4.2 表裏
スィーンの部屋から持ち出した一脚の椅子に掛けて、窓の外を眺めていたら、パン! と、思いっきりはたき付ける音がしたから、ハラルトはびっくりして、弾かれたように肩を持ち上げる。音は、四方の壁に当たって、周囲にとっ散らかったままだ。
見れば、スィーンがハラルトの使っている寝床――姉曰く、ベッドに腰を下ろし、だらしなく大股を開いて、下を向いている。顔こそ緩んでいなかったが、心は緩んでいるのだろう。何しろ、ハラルトが連れてきた獣を見せてから、姉はずっと彼女の部屋に通い詰めて、獣と戯れる時間をたっぷり堪能しているのだから。今日だって、晩の食事を終えるタイミングを見計らっていたかのように、姉が部屋へと入ってきたのだ。
最近は、熱心にハラルトの部屋へとやってきていた姉妹達が、頻度を落として姿を見せる程度になってしまったから、正直に言えば、彼女は嬉しい。
机が邪魔で、獣の姿が見えなくて、ハラルトは身を乗り出した。すると、スィーンの足を縫うようにして、ゼィエヴが回転したり、体を捩ったりして、はしゃいでいる。
交互に、スィーンとゼィエヴを、見る。一瞬だけ、気が緩んだのだろうか、姉の口元がほころんだ。
当初は、こんな事などなかったのに。
ハラルトは、愛くるしい獣を姉に披露した、ある朝を思い出す――。
その日、ハラルトは生ぬるい舌で顔をいじくりまわされて、目覚めた。顔がべとべとになってしまって、最悪の目覚めと言える。だけど、ゼィエヴの顔を見れば、叱責する気になど、到底ならない。とりあえず彼女は起き上がって、水が垂れる不思議な装置で顔を洗い、柔らかいお皿に水をなみなみ注いで、ゼィエヴの前に出した。すると、白い獣はがっつくようにして、あっという間に水をたいらげ、ベッドの上に飛び乗って、はしゃぎだした。
この日のハラルトは、気分が良い。なぜなら、ゼィエヴをスィーンに見せようと、昨日の晩から考えていたからだ。
こうしている間にも、スィーンは出かけてしまうかもしれない。そう考えて、ハラルトは着替えている暇も惜しくて、ゼィエヴを抱えて、部屋を飛び出した。
姉の部屋の扉を、足で叩く。違和感があったから、自分の足を見てみれば、左右でそろっていない、あべこべの組み合わせで、履物をつっかけていたらしい。
「はい」
間断なく、扉越しに、スィーンが大声で応じた。恐らくは部屋の奥で叫んだ姉は、流石に起きるのが早い。
「開けて!」
ハラルトが言い終わる直前で、既に扉が動いていた。朝が早い、というよりも、全ての行動が、まるで砂嵐で舞う粒のように素早い。
「何、それ」
「なんかね、ついてきた」
「……」
スィーンは、扉を足で固定したまま閉口して、チョイチョイと、部屋の中へと手招きした。だからハラルトはすかさず部屋に転がり込んだのだが、興奮していて、うっかり、履物を着用したままに踏み込んでしまう。それをしっかり確認していた姉は、ハラルトが気づいて脱ごうとした瞬間に、ゴツン! と、疾風の拳を頭に落としてきた。
ハラルトは、ゼィエヴを放り投げるようにして地面に放ち、火のついた頭を撫ぜつつ、早速縦横無尽に駆け始めた白い獣を指さす。
「ゼィエヴ」
「え、何が」
「名前」
「名前なんて、つけたの」
情動に身を任せる事など当然ない姉だから、よく見なければわからないけれど、明らかに呆れた様子だと、ハラルトは思った。ただ、ハラルトは見抜いていた。スィーンは、獣からちっとも視線を外さずに、ゼィエヴの素早い動きを逐一観察している。態度とは対照的に、姉が獣に釘付けであるのは、明白である。
決して、愛情がないわけではない。単に、感情が、読みにくいだけなのである。だから、ゼィエヴに釘付けの姉が、獣を抱き上げる瞬間、似つかわしい、と、ハラルトは思う。
