3.5 ゼィエヴ

 天空の庭園にやってきてから、あっという間に、数日が経った。

 いつものように、遅く目覚めたハラルトは、目をゴシゴシと、強くこすりながら窓を開け、太陽の光を部屋に取り込む。すると、生き生きとした風が、我先にと舞い込んで来る。ちょっぴり強い風は、大地のそれに比べると、平均的にひんやりとしているが、今日は幾らか気温が高いようである。

 ここ数日間、ハラルトは、姉達とは別の部屋で寝泊まりしているから、人恋しい。が、それは、眠るときに限る。姉達が、ハラルトの部屋に遊びに来たり、日課となった町の散策に付き合ってくれたりするから、今日も愉快な一日になると考えて、目覚める瞬間は一等、心が躍る。

 空の庭は、噂通り、なんでもあった。特に仕事をしなくても、部屋にやってくるお喋りな男性が、食べ物を持ってきてくれたり、物を手に入れる為の通貨を持ってきてくれたりした。だからこそハラルトは、日課として散策をする訳だが、もし、何もしなくなってしまったら、体がなまってしまうし、退屈で仕方がない。

 早速、ハラルトは、部屋に幾つかかかっている、色とりどりの衣服の内から、一つを手に取る。火よりも幾らか薄い、橙色の衣服だ。袖が長く、ワンピース、という名前の形らしい。建物の窓に使われている透明の板に反射して、自分の姿が映りこむと、炎が舞っているように見えるから、彼女は、これがお気に入りだった。

 オンボロの家とは比べものにならない位、しっかりした扉を開いて、ハラルトは外へと出る。まずは、一つ隣の扉を開けると、中には、スィルとトゥァカシーヴが座って、台の上で、衣服をいじくっている。

 衣服を繕うその行為は、裁縫というらしい。地上にいた時にも、狩りに使う外套で、それをやっていたから、多分二人は、衣服を繕うのが好きなのだろう。

「あらー、どうしたのー?」

 普段と変わらない甘ったるい声で言ったトゥァカシーヴは、手をピタリと止めて、ハラルトを見た。ハラルトは、開きっぱなしにしたドアに寄り掛かって、「おはよう」と挨拶をする。

 すると、スィルの目が鋭くなって、

「今、起きたの?」

 と、やや低い声で応じたものだから、ハラルトは太陽の位置を思い出して、少々後悔する。何しろ太陽は、とっくの昔から、真上にいた。

「どこ行くの?」

 トゥァカシーヴが手を止めたまま、あたかも不思議そうに首を傾げて、聞いてきた。この時ばかりは、姉が裁縫をやっていて良かったと、ハラルトは安堵する。もし、何もしていなかったら、きっと彼女は、剛力を駆使する甘ったるい姉に、蹂躙されていたに違いない。

「散歩。じゃーね」

 扉から離れたら、半分くらいまで自然に閉まった後、速度をぐっと落として閉じ切った。

 不自然な動きを最後まで見届けてから、ハラルトは、その扉から二つ離れた扉の前まで移動し、そっと開けて、中を覗く。スィーンが、椅子に座って、湯気の立ち上がる飲料を啜っていた。

 沈着な姉が、徐に頭を向けてくる。

「中。入んなよ」

「うん」

 素直に応じて、ハラルトは扉を静かに閉めて、スィーンの横に置いてある椅子へお尻を落とした。ところが、ハラルトの部屋には置いていないそれは、地上のものと比べると、変わった形をしていて、真っ白く、不思議な材料で出来ているものだから、つるつるしてしまって、お尻が引っかからない。どうにも居心地が悪いそれは、上に座った者を前へと押し出そうとしてくる。だから彼女は後ろを向いて、大股を開いてみた。するとようやく、お尻は上手に収まった。

