、まずもって、それに近づいてみた。
近づいてしまった。
円形の、小さな窓。普段ならば黒一色に染まっている筈のその中で、一瞬何かが光った気がした。イヴァルの興味をそそる光が、彼を誘惑するものだから、奥まで覗き込んだのである。
その瞬間、彼は、目が合った。おそらくは、中にいるであろう誰かと、確かに目が合ったのだ。
身震いしたイヴァルは、強い力で弾かれたかのように、水色の装置から転がって離れる。その際に、背中に硬いものが当たったから、振り返った訳だが、そこにも当然、水色の装置があった。
この場所は、水色の装置が、無数に、それも規則的に並んでいる。普段ならば特に何とも思わない光景なのであるが、装置の中身に気付いてしまった今となっては、恐ろしくて、おぞましくて、どうしようもない。
それでもイヴァルは、自らを奮起させて、震える足を無理やりに押さえつけて、立ち上がる。無力な彼には、無力なりに、出来る事があるのだ。
この頑強な装置を壊して、中にいる人を救う事は、イヴァルには到底できない。強固な外板は、あまりにも分厚くて、硬くて、太古の力をもってしても、破壊できるかどうか、怪しい。それに、中の人を死なせてしまうかもしれないのだ。だからイヴァルは、天空の庭園で、心当たりのある人物を思い浮かべる。
その人物の顔が完全に浮かぶ前に、彼は駆けだしていた。
一刻も早く、中の人を救わねばならないと、イヴァルの心が、真っ赤な警鐘を、延々と鳴らし続ける。それは彼の体を操って、あらゆるものを置き去りにする迅速で、彼を導いた。
天空の庭園には、地下に空洞がある。この空洞は、大小さまざまに張り巡らされており、庭園内部に太古の力を循環させたり、庭園そのものを浮上させる為の構造として、利用されている。イヴァルは、過去に人々が地上を見限り、天空の庭園を建造する際に、科学力の粋を結集させて作られたと、聞いている。
今では、この場所に立ち入る人は、存在しない。そもそも空洞は、人が立ち入る事を拒む設計となっている。理由は、天空の庭園を、空の庭たらしめている重要な役割を担っているからに、他ならない。加えて、極めてシンプルな構造故に、数百年単位で簡単な点検を行えば、維持するのには、十二分なのである。
空洞を流動するのは、言うまでもなく、太古の力である。だが、イリオスに益を成す、太古の力だけが、空洞を独占している訳ではない。
天空の庭園に、自らの意思で馴染まなかった人々が、住んでいる。
彼らに、呼称はない。呼称など、誰もつけたがらないし、誰も、彼らを見ていない。彼らは、厄介者でもなければ、文字通り、日の光を浴びるような事もない。
言うなれば、亡霊。
空の庭に巣食う亡霊達の多くは、科学力に優れた、力を持たなかった人々が、知り合いや親族に存在する。そして、力を持たなかった人々は、地上へと取り残された。故に、脈々と続く科学力を継承した彼らも、当然それに精通していて、空洞に侵入する事は、容易だ。また、彼らは、親族や知り合いを強制的に見捨てさせられた為に、酷な過去の上に成り立つ現在の空の庭に、不満を持っている。
無論、害を成す訳ではないが、少なくとも、益をもたらす事は、ない。
イヴァルもまた、彼らとルーツを同じくしている。彼の家系は、宿る太古の力が小さかったのだ。イヴァルこそ、人並み程度には、太古の力を扱えるが、親族は、彼とは違った。とは言えイヴァルは、自身の親族について、イリオスによる棲み分けが進む最中に死んだ、と聞いている。それに彼は、物心ついた時から、孤独だ。であるから、イヴァル自身が、天空の庭園に恨みを抱いていたり、空洞で暮らそうと思った事は、ない。現に彼は、空の庭の恩恵を受けて、暮らしているのだから。
あくまで、彼には亡霊達に知人がいる、という程度の話である。そして彼は、亡霊たちを頼りに、空洞の入り口に来た。
周囲を見ても、当然のように、誰もいない。
イヴァルは、天空の庭園の外れ――小高い丘にある、一辺が二メートル程度の、正方形の入り口に向かって、手のひらを添える。科学力が用いられているとはいえ、一定数の入り口は、太古の力でも開く構造になっているのだ。