それから、スィーンは朝昼夜と、時間の概念を忘れて、突如ハラルトの部屋に出現するようになった。きっちりしている姉にしては、突飛な変化である。言うまでもない事であるが、姉はゼィエヴに強く引き付けられているのであろう。
口元を綻ばせたままに、スィーンはゼィエヴを抱き上げ、ベッド上に仰向けとなる。そうして、抱き着いたり、顔を押し付けたり、欠けた耳を甘噛みしたりと、やりたい放題だ。当のゼィエヴは、あんまりひどく遊ばれるから、スィーンの体を細い前腕でもって、グイグイと押しのける。まるで、ハラルトとトゥァカシーヴの関係を客観的に見ている気分になってしまう。
最近は、異常な光景を散々目の当たりにしてきたから、慣れたと言えばそうなのだが、改めて観察すると、スィーンからは到底想像につかないさまである。
ハラルトは、獣のように真っ白い目で姉をじっと観察していた。それに気づいたのだろうか、ベッドで仰向けになってゼィエヴを弄んでいた姉は、チラリと彼女へ一瞥くれて、ゼィエヴを解放すると、「コホン」とわざとらしい咳払いを一回。
ゼィエヴが、慌てて、ハラルトの膝の上に逃げてきた。
「何」
姉は、べたべたする視線を、ハラルトに向ける。不機嫌なスィルのそれに、よく似ている。
「ううん。別に」
「そう」
些末な会話を終えて、満足したのだろうか、スィーンは膝を空に向けたまんまに、上半身をバタンと、ベッドに投げ出した。反力で少しだけ跳ねた姉は、両手を大きく広げる事でベッドの全てを占領しつつ、ぼーっとした目を天井に向ける。
いきなり、姉の生気が抜けたように見えた。虚ろなまなざしは、もしかすると、天井を見ていないのかも知れない。
「どうしたの」
「ううん。何にも」
今の今までの姉からは思いつかない程に、落胆した調子を見せつけてくる。そんなにゼィエヴが逃げた事が、口惜しかったのだろうか。
膝に乗った白いもこもこが、純潔の黒い丸でもって、ハラルトの目を見た。彼女は、ゼィエヴを持ち上げて、スィーンが占領したベッドの、僅かなスペースにお尻を乗っける。
姉が、素早い動作で、曲げた足を拳二個分ほど脇にずらしたから、ハラルトはちょっぴりお尻を詰めた。
「下、どうなってるかな」
「下って?」
スィーンが、虚ろなまなざしをハラルトに向けて、「地上」と、継ぐ。だから彼女は、「変わらないと思うよ。何もかわらない」と、ゼィエヴを胸の奥まで来るくらいに抱擁して、答えた。
「あんたは、戻りたい?」
笑って、ハラルトは言う。「どっちも好き。どっちにもいたい」
「何だ、それ」
珍しく、スィーンも笑った。
それから、お互いにしばらく無言のままに、ゼィエヴを抱きしめたり、いじったり、澄んだ夜空の下、窓の外でちらつく街の明かりを眺めていたりした。でも、哀愁漂う空気を変える事なんて、誰に出来る筈もなく。
スィーンが、扉の前で靴をつっかけながら、ハラルトへ目をくれずに、言う。
「また明日ね」
だからハラルトは、「うん」と、呟いた。ちゃんと聞こえただろうか。それから応答が返される事なく、開かれた扉の隙間から、彼女の言葉は吸い込まれて、姉と共に、外へと溶け込んでしまう。
バタンと、お別れを告げる音がしてから、より一層静まり返った部屋を見回せば、住み慣れた部屋は、なぜだか、いつもより質素に感じた。部屋から勢いが抜け出たとわかったのだろうか、ゼィエヴは、大人しく座っている。
いつも楽しげで、意欲的に振り回される尻尾だって、白い体に巻き付いて同化し、その境目を曖昧にしていた。