 いつか見た、水色の種のような丸っぽい椅子の背もたれを弄って、ハラルトは言う。

「ねえ。散歩いこ」

「これ飲んでから。あんたも飲む?」

「いらない」

 それとなしに、足をブラブラとさせて、スィーンを急かす。しかし、スィーンは緩慢な動作で、何度も何度も、容器を口に近づけているから、ハラルトはまどろこしくなって、部屋に引っ掛けてあった衣服を、早速漁り始めた。

 しばらく選んでいると、その中から、ひと際目立つ、濃い夜色の上下を見つけたから、無理やり引っ張り出して、台の上に置いた。静かな夜闇とよく似た色のそれは、きっと、常に冷静で無口なスィーンに、ぴったりだ。

「それ、着るの?」

 振り向いたら、スィーンが目を細めて、頭を前に突き出していた。

「うん。似合う」

 目線を夜色の衣服へ戻して、背中を挟んで、ハラルトは言った。

 しばらく姉は閉口して、物音ひとつ立てなかったから、ハラルトはすぐに退屈になってしまって、とうとう台の上に腰かけて、空中に浮いた足を、再びブラブラさせた。

 その内に、ズルズルと啜る音が止む。

 コトンと、飲み物が入った容器が、台の上に置かれる。待ちわびた瞬間は、意外と早くに来たものだから、ハラルトは夜色の衣服を左右の手にもって、スィーンに迫った。すんなりと受け取ってくれた姉は、「着替える」と告げてから、今着ている衣服を脱いで、綺麗にたたんで、寝床に重ねると、素早く上下を纏ってから、ハラルトの前に立った。いつでもそうであるが、スィーンは仕事が早い。

「どこいくの」

「わかんない。コアは?」

「いないよ。朝、部屋に来た。荒らして帰った」

 見るまでもなく、部屋はピカピカである。コアがいつ部屋から出て、どこに姿を消したのかはわからないけれど、ハラルトは、これ以上何も聞かない事にする。聞いたところで、スィーンが手早く部屋を片付けて、コアはさっさとどこかに逃げてしまったに決まっている。

 ハラルトは、やる事成す事素早いスィーンの真似をして、さっと部屋から飛び出した。すると、いつの間にかスィーンが後ろにいたものだから、ちょっぴり驚いて、悉皆敵わないと認め、心の中で燃えていた対抗意識を、あっという間に吹き消した。




 ガヤガヤと、街の人々が生み出した騒音が四方八方から迫って来て、ハラルトの耳を貫いてくる。地上とは違う意味で生き生きとした街に出ると、いつもこうだから、ハラルトは早い段階で慣れていた。

 素朴な大地と比べて、空の庭は全てが洗練されている。右には、延々と続く一本道に、無数の台が並んでおり、その上を、カラフルな食物が、彩っている。左はと言うと、窓にはまっている透明な板の向こう側に、色々な形の衣服が勢ぞろいして、ハラルトを楽しませる。雲など全く存在しない空から到達した真っ白な光が、垢抜けた街の全てを輝かせるから、彼女は、余計に心が舞い踊るのだった。

 何度来ても、街は飽きさせない。勿論、大地だって同じ事だが、比べれば、空の庭は、あらゆるものが自己主張をしている。スィーンと散策に来たのは、これで二回目だったけれど、前を歩く姉は、こんなにも華やかな景色の只中にいるというのに、何にも興味がないのだろうか、今回も、ちっとも周囲を見ていない。何やら、遠くの方を眺めて、姉にしては珍しく、ダラダラと進んでいる。それでも、誰かと共に街を散策できるだけで、ハラルトの楽しみは倍増する。一人で歩き回るよりも、愛するの姉妹と歩く方が、楽しいに決まっているのだ。

 とはいえ、ハラルトは、自分ばかりが楽しんでいる事に気付いてしまったから、少しだけ気落ちする。付き合って貰っていると、わかってはいるが、せっかく時間を共にしているのだ、姉にだって、愉快にして欲しい。それに、姉が楽しいと、ハラルトだって、嬉しい。ところが、スィーンが楽しいと思う事は何だろうかと頭を捻っても、彼女にはわからない。それだから、後ろからスィーンの衣服をちょんと、軽く引っ張った。