「フッ!」
しばらく使っていなかった力は、まだまだ錆び付いていないらしい。
短く息を吐いて、力を込めたら、それを受けた扉が、一辺に三角形を作って、上下左右に開く。無音で開かれた扉を見て、まるで、化け物の口が開くみたいだと思ったら、イヴァルの背筋は、途端に寒くなった。
入り口から奥深くに殺到する外光は、途中で途絶えてしまっている。それでも、奥へと目を凝らせば、完全な暗闇でない事がわかる。
仄かな光が等間隔に並んでいる事に、やや安心感を覚えて、イヴァルは注意深く、空洞の口中へと歩みを進めた。
右に曲がり、左に曲がる。道に交差や分岐がないから、イヴァルが進む事に関しての足枷はない。唯一、彼の歩みを滞らせる原因を挙げれば、不気味な仄暗さを湛えた道の先が見えぬという、恐怖心のみである。
なぜ、このように作ったのだろうか。そんな事は、先人に聞かねばわからないに決まっているが、くだらない思考を張り巡らせて怖気を誤魔化さねば、彼は奥深くまで歩めなかっただろう。長い事恐怖に耐えた甲斐があって、ようやっと、ポツンと、遠方で際立っている光の塊が、見えてきた。
一歩、一歩と近付けば、光の塊は、仄暗い粒の集合であると、イヴァルに正体を把握させた。煤だか塵だかがユラリと漂う湿っぽい空気を押しのけて、イヴァルは、奥へ奥へと慎重に、しかし、突き進む。汚れても、構わない。構っている暇など、彼にはない。
イヴァルは、女王の側近だ。力のない彼は、女王が道を誤らないように、正す事しか出来ない。
無表情でいて、しかし、どこか悲しげな、女王ウトゥピア。純白の、世界の希望。そんな彼女は、献身的に、イリオスの為に働いてきた。そして、命がある限り、彼女はそうするのだろう。そんな、孤高の彼女は、救われるべきなのだ。
彼女にとっては、小さい想いかもしれない。それこそ、バカバカしいと、一蹴する程度の事なのかもしれない。だが、そんな些末な仕事は、イヴァル自身にしかできない。人々を導く彼女を、孤独から救済へと導けるのは、彼女を間近で見てきた、彼だけなのだから。
(自らの事しか見えていない連中に、ウトゥピアが救えてたまるものか!)
イヴァルは、拳を握りしめる。
ある程度まで近づいた所で、仄暗い粒の集合から、ザッと、足並みを揃える様な不可解な音が空間中をこだまして、イヴァルを包み込む。
寸刻の事。
光が見えたと、若干の安堵を感じていた筈の彼の心は、極寒の息吹きを受けたかのように、凍り付く。立て続けに、彼の皮膚は、まるで細かい粒がまかれたように、警戒を彼へと促した。
折れそうになってしまった彼は、しかし、女王を想って、食い留まる。見えぬ恐怖に煽られた彼を支えるのは、たったの、それだけだった。
足音が、光の塊から、近づいてきた。
一歩。
二歩。
イヴァルの予想よりも、遥かに早く、警戒するべき足音が、止まる。彼は、極限の緊張感を、全身で味わう。
「――おい」
低い、男の声。若い声だ。
恐らくは、声の持ち主が、再び一歩ずつ、それも慎重に、イヴァルへと向かってくる。仄暗い光の塊とは、少し違って、白みを帯びた光が、イヴァルの十メートル程先で、生まれた。明らかに、近づいてくる男が、太古の力を携えている。
攻撃されては、たまらない。
「待て、早まるな。用事があって、ここへきた」
「名は」
「イヴァルだ」
お互い、探り合いだ。イヴァルも若い声の男も、動きこそ緩慢であるが、口ぶりは捲し立てるようである。
名乗ったら、彼の声が、たっぷりとこだました後、徐々に縮小する。それを最後として、しばらく音が消え失せた。
無音。
直後、イヴァルの耳に入り込む足音が、加速する。やがて、完全にお互いの姿が見えた所で、汚れた衣服を纏った若い男が、ピタリと止まった。
「イヴァル、と言ったな。我々のリーダーの名を言え」
「ヴィュール」
「ついてこい」
男が、イヴァルに背を向けて、底のない空洞の奥へと、足早に移動しだした。イヴァルは慌てて男の背中を追いかけて、男と共に、暗がりへと溶け込んだ。