全てを生み出した、大地。足元に広がっている、地上。ハラルトの、生まれた場所。そして、死ぬべき場所。スィーンが残した言葉が、ハラルトにそれを思い出させる。彼女は、人生において、かなり短い期間しか、天空の庭園での生活をしていない。それでも、想いを馳せずには、いられなかった。
勿論、地上が恋しいという気持ちは、ある。しかし、それ以上に、天空の庭園へ抱いた思いが、強い。それが強固に心へ根付いたからこそ、彼女は、昼夜問わずに姉がやってくる事を、知ったようなものだ。即ち、規則性のない姉の行動を知ったのは、ハラルトが部屋から出なくなったからに、他ならない。
確かに、空の庭は、有り体な言葉では表現できない位に、素晴らしい環境が整っている。そして、人々を満遍なく、満たす。大地ではあり得ない事だ。だから、姉の『戻りたい?』という質問に対して、ハラルトは嘘偽りなく答えた。回答に、含みなど、一切持たせていない。彼女は、地上も、空も、愛している。多くの人々が暮らすそれらは、ハラルトにとって、どちらも平等に、尊い存在だ。
しかし、比重は、大地へと傾いている。
利便性の話ではない。
暮らした期間に起因している訳でもない。
景色だとか、肌に合わないだとか、そういう話でも、ない。
――天空の庭園の異常性が、彼女の鼻につく。
厳密にいえば、場所が気になる訳でなく、この場所に住む人々が問題だ。空の人々は、完全無欠な揺りかごに守られて暮らす内に、心を”歪めて”しまったらしい。大地の人々と比べれば、一目瞭然だった。
例えば、街中。
獣を売っていた、緑の帽子をかぶった気味の悪い男のように、誰もかれもが、先ず一番に、ハラルトの手にした通貨を見て、鼻で笑う。時には、いきなり体を足蹴にされて、道の真ん中に転げてしまう事だって、あった。勿論、周囲の人々は、そんな些末な話には気が付かない。なぜなら、自分の姿しか見えていないし、底なしの欲求を満たすのに、精一杯であるから。
例えば、街から少し外れた、静かな場所。
異臭が漂っていた。見れば、山積みになった血肉の塊が大きな穴へと押し出されて、落下してゆく。その傍には、見たこともない獣が、透明の檻に入れられており、人々は、たかるようにして、獣をなぶり殺していた。聞けば、食べる為ではなく、道楽として行われているらしい。大量の死骸は、地上へと遺棄されるそうだ。
例えば、全ての人々。
皆が、口を揃えて言う。『地上は、腐敗している』と。語る口ぶりは、さも忌々しげであり、目つきは、血に飢えた獣のように、鋭い。
挙げれば、きりがない。
初めの頃こそ、天空の庭園を散策する行為は、楽しくて、仕方がなかった。だが、散策を繰り返すたびに見えてくる、この場所の異常性を厭わしく思って、うんざりしてしまったのだ。だから彼女は、しばらく外に出ていない。出ようとも思わない。それに、姉妹にだって、出て欲しくない。
どのような存在にも、表裏がある。人々を生かす大地が厳しいように、人々を満たす空の庭は、心を歪める。
空の実態を思い起こしたハラルトは、常に変わらず柔らかいベッドの上で横になり、膝を抱き寄せる。白いベッドの無機質な抱擁は、マオテのそれとは比べものにならなかったが、幾らかは、彼女の心を癒してくれた。それでも、考えれば考える程、大地への思い出が溢れ出て来る。だから彼女は、この場所にマオテがいれば、どんなに良かっただろうと思った。
医者の青年。彼の抱擁が、何よりも欲しい。彼に撫ぜられて、いつも気恥ずかしくて、逃げ出してしまっていたが、今でこそ、どんなに勿体ない事をしてしまったのだろうかと、ハラルトは悔いた。
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