「ねえ、スィーンは何が好き?」

「何って?」

 姉は、振り返る事など一切せずに、呟くように言った。あんまり小さい声だったから、周囲の雑音にかき混ぜられてしまって、耳を澄ましていなければ、聞こえなかったところだ。

「何って、楽しいこと」

「うーん……」

 スィーンは、相変わらず一点を見つめたままに、唸りだした。

 地上にいた時、スィーンは何が楽しかったのだろうか。良く見ておくべきだったと、ハラルトはちょっぴり悔やんで、引っ張った衣服の端っこから、そっと力を緩める。すると、濃い青色に輝いているそれは、温かい風に少しだけなびいて、元あった位置に落ち着いた。よく見れば、摘まんでいた場所が、ちょこんと、角を作っていた。

 ハラルトは、こっそり直してあげようと思って、角を人差し指で軽く押してみる。その際に、スィーンの体に当たったものだから、気付かれたと思って焦り、姉の頭を見上げたが、全く気付いていないのか、ずーっと遠くを見たまんまだ。

 遠く。その視線は、さっきから変わっていない。

 角が元に戻った事を確認したハラルトは、スィーンの横に並んで、目線に捉えられている何かを、追っかけた。すると、ちょっと先まで行った所に、狩りで使うものとは少し違う、比較的大きい檻が、山積みになっている。

「ねえ、あれ、何?」

 ハラルトは、衣服のポケットに手を突っ込んで歩くスィーンのそれを、無理やり引きずり出して、握った。姉は、「何だろうね」などと言いながら、ハラルトの手を握り返して、徐々に進路を変更する。

 行く先は、勿論、檻なのだろう。

 近づくにつれて、その全容が明るみになってくる。檻の周りには、ちらほらと人がいたが、高い所に積み上げられた檻の中身は、何の影にもならずに、良く見えた。透明の囲いの中で、白いものが動いている。

 更に近づけば、やはり獣だったらしい。食べるのだろうか。

 目の前で横並びになって、大きな声で喋っている人達の、小さな隙間を見つけて、スィーンはそこへ滑り込む。ハラルトは、スィーンよりも小さいから、姉の前に立って、頭を縦に並べて見物した。

 恐らくは、窓と同じ材質の、透明な檻。ハラルトが一人入ってパンパンになってしまいそうなそれが、無数に積み上げられて、行列を作っている。いつか見た、狩りの獲物とは異なる、純白の毛を蓄えた、鼻の長い獣が、沢山入っていた。沢山と言っても、一つの檻に一匹が、大量に並んでいる、というだけであるから、窮屈な印象は全くない。寧ろ、四本足の獣は、しっぽを振りつつ息を荒げて、人々の方へ自ら近寄ろうと、前足を持ち上げたままに、上体を壁へと寄りかけている。要するに、快適を持て余しているのだろう。

 半開きになった口からは、白い牙が見えていたが、凶暴な印象など、全くない。

 ハラルトは、姉妹に対して抱いている愛情とは、やや違う愛情が芽生えたのを感じた。何しろ、動く白い獣は、無条件に愛くるしい。今まで見てきた獣とは、比較にならない位にだ。とにかく、初めての経験を前にして、ハラルトは、興奮した。

「見て、見て!」

 白い獣の一挙一動をつぶさに観察して、ハラルトは大声をあげた。周りの人々だって、興奮しているらしく、ハラルトよりも大きな声で叫ぶものだから、彼女は、少しくらい良いだろう、と思う。