複数の分岐や狭い道、そして、かなり大きな空洞を長い事進んでいたから、イヴァルの方向感覚は、完全に麻痺してしまっていた。こんな事ならば、位置を把握できる装置を持ってくるべきであったと後悔したが、もう遅い。
前を歩く男の足は、非常に速い。それこそ、万全な状態のウトゥピアよりも速いものだから、彼は男の背中を追っかけて、息を切らしながらも、関心してしまった。
そんな男の歩みが、少しづつ、低下している事に気付く。だからイヴァルは、目的の場所に到達したのだろうかと思って、男の肩越しに、闇の奥底へと目を凝らす。すると、橙色の光が見えた。
男は、イヴァルへ振り返り、顎で橙色を指す。直後に、走って奥へと溶け込んでしまったから、イヴァルは変な場所に取り残されてしまった。
今までの仄暗い白色と違う明かりへ向かって、イヴァルも進む。足元には微妙な凹凸があるから、素早く立ち去った男の軌跡をなぞるのが、賢明だろう。
橙色が、視界の中で、存在感を増した。それは、近づけば、大きく燃え上がる火の柱だったとわかる。上騰する火の柱を取り囲むように、いくつかの華奢な椅子が並んでいた。その一脚に腰かける誰かが、身をこちらへ傾けた。その際に、ギシリと、今にも崩れ落ちそうな音が、生み出される。
イヴァルは、生唾を呑み込む。
生々しいその音と、椅子が軋んだ音が、層をなして、彼の鼓膜を撫ぜた。しかし、見覚えのある男性の姿だったと確信した彼は、背筋を震わせる直前で、留まれた。
埃っぽい空気を、胸に蓄える。
「久しいな、ヴィュール」
イヴァルは、腰かけた男の背中に向けて放った。
ヴィュールは、その声を聞いてから、中途半端に傾けていた体を、いっぺんに椅子から持ち上げて、イヴァルの真正面に向かって、毅然としたまなざしを突き刺す。
「イヴァルか。何しに来た」
イヴァルの知るあらゆる人物の、どれよりも低く、精悍で、凄みを蓄えた声を、ヴィュールは漏らす。彼は、今まで掛けていた錆びだらけの華奢な椅子の背を掴むと、自らの臀部にあてがって、盛大に座った。
大柄な体を受け止めた椅子は、ギリギリと、悲鳴を上げる。大股を開いたヴィュールの、埃だらけの黒い衣服は、彼の大胆な動きに良く馴染んでいる。
普段なら、このような大柄な男を見て、イヴァルは萎縮してしまう所であるが、旧知の仲であったから、そうはならない。少なくとも、不気味な暗がりよりは、よほどイヴァルの心に安堵をもたらす存在だ。
そんなヴィュールに、彼は再び、一声を投げる。
「手を貸してほしい」
すると、どっしりと根を張るように座ったヴィュールが、僅かに、右の膝を動かした。幼い頃からよく遊んだ仲とは言え、この男が静かに怒りを表す時は、いつもこうである。だからイヴァルは、彼のように動かずして、しかし、身構えた。
ヴィュールが、自らの膝に肘をついて、汚れた両手を、顔の前で、ゆっくりと組む。幸い、彼の真っ黒くてゴワゴワとした短髪によって、彼の顔が見えなくなる事はなかった。が、上目遣いの彼は、眼光が鋭すぎる。
「我々の親族が受けた屈辱を、忘れたというのか」
心音が高鳴る。イヴァルは、自らを流れる血液によって、鼓膜が叩かれる音を、心底忌憚した。
「昔の話だ。今を生きる人々には、関係のない話だろう。現女王だって、棲み分けを推奨した訳ではない」
気おくれする心を気取られぬよう、ヴィュールの声をまねるつもりで、淡々と言った。
汚れて太い指が、ヴィュールの顔から遠ざかる。やがて彼の両手は、大きく開かれた股の、丁度真ん中で、力なく項垂れた。
「忘れてはならない事もある。お前は、天空の庭園での仕事に尽力しているが、俺はお前とは、違う」
横から熱を伝えてくる巨大な火の柱が、無数の火の粉を舞い踊らせる。どこからかやって来た温い風が、好き勝手に宙で遊んでいた火の粉達を、イヴァルとヴィュールの間に流し込む。直後、熱気が二人を包み込んだ。
酷熱の塊を、イヴァルは、口で吸い込む。
「では、なぜ空から去らない。地上へ転送できる装置ならば、この場所にあるのだろう?」
不動のヴィュールが、眉毛をピクリと動かした。
「屈辱とは、晴らすべきものだ。我々の技術力のお陰でのうのうと暮らせている奴らを、見返さねばな」
ヴィュールの口元が、僅かに裂けた。
「俺は、天空の庭園を変える。それが達成されるまで、この場所を去るなど、あり得ぬ」
「地下にこもっていても、何も変えられない」
イヴァルの一言で、不敵な笑みを張り付けたヴィュールの顔が、様子を変える。何もせずとも迫力を持っている彼の顔が、イヴァルには、ややくすんだように見えた。
「もっともだ。だからこそ、この場所へ、地上から人々を流入させている。何人かは、既に上で暮らしているぞ」
「勝手な事を」
次の瞬間、ヴィュールの声音が、一段と低くなる。
「勝手なものか。勝手なのは、この場所に住む愚か者共であろうが」
火の柱が燃え盛る音に混ざって、いくらかの気配が、周囲で存在感を増した。イヴァルはヴィュールから目を離さなかったが、気配の正体は、いつの間にか周囲に集まっていた亡霊達だったのだと、すぐにわかった。来客など、普段ではあり得ないだろうし、ヴィュールの語り口は普段と違うのだろうから、気になって当たり前だ。
沈黙が、席巻する。
二人の影は、大きな火によって揺らめき、大きくなったり、小さくなったり、変幻自在に転がりまわる。漂う塵は、渦を巻いて、火の柱に身を捧げた。
何とも表現し難いが、確かに不穏な空気。やがてそれを、見合わぬ椅子に座った大男が、切り裂く。
「まあ、我々の考えを押し付ける気はない。争いを起こすつもりも、ないさ。俺はただ、天空の庭園を変えたいだけだからな。近いうちに、女王に話をしに行く考えもあった」
「……」
そういうことであればと、イヴァルは沈黙に徹する。争いは、起こらないに越したことはないのだ。
少しして、ヴィュールが、巨体を大げさに揺さぶってから、立ち上がった。汚れた両手をイヴァルの目の前で思い切りはたき付け、彼は豪快に笑う。鼓膜をつんざくような音だったから、イヴァルの心臓は止まりかけた。
「古い友が来たんだ、できる事ならば、手を貸そうじゃないか」
肩を上下させて笑いつつ、ヴィュールは奥へと進み、汚れた台――恐らくは机の上に乗っていた、割かし大きめの瓶を手に取る。彼が持つと、かなり小さく見えるが、間違いなく、街で売っている巨大な酒瓶だろう。大きなカップに対して、瓶をひっくり返す勢いで酒を注ぐヴィュールを横目に、イヴァルは、彼の座っていた壊れそうな椅子に腰かけた。この大男が座って壊れないのだから、間違いなく、イヴァルの体重を支える強度はある筈だ。
足を組んで、早速酒を喰らい出したヴィュールに、イヴァルは安心感を覚える。まるで、幼少期の頃のようだと、懐かしんだのだ。だが、古い友に話す事は、回復した空気に似つかわしくない、鈍重で、険悪なものだ。それがわかっているから、イヴァルは素直に喜べなかった。
恐る恐る、イヴァルは切り出す。
「腐敗を太古の力に還元する装置の事を、知っているか」
「ああ、勿論だ。一度見た事もあるぞ。知っているとは思うが、あれは我々の技術ではない。女王の技術だ。立派なものさ」
そういって、酒を片手に持ったヴィュールが、振り返った。全身黒一色の大男の語り口は、上々だ。彼の機嫌は、悪くないのだろう。
だからこそ、古い友の機嫌を損ねるような話を切り出すのには、抵抗があった。しかし、言わねばならない。
「……恐ろしい話だが、落ち着いて聞いてくれよ」
コトンと、大男が手にしたカップが、静かに机上へ戻された。ヴィュールは、深刻な顔になって、イヴァルの前まで来て、手近にあった椅子に腰を落とす。
「なんだ」
短く継いだヴィュールは、眉間に深い皺を刻んだままに、やや、イヴァルへと顔を近づけた。
イヴァルは、感情の切り替えが早い大男に関心しつつ、他者に話すなど到底憚られる、水色の装置に関してを、しかし、ゆっくりと話し始めた。
イヴァルは、快くとは言わないまでも、居城へと招き入れてくれた古い友へ、おぞましい事実を、全て開示した。それからと言うもの、ヴィュールは何も言わずに、ただ、虚ろなまなざしを、上騰する火の柱へと向けたまま、閉口している。
こうしている間にも、水色の装置の中に閉じ込められている人は、助けを待っているだろう。彼は、手段を誤っているウトゥピアだって、救わなければならない。だから、黙っているヴィュールに、すぐにでも力を貸して欲しいのだ。