 騒ぎすぎると不機嫌になるスィーンだって、今日ばっかりは特に注意しないから、殊更だ。

「なんで並べてるんだろうね」

 冷静な一言だが、スィーンの声には、いつもの沈着さが感じられない。常に見聞きしてきたから、ハラルトにはわかってしまう。絶対に、姉も興奮している筈だ。飛び跳ねながら、そんな事を考えて、大声を上げていたら、檻の前に置かれた椅子に腰かけていた男が、自身の緑色の被り物を手に取って、パッと素早く払ってから、ハラルトに近寄って来る。

 怒られるのではないかと思ったから、ハラルトは跳ねる勢いを小さくして、大声を噤んだら、割と歳を取っているように見えた男が、ハラルトの二歩前辺りで止まって、しゃがんだ。

「お嬢さん、こいつは珍しいだろう? 腐った地上から持ってきたんじゃねぇ、正真正銘、空で育った獣よ」

 男は、細くて、しかし筋肉質な、たくましいという言葉からほど遠い体を気味悪く揺すって、かすれた声でもって、言った。『腐った地上』という言葉が、ハラルトに引っかかって、彼女の心を、赤熱色に染め上げた。

「腐ってないよ」

 最早、怒った素振りすら見せる余裕がなくなってしまって、ハラルトは真剣な顔で、気味の悪い男に、吐き捨てた。次の瞬間、男の顔がぐにゃっと歪んで、この世のものとは思えない邪悪な笑みが、張り付いた。

「んぁ? ああ、お嬢さん、ちゃんと地上の事知らねぇんだな、姉ちゃんにしっかり教えて貰いな」

 ふざけているとも、笑っているとも言えない絶妙な声音で、男は言った。ハラルトには、男の気味悪さよりも、彼を覆い隠す何かの方が気になる。

 何かの正体を問われても、ハラルトには説明できない。しかし、男が真剣でないのは、確かだ。何しろ、目が濁っている。獣のそれよりも、姉妹のそれよりも、ウトゥピアのそれよりも。一目見れば、わかる事だった。

「それ、いくら」

 スィーンの冷え切った声が、ハラルトの真っ赤な心を冷まして、彼女を引き戻した。お陰でほんの少しだけ落ち着けた彼女は、背にぴったりとくっついた姉に、後ろ手を回して、両の腿をむんずと、力強く掴んだ。

 男が、緑の被り物を頭に戻す。その際、チラリと、ハラルトの握った通貨を見た。

「ああ、お嬢さん、これじゃ買えないよ。もっと持ってきな」

 不気味な笑みを顔一杯で表現していた男の声は、全く笑っていなかった。彼は、ハラルトの前から、すり足で踵を返した。

「行こう」

 スィーンの腿に食い込ませたハラルトの手を払って、姉はくぐもる声で言って、肩に手をかけてきた。

 今までに体験した事がないくらいに悔しくて、無念で、ハラルトは真っ白になってしまって、姉に引っ張られるまま、惰性でその場を後にする。心なしか、周囲の人々が静かになっていた気もしたが、きっと気のせいなのだろう。天空の庭園の人々は、自分の事しか見ていないのだから。


 しばらく無言で歩いて、先導するスィーンは、街のはずれにある、石で出来た横に長くて低い椅子に、ハラルトを導いた。重くなってしまった腰を落とすと、姉も無言で、握った手を一個分あけて、腰かける。

 ハラルトの膝に、そっと手が置かれる。あらためてみると、姉の手は、ハラルトよりも一回り大きかったが、思ったほどでもなく、自分のそれと同じ位に、脆そうだった。

「そろそろ帰ろう」

 いつもと変わりない口調で言った姉は、天へ目をやった。目線を真似したら、空は、ハラルトが着ている橙色のワンピースと近い色に染まりきって、無数の細い雲を蓄え、星々を散りばめ始めていた。

 じきに、夜がくる。

 結局ハラルトは、姉の好奇心を満たす事が出来ず、愉快なお喋りに興じる事も出来ず、奇妙な男の不気味な心に翻弄されただけであった。その結果が、落ち込んだ心に反映されている。たくましい姉に及ばない事実を差し引いても、彼女は、自分がいかに無力かを思い知って、情けなくなってしまい、口を閉ざすしかない。

 天空の庭園は、なんでも手に入り、人々の欲を満たすのではなかったのか。

 そう思っても、美しい庭は、自分の心が生んだ影までは、取り払ってはくれない。だからハラルトは、天空の庭園への認識を改め、自分自身が強くあらねばならないと反省して、今度こそ、姉に笑ってもらおうと思いなした。




 不機嫌だった。家の前に到着しても、それは変わらない。ハラルトは、遠くから自分の部屋を眺めながら、地面を蹴っ飛ばした。足元に石が転がっていたのだろうか、カチっと小さい音がして、しばらく経って、遠くでも、硬い物の衝突する音が、生まれた。

 白い塔は、そんな事などお構いなしに、街の明かりに照らし上げられて、夜にもかかわらず、燦然と瞬く。普段ならば、帰宅した際にこれを目撃して、ハラルトの心は満たされる。が、今日に限って、そんな事はなかった。

 もう一度、石のタイルに乱暴しようと思ったところで、ふと、とどまった。スィーンを見習って、もっと深沈とするべきだと、思ったからだった。

「ほら、部屋いくよ」

 スィーンは、ハラルトを追い越して、振り返った。姉は、動きも顔つきも、端然として、かつ、平静としていた。

 黙って頷いて応じたら、スィーンは背を向けて、颯爽と遠ざかってゆく。後腐れがあったから、ハラルトは、素直に追いかける事が出来ずに、その場で停滞する。愛する姉に迷惑をかけるとわかっていても、足が重くて動かなかった。

 冷え込んできた。風が、ハラルトのワンピースをはためかせた。長い袖だったから、寒さをちょっぴりだけ緩和したが、体の芯まで冷やそうと襲い掛かってくる全てを、完璧に防ぐなど、無理である。故に、ハラルトは身震いをする。それでも、移動しようという気持ちには、まだまだ足りなかった。だから彼女は、冷たくなったワンピースが体にくっつかないように、なるべく緩慢な動作でもって、手近にあった石の段へとお尻をひっかける。背面に大きな木が生えていたからだろうか、強い風が、彼女の体温を奪い去る手を、弱めた。

 そうこうしていたら、とうとう、スィーンの姿が、ハラルトの視界から消失する。

 一人になりたかったハラルトは、姉がこの場から去った事に、若干ばかり安堵し、尚且つ、自分を嫌悪した。心に根付いた仄かな暗がりの為に、体を動かしたくないとわがままを通した挙句、愛する者がいなくなった事に安堵までしているのだ、そこに素直さなど、微塵もない。大地にいたときに、こんな気持ちはなかったから、天空の庭園は人の心を蝕むのかと、この場所に責任転嫁をしたら、殊更に自分が醜く感じられて、いよいよ気分が悪くなってしまった。

 口を閉じていたにも関わらず、嘆息が喉の奥を押し広げて、せり出した。

 ハラルトは、両の膝に肘を置いて、突き上げた手のひらに、顎を置く。小さく丸まった格好になって、やや下に見える、遠くの街に焦点を合わせたら、雑多な光がかき混ぜられて、赤白黄色のどれでもない、味気のない景色に姿を変えてしまった。

 その中で、ポツリと目立つ、点が動いた。点は、うんざりするほどつまらない景色の中で、これ見よがしに踊り狂うから、ハラルトの心が、彼女の瞼を、無理矢理にこじ開けた。

 暗がりでいっとう際立った白い点が、踊り狂いながら近づいて来る。おかしな動きは、ハラルトの心を鷲掴みにして、彼女に注視を強制するものだから、少しも目を離さないでいると、かなり大きさを増した。