燻っていた焦燥が、イヴァルの中で肥大して、彼の心全体を包み込んだ。燃え盛る火の柱の如きそれは、やがて彼の口を動かそうとして――。
「――何という事だ」
初めに口を開いたのは、黙り込んでから久しいヴィュールであった。彼は、大きな手を徐に自らの側頭部へと移動させてから、険しい表情を、包み隠した。
「我々は、争いが起こらぬように気を付けていた。だからこそ、この庭で暮らす愚か者共とも、極力接触をしないで来たというのに……」
「どういう事だ」
頭を伏したヴィュールに向けて、イヴァルが言葉を継ぐ。
直後に、大男は跳ねる勢いでもって立ち上がる。彼の体が大きいという事もあって、勢いに押された椅子が、後ろの方へと吹き飛んだ。それはどこかにぶつかって、甲高い金属音を響かせて、転がる。
「どうもこうも、あるか。女王は、争いの種を蒔く。我々の想いも知らずにだ!」
ヴィュールの、何よりも黒い瞳に、獣が宿った。
「馬鹿な民は皆、それに気づいていなかったという訳であろう? こんな話が、あってたまるか!」
「……」
大男の腹の底から生み出された怒りの咆哮が、あらゆるものに染み渡って、延々とこだました。
誰も、争いなど望んでいない。だからこそ、彼は彼なりに、この暗がりの奥底で、空の庭を変える為の努力をしてきたのだろう。しかし、彼に言わせれば、ウトゥピアの作成した装置は、争いの種との事だ。
如何に、古き友が――空の人々を愚かだと蔑んだ大男が、多くを想っているかが、イヴァルには良くわかった。それだから、イヴァルには、彼にかける言葉が見当たらない。これ以上になく、彼の想いは、完成されていたのだから。
ウトゥピアも、ヴィュールも、天空の庭園を想っている。それは、間違いない。だが、女王が天空の庭園そのものを維持する為に尽力しているのに対して、大男は、地上や空の人々の、どちらにも比重を置いて、尚且つ、争いが起こらぬように、融和させようと考えているのだ。
いずれも、確かに高尚だ。しかし、方向性が、全く違う。
では、自分はどうだろうと考えた所で、イヴァルには答えが出せなかった。だから、彼はできる事をやるしかないと、思いなす。今できる事は、この瞬間にも、装置に押し込められた人を救う事なのだ。
だが。
「装置に閉じ込められた者を救う手段は、ない」
ヴィュールは、先ほどからだいぶ消沈した調子で、波風立てぬ静けさを声に携え、言った。
無情な宣告だった。
「なぜだ」
「見た事があると、言ったろう。あれは、絶対に開けない。そんな事よりも――」
大男が、黒い衣を揺らし、イヴァルの真正面に立つ。その気迫に押された彼も、慎重に椅子から腰を持ち上げた。
「お前は知らないだろうが、腐敗には、それを消滅させる為に必要なものがある。何だかわかるか」
「勿体つけるな」
間断設けずに、イヴァルは言い放った。
ヴィュールは、何も湛えぬ表情で、イヴァルの眼をやや上から覗き込む。
「命だ」
酷熱の柱が余すことなく熱を伝えてくるというのに、イヴァルは寒気を覚える。
ヴィュールが、息を吸い込む。
「生命を腐敗に晒すと、腐敗は消える。我々の技術だって、腐敗の中に微量存在する太古の力を吸収する装置は、作れた。しかし、腐敗を消す事は、叶わなかった。女王は、命を用いてそれを行ったのだろう」
「……」
大して知識を持っている訳ではないが、事の真相が徐々に見えてくる。その度に、イヴァルの全身を氷のような冷たさが撫ぜまわして、彼を震え上がらせようとした。どうやら、思っている以上に、事態はおぞましい。それに気付いてしまった彼は、目を見開いて大男を見つめ、閉口するしかなかった。
「女王は、狂っている。そんな女王に、イリオスの未来を背負わせるなど、考えられん」
ヴィュールの、大木のような左腕が、大きく宙を舞う。同時に、周囲に蔓延っていた無数の気配が、機敏に動いたと、イヴァルは敏感に感じ取った。
「何をしている」
「時期が早まっただけだ。避けたい手段だったが、こうなればやむを得ん。お前は、どうする」