 夜闇の中、踊り狂いながら近づいてくる謎の白い点が、一体何であるのか、その正体が、ハラルトには十分わかる。それには、見覚えがあった。

 日が高かった頃に見た、無数の檻。

 その中で人々に愛くるしい姿を見せびらかしていたものと、同じ形をした、真っ白い獣だった。

 奇妙な男は、『空で育った獣』だと言っていたが、あらゆる欲求を満たす至高の空には、このように、獣がフラリと出歩いているらしい。当然、初めて目撃した訳だが。

 長いしっぽが、ただならぬ勢いと速度で、左右に振り回される。黒々とした瞳が、周囲の僅かな光を反射させている。左の耳が半分以上欠けた白い獣は、荒い息遣いのままに、ハラルトの前にやってきて、後ろ足を小さく纏めて、座った。

 ちょっとだけ開いた口から見える牙が恐怖を与えてくる。だが、非凡な愛くるしさを纏った獣は、怖気をハラルトから払拭した。

 手を伸ばす。

 指先が、白く、柔軟な毛先に触れる。温かい。

 更に、手を伸ばす。

 手のひらが、ふんわりとした毛を押しつぶして、獣の芯に触れる。見た目ほどでなく、体格が華奢である。

 手を、前足の下に滑り込ませて、持ち上げる。

 至極軽い獣は、いとも容易くハラルトの力でもって宙に浮かんだ。そのまま、彼女は膝の上に、もこもことした生き物を置いてみた。獣は、全てをハラルトに委ねている。

「どうして、ハラルトのとこ、来たの」

 別に、獣と会話しようと口にした訳では、勿論ない。謎の獣が、ハラルトを勝手に喋らせるのだ。

 真っ黒い瞳が、彼女の真正面を捉える。つぶらなそれの奥を覗き込んで、ハラルトは、立ち上がった右耳と、大きく欠けた左耳の間――頭頂部をなぞって、姉達が彼女にそうするように、撫ぜてみた。すると、彼女の心に巣食った仄暗い暗澹が、すぐさま風化する。代わりに舞い込んできたのは、獣のように真っ白く、温かい、愛情だった。

 すっくとお尻を持ち上げて、真っ白い獣を胸の中心に押し当てるようにして、ハラルトは、強く抱き着いた。目を固く瞑って、鼻先を獣にあてて、思い切り息を溜め込んだら、冷たい空気が毛の中で暖められて、獣の、らしい香気と共に、鼻腔をすり抜けてゆく。

 この時点で、決定した。


 ハラルトは、両腕で白い獣を慎重に包み込んだままに、スィーンの軌跡をなぞる。部屋の前まで来てから、足で上手に扉を開けると、早速、獣に水でも飲ませてみようと、捻ればそれが垂れ流れる、不思議な装置の取っ手を、回転させた。

 葉っぱでないが柔らかい、ここでは一般的な、妙なお皿に水を溜め込んで、獣の前に出す。白い塊は、鼻をひくひくと、極めて小さく動かして、それから、水に舌を伸ばした。

「ゼィエヴ。今日からお前は、ゼィエヴ!」

 適当な名前を見繕って、ハラルトは獣に命名した。わかっているのかいないのか、彼女の声音を受け取って、獣が素早く頭を上げた。

 スィーンは、何と言うだろうか。この愛くるしい獣に冷静を失わされていたのだ、きっと、見れば喜ぶに違いない。今日一日の散策こそ、険悪であったが、思わぬところで獣が手に入ったし、迷惑をかけてしまった姉に恐縮していた事も重なって、切な歓喜がこみ上がる。


 心を沸き立たせる喜びが、ハラルトの体躯を操って、彼女を寝床の上で跳ねさせた。横向きに、繰り返し跳んでいたら、段差になった寝床の下で、ゼィエヴが大人しくこちらを見ている。たぶん、水を飲み終わったのだろう。明日は、食事を与えなければならない。

 寝っ転がって、何を食べさせようか考えているうちに、眠気がハラルトに忍び寄ったから、彼女は抵抗する事も忘れて、やがて、心地よさに沈んだ。

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