「何を……言っている?」
いやな予感。イヴァルの第六感が、彼に、異常事態だと、警戒を促す。伴って、彼の拳には、じっとりと、汗が滲む。
イヴァルは、拳へありったけの力を込めて、僅かな隙間をも、握りつぶした。
「我々は、強硬手段に出る。天空の庭園を変える為に、革命を起こす。お前には言いたくなかったが、地上の民の流入を女王が拒んだら、女王を殺す算段だった」
イヴァルは、拳に更なる力を込める。
「お前、私がどこに従事しているか、知っていてそれを言うか!」
「無論だ。地上へ降りろ。そうすれば、お前を殺さずに済む」
ヴィュールの目は、真剣そのものを携えて、イヴァルの顔を貫いた。
イヴァルは、ここ数年稀に見る程に、強い力を、拳に込め尽す。やがて拳は、腕を巻き込んで震える。
「お断りだ」
ザッと、気配が殺気を増した。古き友は、再び、大木のような腕を掲げる。
「二度は、問わぬ。さらばだ、友よ」
「見くびるなよ」
準備は、既にできていた。
永遠になるかもしれない、友との別れ。だが、それに嘆き悲しんでいる暇など、毛頭ない。イヴァルは、拳に込めていた太古の力を、クイと、まるで引っ張るかのよなジェスチャーで、”動かした”。
応じるは、空間の中央で熱気を生み出し、上騰し続ける、巨大な火の柱。それは、彼の動きに応じて、足元をすくわれるようにして、イヴァルとヴィュールの間に滑り込む。彼の第六感が、危険を予め彼へと伝えていたお陰で、彼は、火の柱へと、太古の力を引っ掛けていたのである。
衝撃で、無数の火の粉が滾り、暴れ狂い、黒い男への視線を、遮る。黒い男もまた、こちらへ向けた鋭い瞳を、遮断させられたのだろう。瞬刻、四方に飛び散って霧散する火の粉の隙間に、ヴィュールの真っ黒い瞳を見た。それは、古き友の、あの頃の瞳に、相違なかった。
心が絞られた。それでも、停滞している暇はない。
研ぎ澄まされた五感の一つ――聴覚が、イヴァルの右後方へ迫る危険を、主に伝える。彼は、真後ろに振り返りつつ、細い通路へ向かって猛然と駆け、左の腕から、鞭のようにしなる力の塊を、金属塊のような強度へと変化させて、危険の素へと、解き放った。
時間が限りなく伸ばされ、彼の視界の全ては遅緩する。その隅っこに、鼻まで外套を巻き付けた髪の長い、恐らくは女が、イヴァルの放った棒状の力の塊を、両の腕で受け止めている。
女の腕から、同心円状の衝撃が、周囲へと逃げ去る。目に見えるそれを、横に一回転する事で受け流した女が、空いた両手を組んで、先端をイヴァルの進行方向へ向ける。女の思惑は、すぐにわかる。
狭い通路を崩壊させ、封鎖させたいのだろう。
「っせるかぁ!」
咆哮。獣のそれなどとは、比較にならない位に、叫んだ。それに負けない位の力を、右の腕に込めて、思い切り、振りきる。
ゴウ! と、猛烈な熱気と風が、イヴァルの背後から彼を飛び越し、それを生み出す巨大な火の柱が、女の側面から、彼女を丸ごと薙ぎ払って、吹き飛ばした。音など、存在しない。全ては、彼によって捻りつぶされたのだから。
自身をまるで獣のようだと思った彼は、獣と同じく、小細工など、一切していない。イヴァルは初めから、”右の腕”を用いて、火の柱を倒していたのだ、火の柱に絡めた力を抜かなければ、それが彼の武器となる事は、言うまでもない。
初めて、全身に漲る余剰な力を、全て足へと循環させた。太古の力だけでなく、彼に宿っているバイタルの礎も、全てだ。だから彼は、風を切り裂く猛烈な音が耳に侵入する事を許したままに、全てを置いて、猛然と駆け抜けた。
心臓が、限りなく膨張するのを感じる。規則性があるかないかなど、全くもって不明だが、とにかく、血液の流れが恐ろしく早まっている事だけは、わかる。
少なくともこの場所において、言葉通りに猛然たる速度を発揮するイヴァルに、追いつける者など、誰一人として、いない。彼は、思い出も、古き友も、おぞましい装置の秘密も、何もかもを置き去りにして、曲がりくねった通路を切り抜けた。
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